魔女は囁いた
小姓のギニオンは、同じ立場にある者の常として、噂話を好んでいた。高貴な方々の下世話な話をちょっと聞きかじっては、それを知らない者に鼻高々に広めていく。それは秘密を暴露するのと同じく、彼の小さな楽しみなのだ。
彼は主人のハッセンブルク大公が様々な用で彼を王宮中で駆け回らせているときでさえ、聞き耳を立てることを忘れない。昼過ぎから急激に広まった男爵令嬢の殺害事件も、早目に話を拾えたのは大いなる幸いだった。自分だけが知っていたという優越感がささやかながら満たされた。朝に厨房でこき使われたことも、帳消しにしてもよいだろう。
ただ、彼にとっては娯楽であるはずの噂を煩わしいと思うこともあった。噂は一定の線の外から好奇の視線を送るのが最上であって、その内に入るのは本意でないのだ。
噂が彼の態度を変えさせることがあってはならない。まさにこの困った癖を持つ少年が陥っているのは、そんな状況である。
ギニオンは、扉の前で途方に暮れたように立ち尽くす。その扉の向こうに、彼が主人から預かった手紙を届ける相手がいる。
ハッセルブルク大公令嬢、と周囲から呼ばれている人だ。その人こそが、ギニオンが部屋に入るのを躊躇わせる張本人だ。
あぁ、嫌だ、なんで僕がこんなことをしなくちゃならないんだ。
一瞬だが、手紙を破り捨ててしまいたくなった。だが。
――絶対に渡せ。至急だ! 今すぐだ! 部屋を押し入ってでも本人に渡すのだ!
白髪の老人がキチガイじみた表情で甲高く叫べば、ギニオンに断ることは許されない。
重い足を引きずってここまで来てしまった。
覚悟を決して、今度こそ扉を叩く。
すると白い扉の隙間から、くすんだ白い髪が別の生き物のように這い出てきた。細かな縮れ毛はごわごわとして、ブラシで梳かせるかどうかわからない。何日も湯浴みをしていないようなひどい臭いまで残っていた。
髪の隙間から、疲れきった女の顔が段々と浮き出てくる。
「あらぁ、ギニオン。いらっしゃい。どうぞ?」
目の下の隈を化粧で隠しもせず、皺をさらに深めて女はギニオンを招き入れた。
「はい、わざわざありがとうございます。お嬢様」
女はとうに「お嬢様」と呼ばれる年ではなかった。それでも、それ以上にふさわしい呼称を持ち合わせていなかったのだ。彼の目の前を歩く女は結婚をしないまま、老いているのだから。
背中に結びもしないで垂れる白い髪が、歩くたびに不潔な風が流れてこようとしているように思えて、背中を向いているのをいいことに、そっとギニオンは鼻にハンカチを当て、そこから息を吸い込む。
「ごめんなさいねえ、散らかっているのよ」
大公令嬢という地位にふさわしく、女には王宮内に広い部屋があてがわれている。王族の血も引いているわけだが、まるで見る影もない。
本は散乱し、見知らぬガラス器具の破片がテーブルの下に散らばり、時代遅れのドレスが脱ぎっぱなし、出しっぱなしの体で、何着も投げ出されている。女が身につけているのは、下着に近い、薄手の白いネグリジェのようなものだった。使用人が片付ければいいのだが、令嬢は侍女を置きたがらなかった。父親が心配して置いても、すぐにやめさせてしまう。
「お嬢様、実は旦那様がお嬢様にお手紙をお渡しするようにと」
それを聞いた途端、女はスリのように小姓の手から手紙をひったくった。元は育ちがいいギニオンは野生動物に似た機敏な仕草に目に見えて硬直した。
女はペーパーナイフさえ使わず、封筒をちぎるばかりにびりびりと中身を取り出してしまった。
その様を失礼のない程度に一見して、ギニオンはやはり自分の印象も、聞いてきた噂もある程度正確だったのかもしれないと思い始める。
元々苦手な人だった。
自分の体にまとわりつくような、這う視線に晒されて、自分がマリオネットになった気分にもなれば、誰だってそう思うだろう。
「ふふっ。なあに、お父様? 散々放っておいて、何をいまさら」
ギニオンの前で、古い令嬢は手紙と気味の悪い会話をしていた。
