午後四時は彼らの愛するティータイム
「四時だ!」
カロは置時計の針を見て、叫ぶ。「僕、これからお茶会なんだ。ちょうど曲が終わってよかった! じゃあまた次回だ、ヴィレム! さらばっ」
呆然とする音楽教師をあっけなく置いて、カロ王子は私室のドアから廊下へ弾丸のごとく飛び出した。
人がいないことをいいことに、彼は踊り場で遠心力による華麗なカーブを決めながら、一段飛ばしで軽快に階段を駆け下りる。
王宮の顔とも言える豪奢な廊下ではいくらか喜びを抑えながら、ゆっくり歩を進める。
幸いなことに、カロの大柄な体や鋭すぎる目つきに密かに眉をひそめるような貴族にも出会わなかったし、出自に似合わない彼の行動を咎めるフェルメール侍女長のような人物にも出会わなかった。
廊下の金の装飾にも、シャンデリアや左右に並ぶ磨き上げられた銀の燭台にも、何の感慨も湧かずに、すべてを通り抜けた。
彼の横顔には先ほどまでとはまるで違う生気に溢れていた。黒い瞳はてらてらと輝き、薄い唇は喜びをたたえている。すんなり伸びた手足は、彼の意志を表すようにぐいぐいと体を前進させていく。威圧感を与えるその風貌も、知る人が見れば、大きな変化が訪れているのであった。
彼は本館の裏手に出た。大きく開けた視界に真っ先に飛び込むのは、緑の丘の上にある小さな離宮である。視線を下げていけば、そのふもとに神話の人物たちが彫刻となって配置され、小さな滝が白く流れている。さらに地上へと続く階段を降りれば、ざくりと音がする。その巨大な長方形には、白い砂利が敷き詰められているのだ。そして、浮島のようにぽつりぽつりと小さな花壇が点在している。
左右にある動物園や林には目もくれず、カロは中央の白いラインの中を進む。目指すのは、丘の上だ。
裏庭は普段から、本館などよりさらに人が少ないところであった。そもそも庭と呼べるところが広大すぎるというのも大きい。
カロから見れば、周囲の人影などは無きに等しい。もちろん、時間帯のせいもあるのだろう。普段でもお茶会などで人が歩き回らない時間でもあるし、今日で言えば、数時間後に始まる夜会の準備に取り掛かっている者もいるだろう。
彫刻と滝の近くまでやってきた。左右の脇道があるが、気分の問題で右を選ぶ。ぐねぐねと蛇行する道を辿って、丘を登っていく。
この時点で、カロのように体力がない者ならば、きっとへばってしまうに違いない。彼はほとんど早足と言えるような速さで、丘のふもとまで延々と行き、さらに丘の坂道を登ってきたのである。そうであっても、カロが息を切らすことはなかった。むしろ、登山を楽しむように外の新鮮な空気を目一杯肺に吸い込み、心地よさそうに鼻をうごかす。と、彼は急に天を仰ぐ。空の色を確かめる様子だ。
「今晩は雨かなあ」
空には雲一つないというのに、彼はそんな独り言を漏らす。
彼はとうとう頂上の離宮にたどり着く。少し離宮に続く階段を登って、振り返れば、王宮の全体像と、クレーエキッツェの外観が黒い目に映る。
コの字をした黄色い本館、衛兵が通る道、礼拝堂、睡蓮の咲く池、王立図書館、数多ある離宮たち。
今よりもっと小さかったカロは、自力でここに登ってくると、自分が王様になれたような気になったものだった。見下ろす景色はまるで小さな町の模型の玩具に見えて、すべて自分のもののように思えたのだ。
丘の上は、意外にも風が吹いていた。黒髪がさらさらと風に流れていく。風の流れに沿うように、彼が離宮を見ると、そのテラスにはすでに待ち人二人が席についている。一人は腕組みをし、もう一人は彼を手招いている。
「カロ、もう準備は出来ているわ」
姉は弟を見下ろして、にっこり笑っている。肩からひと房の金の髪がこぼれ落ちて、風で揺れていた。
「うん、行くよ」
カロは階段を上りきって、一旦離宮の中を通り抜けてから、テラスまで出た。今度は不満そうな顔と出会う。
「……はあ」
兄は弟の顔を見て、片手で額を抑えながら溜息をつく。「ちゃんとスケジュールをこなしたのか?」
