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王子の癒しと侍女の諦め

 午後二時十五分。カロはこれまでにサンドイッチをがつがつと食べ、王族の嗜みとして剣を喜んで振り回した。そのあとは、〈楽器いじり〉だ。

 王宮付き楽士を兼任する音楽講師は気合が入りすぎて、時々裏返ってしまう声で、

「はい、一、二、三、四!」

 などと拍子に合わせて手を叩いている。口をへの字にしたカロは、恐る恐る手に持つヴァイオリンの弓を引くが、悪魔の断末魔のような耳をつんざく不快な音しか発しない。なにせ、やる気がないのだ。力が抜ければ、演奏もろくなものではない。

「殿下!」

 生真面目な顔をした若い講師を、カロはのっそりと見下ろした。三白眼の黒い瞳が、危険な輝きを宿して、講師はひっと竦み上がった。

 文句が出ないのはいいことなのだが、本人は凄んだつもりではない。むしろ、どうやってこの忠犬のような講師から逃れようかと思っていた。だが、忠犬は忠犬でも、小型犬であったらしい。大きなものによく怯えて、きゃんきゃん啼く。

「そ、そんなに睨んでもいけませんよ! わたくしは、直々に皇太子殿下に強く念を押されているのですから! 殿下もおっしゃっておりました、カロ王子殿下は、やればできる子なのだと!」

「残念だったね、ヴィレム。そこにはやる気があれば、という条件がつくんだよ」

「何をおっしゃっているんですかー!」

 叫びだした音楽講師ヴィレムを尻目に、カロは楽器を放り出した。慌てて拾うヴィレムが何か言おうと思った時には、すでにカロは講師の椅子にどかっと座っている。

「先生」

 カロ王子はいたずらっ子のような眼で〈先生〉を見上げる。腕組みをして、さも自分が〈先生〉であるような顔をしながら。

「どうぞ」

 腕組みしていた右手で促す。

「一体何をです?」

 ヴィレムが呆れ顔で応じるにつけ、カロは得意満面である。

「先生の先生たる所以を再確認したいんだ。僕、先生の演奏好きだから」

「……それを子守唄にして、眠るおつもりですね」

 まさか、そんな、とカロが大仰な仕草で首を振る。実に嘘くさいのは、本人にもわかっていることであった。

「殿下。もう少し、大人になってくださいませ。勉強が嫌、演奏が嫌、ではなく、物事を貫く精神力を養うべきですよ」

 講師は諭すような視線を向けると、カロは肩をすくめる。

「耳に痛いことを言うね。僕だって、普段は怠け者でも、やるべき時はやるよ。勉強や演奏はその範疇にないだけで」

 カロとヴィレムの師弟関係というのは、このたわいもない言葉の応酬に尽きる。売り言葉に買い言葉、とでも言うように、二人共減らず口の持ち主なのだ。口の上手さでは同格となると、力関係を決めるのは立ち位置にある。一見すると師匠の方が高く思えるが、カロの身分を軽んじるわけにもいなかい。

 結局、ヴィレムは駄々っ子のようなところのある末の王子相手に譲歩してしまう。彼は閉口して、カロの言葉を待つ姿勢を取った。

「音楽はそれを好む者、才能ある者が演奏する方がいい。その方が、僕が演奏するより、何倍もいい音色が出る。ヴィレムだって、ヴァイオリンが好きだから、演奏者になった。僕は、やっぱり聞く方が好きなんだ」

 音楽を子守唄代わりにして、眠ってしまう。裏を返せば、それほど人の心をほどく、心地いい演奏ということでもある。

 彼は背を椅子に預けた。クッションの柔らかさに、先程までの疲れが癒されていくようである。剣の講師は現役の軍人であり、それこそ軍事訓練並みのメニューを短時間でこなしていたのだ。

