午後三時の老人
大きな古時計の針が午後三時を差す。
厨房長のエッカートが前掛けで濡れた手を拭きながら、時計の振り子が鳴っているのを見た。それから、頼まれていた最後のひと皿を侍従に渡す。柑橘系の果物を使ったブラマンジェが皿の上で揺れていた。
「はいよ」
「あぁ、急がせてしまって、すみません。では、持っていきます」
厨房から去る昔馴染みの背中がとても落ち着き払っているのに、目を細める。こちらもあちらも、もう随分と長い時間王宮に勤めているものである。年相応に変化するのも当然だろう。
エッカートは、二度三度手を叩いた。厨房で作業に取り組む部下たちに声を飛ばす。
「ほらほら、もっと飛ばせ! 夜会の当番でないからと言っても、我々も手伝いをせねばならん、いつもの倍だ、きりきり回せ!」
「はい!」
野太い声、か細い声、若い声、年配の声が、あちらこちらではきはきとトップの一声に応じた。
次から次へとひっきりなしにやってくる注文を裁くには、このぐらいでちょうどよかった。王宮内の他の厨房がメインで夜会準備を行うが、その代わり、そこに回ってくるはずだった仕事がこちらにまで回ってくるのだから。
王宮の第一厨房は、本館に住まう王族と、大貴族、彼らに仕える侍女などの上級使用人たちの食事を担当することとなっている。他にも階級や場所別に、第二、第三の厨房があるのは、厨房を分散させなければならないほど多くの人の食事の世話をしなければならないからだ。その中でも、国王付きの料理人に並んで第一厨房の厨房長は名誉だとされている。それは食事を提供する人々の階級に依るところだ。
そういった誇りが彼を奮い立たせている。
彼は活気に満ちた職場をしっかり観察すると、己の職務に戻った。監督しながらも、その手が歩みを止めることはない。常に先の段取りを見据えている。
小麦粉を力強くまな板に叩きながら、捏ねて、温めておいたオーブンに入れる。
今のうちに夕食に出す料理のドレッシングの作り置きをしておこうと思い立つ。オーブンから離れようと振り向いた。
彼はびくりと肩を竦めた。後ろにぴったり人がくっつくようにして立っていたのに、気付かなかったのだ。
「あ、ああ、あんたか」
そろそろ来る頃だと思っていたのに、どうして忘れていられたのだろう。
ぽつりと老人が立っている。形ばかりの笑みを浮かべた隻眼と、奇妙に歪んだ木の杖をぶるぶると震わせる不具の体。生気に溢れた厨房を灰色に染める、その存在感は、人の動きを氷付ける。何度来ても、この気味悪い老人に慣れるということはなかった。そっと目を逸らせるのが関の山だ。
前任の厨房長は、王宮を退くときにエッカートにある掟を課した。前任の彼が行っていたように、その老人をもてなすこと、と。当時は補佐の立場にあったエッカートも、すでにいつの頃からか厨房に出入りしている老人のことを知っていた。守らないという選択肢は存在しなかった。老人の鼻がひん曲がるような臭気や抜け落ちた歯、失われた眼の跡は醜いが、避けようにも、避けるともっと悪いことが起こる。エッカートにはそんな気がしてならない。
エッカートは空いた戸棚から、作り置きの昼食の余りの皿を取り出した。サンドイッチである。噛み切りやすいように具は小さく、パンの部分も小さくしてある。
「どうぞ」
老人がまるで餌をもらった野良犬のような敏捷な仕草で皿を奪い去った。見る間に勝手口から姿が失われる。
最後に残ったのは、老人の不快な残り香と、知らず肺に溜まっていた安堵の吐息ばかりである。
不安に駆られた様子の部下たちが彼をちらちら見やっているのを、エッカートは咳払い一つで沈めた。
「はやく、手を動かせ! ちんたらやっているんじゃない!」
ドレッシングを作るのはしばらくやめにすることにして、厨房内を巡る。部下の動揺を鎮めることを優先したのだ。
次に老人が来るのがいつになるのか? 時間帯は決まっているが、その周期は一日、数日ともしれない。気の進む仕事ではなかった。それでも、彼がこの職を退けば、後任者にもこう伝えるだろう。――その老人を、もてなしてやれ、と。
誰もこない鬱蒼とした木陰で、老人は座って、もしゃもしゃとサンドイッチを咀嚼した。手につくパンくずまでも黄色い舌で舐めとるまで貪り食う。
唾液をつけたままの手で杖を触って、幾度かの失敗を経て立ち上がった。
老人は萎えた足で懸命に歩く。
焦げ茶色のレンガ積みの小さな建物が、本館近くにある。
老人の姿はゆっくりとそこの鉄扉に吸い込まれた。
くるくると螺旋状の階段を下っていく。
そこには見上げるほどの大きな樽が四つある。天井が見えないほどに高い樽だ。
壁の棚には様々な種類の酒類が肌寒いと思われるほどの涼しさの中にガラス瓶に入って横たわっている。
中には赤ら顔の年配の男がぐいとワイングラスを傾けていた。
「ぐはあ」
ワインを飲み干し、ますます鼻先を赤くする。この世の春とばかりにご機嫌であった彼は、老人の姿を認めて、身動ぎした。やがてこそこそと老人から離れる。
老人は勝手知ったる様子で、近くに転がっていた空のワイングラスを手にとって、樽についていた蛇口をひねる。
血に紛うほどに紅いワインがとくとくとグラス一杯分を満たしていく。グラスの淵を伝って流れていく様を片目でじっと眺めて、蛇口を閉める。
すぐさま中身をあおってから、グラスを投げ捨てた。影で見えないところから、割れたような音がする。
老人はまた螺旋状の階段を上っていく。その姿を今度、五対の眼で息を潜めている者たちがいるのを、老人はすでに知っていた。
その姿がちょうど下から見えなくなる間際に、こそこそと響く声が聞こえる。
「なんだって、また」
「怖いじゃ、すまねえもんな」
「王宮で何をしてる人なんだ?」
「わかんねえから、怖いんだ」
「でも、知っちゃなんねえ、知っちゃなんねえんだ」
知りたいなら、知ればいいんじゃねえか?
ひくっ、と誰かが息を止める音が聞こえるような気がして、老人は愉快な心を持ったまま、地上に上がる。
老人はさらに地上を彷徨った。
男と女、女と女、男と男の語らいの合間をすり抜けて、彼は何でもない風に彼らの美しい日常に溶け込んだ。
老人は完成された上等な絵画についた汚れである。こべりついて、剥がれない。
「男爵令嬢が……」
「黒鴉が……」
「〈魔法〉が……」
「〈魔術クラブ〉が……」
雑音に紛れる異音に、時に耳を澄ませて。
老人は一人夜を背負いながら、昼を旅するのだ。