「もちろんさ」
言いながら、カロが席につく。白いティーテーブルには紅茶と色々なお菓子が用意されていた。
「どうぞ」
クリスタがカップに紅茶を注ぐ。砂糖壺から角砂糖を二つと、蜂蜜をひと匙入れて、くるくるとティースプーンでかき混ぜてから、カロに渡した。
「いつもどおりの甘さにしたけれど、大丈夫?」
「うん、ありがとう」
王女手ずからの紅茶を一口含む。王女はにこにこと弟を眺めていた。
「カロ」
「何?」
「今日は午前中、温室で別れた後どうしていたの?」
答えるカロより先に反応を示したのは、脇にいたジョルジュである。渋い顔で紅茶を流し込んだ。瞳は琥珀色に揺れる紅茶の表面を撫ぜている。
「どこへ逃げたものかと思ってみれば、クリスタのところか。クリスタ、次にこいつが脱走して逃げ込んできたら、すぐに追い出してしまえ」
「別にそんなこと聞かなくてもいいよ、クリスタ」
カロは兄の言葉を遮るようにして、口を挟む。続けざまに、
「それに、捕まってからは一応、ちゃんとジョルジュの言うとおりに勉強したし、宿題だって出された。それで、剣の稽古をして、さっきまでは楽器のレッスンをしていたんだ。今日はたまたま、良い演奏をたくさん聞かせてもらったけれど」
「そうなの」
クリスタは自分の分の紅茶をカップに注ぐ。用意だけはさせたものの、侍女はこの場には同席しないことが半ば慣習化しているためだ。三人だけのお茶会は、カロが小さい頃から、ほとんど毎日続いていた。普段どれだけ忙しかろうとも、ジョルジュでさえ、おろそかにしたことがない習慣なのだ。
彼女がカップを優雅に持ち上げる。彼女は、紅茶をストレートで飲むのだ。
「カロは、私にチェンバロを弾いてとねだるのに、私にはちっともヴァイオリンを聞かせてくれないのね」
「クリスタにとても聞かせられないぐらい、ひどいんだ」
カロは、クリスタから逃れるように、ふいと視線を逸らせた。「僕は、音楽や勉強より運動の方が好きだからね」
「運動ばかり得意でも困るのだがな。私は、お前が軍人になるのには反対する」
ジョルジュが大きなオレンジタルトを等分に切り分けながら言った。
「そんな予定は今のところはないかな」
カロはジョルジュが分けたタルトを三つ、皿に移し替えた。ひと皿ずつ分配する。
「それよりも、クリスタは何やっていたの? どこかの集まりに行くとは聞いていたけれど」
そうね、とクリスタは小さくタルトを食べながら、思い出すように視線を空へと投げた。
「午前中はずっと読書していられたのだけれどね、午後はホルテンシュタイン夫人主催の集まりに顔を出してきたわ」
「何か面白いこととかあった?」
カロの問いに、クリスタは軽く小首を傾げた。
「特にはなかったのじゃないかしら。あぁ、でもご婦人がたはとても色めきたっていたわ。その様子は少し楽しめるものだったわね」
「へえ、どうして」
「今日お呼びしたゲストが、若い神父さまで、見た目もまず悪くなかったの。お話も、筋道が通っていて、聞き苦しいところがなかったわ。それに、とてもしっかりしているご様子で。アレスタ神父の後継者としての顔見せにしては上々の結果だったわ」
「さすが、ホルテンシュタイン夫人だな」
ジョルジュが淡々と呟く。蟻のようにちびちびとタルトに手を付けていた。
兄を顧みたクリスタがくすりと笑った。
「ええ、本当に。今日は危うい場面はあったけれど、何食わぬ顔で乗り切っていらっしゃって。少し騒ぎになったから、ジョルジュも聞いているかもしれないわね」
「ああ、ローゼンベルグ公妃が乱入した件だろう。元々は、そこまで精神面が弱かった方ではなかったと思っていたが、近頃はどうやらホルテンシュタイン夫人への敵愾心が大きくて困る」
タルトの皿から顔を上げたカロは首を傾げた。
「別に公妃さまが心配する必要もないんじゃないかなあ。夫人よりも後ろ盾はしっかりしているし、父上だって無下にしないんじゃないの」