「そもそも、これはスケジュールに無理があると思うよ。トルスタン教官のしごきに耐え切った後で、音楽の講義。眠ってくれと言いたいみたいだ」

 カロが軽口を叩く。講義を続行する気はさらさらないらしい。こうなってはカロが梃子でも動かないということを、長くもないが短くもない付き合いの中で、悟ったのだろう。ヴィレムは深々と溜め息をついた。

「少なくともスケジュールを作られた皇太子殿下は望んでおられないご様子でしたよ」

「ジョルジュも大概、殺人的なスケジュールで動けてしまう人だからね。まあ、父上もそうだし、その片腕のロワイユ総監もそう。怖い人たちだよ、本当。僕に真似なんてできっこない次元にいる人たちだ」

 暇に飽いているのは、一般の貴族である。所領から税を取立て、財産の管理やら何やらをすべて、巨大な屋敷に置いた家令に任せてしまう。彼らは王都にいながらにして、贅沢な生活を享受する。社交に明け暮れ、趣味を追求する。芸術家のパトロンを買って出る。潤沢な財産は装飾品や衣装代、道楽に費やされる。

 一方で、王宮内で〈役割〉を果たす人々――いわゆる官僚や大臣、皇太子、国王にはやるべき責務が多い。

官僚や大臣などは〈四分の一勤務〉と呼ばれる、一年のうち三ヶ月のみ勤務するという形態をとっている。しかし、皇太子や国王、総監といった〈役割〉はほぼ年中無休であり、誰かがとって代われるものではなかった。

だから、とカロは深く椅子に沈み込んだ。眼がぼんやりと天井へ向けられるにつけ、思考の海に沈んでいく。瞳の黒さがますます深くなっていく。

彼の顔からは普段の快活さや軽さがごっそりと失われて、代わりに老成した賢者が世界を見つめる時のような静謐を湛えている。

ヴィレムは特段、この瞬間に彼に注意を払っていなかったから、気づく由もなかったことである。

「僕は、僕でやれることをやるんだ」

「言っていることは大層ご立派ですが、楽器の稽古をやめる理由にはなっていませんよ……」

「あぁ、しまった!」

 はっと、カロの背筋がぴんと伸びた。

 微笑ましさしか感じない光景に、ヴィレムは頬を緩める。

「仕方がありませんね」

カロ王子の私室の一角にある音楽室では、ヴィレムもついかしこまるよりも、自然体で振る舞ってしまっている。外面というよりは、本来の性格を引きずり出されると言った方が正しい。きっと、カロ王子も自然に振る舞っているのはもちろん、彼には独自の人懐こさがあって、人の警戒心を解いてしまうのだ。目つきが悪さや、黒目黒髪という色が与える硬質さのせいで一見すると育ちのいい悪人にも思えるのだが、話すとまったくの反対で、大人の部分と子供のような純真さが同居した口調や、本人のどこかさっぱりして、素直で優しい性格がこの上もなく好印象を与える。

もっともこれはヴィレムからの印象であって、やはり彼の大柄な体や、その出自から見て、無意識に恐れてしまうのも無理のないことだ。カロ王子は、外見で損をしている。

 ヴィレムは講義を諦めた。ヴァイオリンを構えながら言う。

「本日は私が演奏をさせていただきますが、いいですか、蕩けるような演奏を殿下がなされば、世の女性たちは皆が殿下の虜なのです。技能を身につけるに越したことはありませんよ」

「虜……確かにいい響きだ」

 カロはうっとりと言葉を噛みしめた表情で二度三度と頷いた。

「ぼ、僕だって、ね、女性に好かれたいと思わないわけじゃないんだ。ほら、まぁ、クリスタは例外だし」

 カロはすでに自分が女性の好みの範疇外の外見であることを自覚しているようで、おたおたと椅子に座ったまま身動ぎを繰り返す。

「クリスタ王女さまはチェンバロが得意だとお聞きしていますよ。そうやって、女性と共に演奏なさるのも、いい機会であると存じます」

 畳み掛けるようにヴィレムが言うと、カロ王子はぱっと顔を上げた。

「うん、次回は、ちゃんとレッスンを受ける」

 喜色を滲ませて、ヴィレムの思惑通りに望む答えをくれるカロ王子だが、その不純なやる気が持続するのはもって一日。レッスンが毎日ないことが悔やまれてならない。次の練習にはすべてが振り出しに戻ってしまうのだ。