「今回だって、お父様は私が何もしないでも、許してくださる。私の望みを叶えてくださる……。そして、わたくしは快楽を得る。まだまだ、死ぬことなど許しませんからね。お父様なんて、わたくしが死ぬまで、その尻拭いをしていただかなくては。ねぇ、哀れな娘をさらに憐れんでくださるでしょう? 誇りという言葉を頭にこびりつけている可哀想なお父様だもの。わたくしを許せないと思うでしょう? でも、わたくしを殺せない。外聞が悪いのですものねぇ」
ほほ、と令嬢は笑う。しかしそれは、数十年前ならば楚々として、という表現がふさわしかっただろうが、年経た今では、枯れ木のざわめきのようなもので、何の感慨も抱かない。
ギニオンは、今回も何も聞かなかった振りをする。
女は手紙を相手に話しかけるのは毎度のことだからだ。それも、およそ、非現実的なことを。いや、非現実でなければならぬ。
ギニオンが聞いた噂というのは、奇行を繰り返す異常な令嬢がとある秘密結社に所属して、時折、人の生き血をすするというもの。
まったく戯言だと聞き流してもいい。だが、今までも幾度か、本人の様子をみるたびに、段々とおよそ得体のしれない力が高まっているようである。以前はもっと干からびた印象だったのに、肌が段々と白く、艶やかになっていくような……。それこそ、人の生き血から、生気を奪っているかのごとく。髪も、もう少し茶色っぽい色だった。最近は次第に色素が抜けていくようであった。
少年は、勇気を振り絞って、悪しきものに尋ねた。
「お嬢様、お返事をお持ちするように言われております」
「今回もないわ」
女がきっぱりと断言する。
「自分で来られない臆病なお父様に、かけて差し上げる言葉などございませんもの。伝言もお断りです」
「ですが」
「ですが、何?」
彼女は一歩だけ、少年の立つ位置に近づく。ギニオンは自分で思うよりも前に後ろに下がった。
「逃げたいのかしら、ギニオン?」
「そ、そんな、滅相もございません……」
むんずとギニオンの形のいい顎が乱暴に掴まれる。女とは思えないほどに荒々しい力だった。
「ねぇ、ギニオン、ギニオン、ギニオン、ギニオン、ギニオン、ギニオンっ」
ギニオンは確かに名前を覚えられたいと願った。だが、それは〈ギニオン〉でなければよかった。こんなに急かされ、狂ったように呼ばれたいとは願っていなかった。
広い部屋の中、顎を掴まれたまま、頭を振られながら、女は歩き回る。壁に当たるたびに、方向を変えられ、机やソファに当たるたびに彼は無意識に避けた。
裸足だった女の足がガラスの破片で血だらけになったあと、まるでゴミのように寝室に放り込まれる。
シンプルなベッドの上にはぽつんと、男物の帽子ケースが一つのっている。
ギニオンの意識はもはや混濁していて、何も考えられる状態ではなかった。恐怖でさえも凍りつき、嵐のようなこの瞬間が早く過ぎ去っていくのを願うのみである。
「ねぇ、ギニオン、知っているかしら? わたくしね、あなたがずうっと気になっていたの。お父様に何度も何度もおねだりしたのよ。そしたらね、やっとくれるみたい。だから、わたくし、ずっとやってみたいことを実行しようと思って。あなたにね、〈魔法〉をかけてみようと思うのよ……」
女の手がギニオンの白く細い首に当てられる。獣のような熱い吐息が首にあたって、ギニオンは呻いた。抗うように、手はあちらこちらをまさぐる。
お願いです、助けて、旦那様。
少年は女の言うことをもはや半分も理解できていなかった。来るはずのない助けを待ちわびている。
彷徨っていた右手があるものを掴む。箱だ。色々と動かすうちに、ぱかん、と中身がぶちまけられる。中に入っていたものが、ごろごろとギニオンの真横にやってきて、目を見開いたまま、微かな微笑みを浮かべていた。
「いけない子だわ、ギニオン」
ギニオンの幼い心臓は限界まで縮みきった。彼にとって、それは自分の未来の姿であるように思えたからだ。
「わたくしの秘密をのぞき見てしまったなんて、小姓失格ではなくて?」
女が笑っている。
ギニオンはずっと凝視したままだった――目の前で転がっている、自分の首を。
「よくできていると思わない? あなたに似せて作ったのよ――」
彼の時は、そうして、永遠に留め置かれた。