むしろ、夫人への態度を露わにしてしまう方が、外聞が悪くなる一方だというのに。口でしっかりタルトを咀嚼しながら、カロはそんなことを考える。
「でも、想像がつかないよ。夫人もだけれど、公妃もとてもよくしてくれるし」
国王の愛人として知られる二人とは、カロは普段あまり接点を持つことはない。王宮を散歩した時、講義から逃亡した際に鉢合わせる程度の交流だった。
「ふふ。そうね」
クリスタは白魚のような手で口を押さえながら、軽やかな笑い声を立てる。
「だって、父上が選ばれた方だもの」
「でも、近頃は特に公妃が増長する一方で、反面、不安定にもなっているのだ」
話を引き取ったジョルジュがあまり機嫌のよくない様子で続ける。
紅茶を啜ってから、彼はふた切れめのタルトに手を付け始める。
カロは不思議そうな顔をして、兄を見つめた。
「ジョルジュは原因を知っているの?」
カロの兄は職業柄、王宮内外の情報を集めやすい立場にあるのだ。いつものように何気なく聞けば、思った通りに答えが返ってくる。銀のフォークを置くと、二本指を立てられた。
「思い当たる節が二つある。一つは、占い師。最近、公妃は占いに凝っているみたいで、市内に直に出向く。もう一つが〈魔術クラブ〉」
ジョルジュは言いにくそうに口をつぐむ。
「〈魔術クラブ〉って、最近流行っているクラブだよね? 〈魔法〉を探求するとかなんとかって、誰かから聞いていたよ」
知っていたか、とジョルジュは目を見開いている。
物知りの兄を驚かせたことでカロは得意げに胸を張った。
「僕だって、疎いばかりじゃないよ。知るべきことぐらいは知っているんだ。〈魔術クラブ〉は数十人規模の会員を抱えているらしいね。少し前までは王都内に本部を置いていたみたいだけれど、王宮内での会員増加を受けて、王宮でも集会を行い始めたんだ」
そうだな、とジョルジュが頷く。彼は自分のカップに紅茶を注いだついでに、ご褒美とばかりに彼の空のカップにも入れた。
今度は皇太子手ずからの紅茶を飲む。カロの顔はどことなく嬉しそうに緩んでいた。
弟の顔を見てから、ジョルジュが話を引き継いだ。
「〈魔術クラブ〉は基本的に秘密主義だ。会員規模も正確なものじゃない。集会ではマントや仮面などで服装や顔を隠し、名簿も公開されないそうだ。活動内容も〈魔法〉や奇跡、はては悪魔の証明といった、オカルティックな事柄を扱うらしい」
「それはまた怪しいわねえ」
クリスタがぽつりと零す。
彼女の指摘はもっともなことで、そんな怪しい目的で活動するクラブが王宮に存在できるということもおかしなことであった。
「言っておくが、クリスタ。今のところ、彼らの活動が法を侵している様子はないのだ。それに、自主的に貴族たちが集まる分には、サロンと何も変わらない。父上も、今の状態では何も手を打つ必要はないとお考えだ。もちろん、動向は逐一探らせているがな」
「そうなの」
相槌を打ったクリスタは、タルトを平らげた皿に一口サイズのスコーンを二つ載せた。ブルーベリージャムを載せてから、手でつまんで口に放り込む。美味しさににっこり顔を綻ばせている。
「でも、〈魔術クラブ〉が公妃さまとどう関係するのかしら?」
「公妃が〈魔術クラブ〉に出入りしているらしい。もう一部では噂になっているぐらいだ、信憑性はある。もちろん、贔屓にしている占い師の線も捨てがたい。占い師は人の運命を占う一方で、先行きが不安な人の心に付け込み、操ることもできるからな」
「何を公妃さまが不安に思うことなんて」
カロたち三人を産んだ王妃はすでにこの世にはいない。好色家でもない国王は王妃の死より数年後から、たった二人の愛人に寵愛を与えているのだ。
いや、とカロの言葉をジョルジュは手で遮った。嬉しくなさそうな声音で、
「人の心は変わる。嫉妬心を隠しきれなくなるほどに」
「そうね」
クリスタは青い目を伏せて、そっと呟く。
「夫人は職業として割り切れてしまえるけれど、公妃はそうでないから。だから、ジョルジュは公妃が好きでないのでしょ?」
ジョルジュは面白くなさそうに顔を逸らせた。
しんみりした空気を払おうと、カロはさも気付かなかったふりをして、口を開く。
「それよりもさ。ジョルジュは僕の先生が終わったあとは、何をしていたの? ずっと仕事?」
ジョルジュはふん、と鼻を鳴らしながら、タルトを口に運ぶ。さらに今度はマドレーヌを摘まみ始めた。これまた蟻のようにちびちびと咀嚼する。
「当たり前だろう。こちらは常に忙しいのだ。ほかごとにたわけている暇など……あ、いや、何でもなかった」
「え、待って。今の、何の間だったの?」
カロの追及に、ジョルジュが焦った早口でまくしたてる。
「何でもない、と言っているじゃないか! 放っておいてくれ。どうにもお前たちといると口が軽くなってかなわない」
「教えてくれてもいいじゃないか」
「まあ、カロ。そう向きになることもないわ。ジョルジュにも秘密の一つや二つ、愛人の一人や二人いてもいいじゃありませんか」
次にクリスタがからかえば、
「愛人をつくった覚えはない! ただちょっと、そう、ちょっと、趣味の話に熱中してしまっただけだ!」
と、泡を食って反論する。
「あぁ、本の話か」
ジョルジュは国立図書館によく通っているのを知っていたカロはごく普通にこう解釈した。
彼がそのままパステルカラーのマカロンをつまんでいると、ふう、と隣から困ったような吐息が漏れた。頬に手のひらを当てたクリスタである。波打つ金髪が肩口からさらりと零れた。
「ジョルジュにもカロにも、もっと華やいだ話があってもいいでしょうに。二人とも駄目ねえ」
さも物憂げに、心配しているようにも聞こえるが、実際は言葉通りの意味で受け取るべきである。
「忙しいのだから、仕方がないだろう。それに私は既婚者だ」
皇太子は淡々と述べるが、視線は伏せられたままで、石像のように動かない。
彼は随分昔に一度結婚したものの、当初から不仲がずっと続いていた。かと言って軽々しく離婚もできないで、ずっと別居している状態である。本妻というのは、すでに実家に戻って、羽振りよく暮らしているらしい。
なので、愛人を作ったところで誰も責めもしない、責める立場の者もいないのだが、元来真面目な性質であるジョルジュは特に女を傍に寄らせることもなく、妹と弟の世話を焼いているのだ。
「僕だって、女の子にちやほやされたいとは思うよ? でも、実際そんな機会はないというか。むしろ、遠巻きにされているというか」
弟王子はぼそぼそと不本意そうに呟く。
不憫になったのか、クリスタがカロの皿にスコーンをより分けた。
「ジョルジュはともかく、カロはいつでもどうにかなると思っていたのだけれど」
え、とカロが姉を見ると、彼女は優しい顔をしていた。首を傾けながら、弟に語りかける。
「あなたはもう少し周りに注意を向けてみたら? 一人ぐらい、あなたのいいところを知っている子がいるはずよ」
「どうだろう」
そうなればいいとは思うけれど、今まで特別に誰かに好かれたという実感がないカロにとっては夢のような話に思えた。もちろん、夢でないほうがいいのだけれども。
「本当に、困った兄と弟だこと」
クリスタの言葉は風にさらわれていく。青い目に眼下の王宮を映しながら、言葉を唇にのせていく。風の切れ目の中に、カロは聞き取る。
「でもいいわ。愛すべき、午後のお茶会だもの……」
まるで宝物であるかのよう。
カロはそんな感想を抱き、姉に同意するようにゆっくりと頷いた。
たった三人のお茶会は、互いに日常生活が異なる三人の子どもたちが唯一時間を共有できる時間だ。無欠の、黄金に輝く時。それぞれに地位のある三人にとっては得難いもので、いつまで続くかわからないからこそ、三人はこの習慣を大事に守り続けている。
母を亡くし、父ともほとんど交流をもてない三人が家族として寄り添う、優しさをはらんだお茶会を、きっと、ジョルジュも、そしてカロも愛しているのだ――