「それで、今日は何の曲を弾く?」

 ヴィレムは一寸考え、思いつく。

「殿下が好きな曲にしましょう。〈猫の行進〉第一楽章で」

 ヴィレムが弓を弦に押し当てる。そっとひと呼吸入れて、弓を引いた。ヴァイオリンから軽快な音が響く。音が飛んだり、跳ねたり、と忙しい。せせこましいところに押し込められることもなく、華やかなメロディーがカロの心を浮き立たせる。

 カロはこの曲が大好きだった。なぜなら、お気に入りの師匠が彼のために書き下ろした曲だから。なんでも、この曲は猫に逃避したカロをたまたま目撃したところから、着想を得たらしい。滅多に作曲しないヴァイオリニストの貴重な一曲は、カロに捧げられたものだ。

 カロの体が曲に合わせてリズムを取りはじめる。手足がとんとん、と肘掛けや床を叩いた。

 観客が楽しんでいれば、演奏者も気合が入った。もっと上手く弾こうと、音色に耳を澄ませる。

 小さな音楽会は第一楽章から最後の第三楽章が終わるまで続けられたのであった。




 オレリーは、今日最大の好機を逃してしまった。いや、今日どころでなく、人生最大かもしれない。そう思うと、果たせなかった悔しさが何倍にもなって、彼女を苛むのだ。ああ、あと少しだったのに、と。

 サロンで主人のホルテンシュタイン夫人に付いていたときは、役目に没頭できたというのに、終わってしまうと後悔がぶり返してくる。

 時間が迫っていて、どうしようもなかった。帰着するのはそんな当然の結論である。一方で、できれば一言二言でも言葉を交わしたかったと願っていても、恥ずかしいからと逃げ出したかった臆病な自分もいる。その鏡写しの両者が対立しあえば、自然と溜め息が零れおちていくものだ。

 カロ王子は昼食を望まれている。たまたま皇太子と行きあった彼女は、身を竦ませた。サンドイッチだ、とカロ王子が扉の向こうから指示する。心臓がどきどきと高鳴って仕方が無かった。期待してしまったのだ。彼女が申し付けられた通りに昼食を持ってこられたなら、彼女はカロ王子の私室に入れる。王子に自分の存在を一瞬でも見てもらえるかもしれない。たとえ、侍女という肩書き以上の認識しかされなかったとしても、名前だけ、姿だけでも知っていて欲しい。

 あぁ、なんて浅ましいのかしら。

 浮かれた自分が地に足がつくと、嫌な自分がぬっと顔を出してくる。望みすぎてしまうのだから、戒めなくてはならない。

 侍女の控え室に戻っても、オレリーの気分は晴れなかった。公の場に出たということで、小用を片付けるだけの休みがもらえたが、動く気にならない。

「辛気臭い顔をしないで頂戴。夫人のお供にもそんな顔をしていたの? 折角あなたを推薦したわたしに泥を塗ったわけではないのよね」

 誰にも見られないような立ち位置で、先輩の侍女に両頬をつねられる。笑みを形作るように唇が引き攣れた。ややあって、手が離れたとき、オレリーは涙目で彼女を見やった。

「しておりません」

「そう」

 彼女はぽんぽんと背中を叩く。言いたいことを言ってすっきりしたのか、外向きの笑顔をつくった。

「故郷に一回帰るぐらいのことでしょう? そこまで心配することもない。馬車で王宮を出るまで、ちゃんと愛想よくしておきなさい」

「はい。ユーディトさま」

 ホルテンシュタイン夫人付きの筆頭侍女ユーディトは力強く頷いてみせ、オレリーを部屋の外へと押し出した。

「あ、あの」

 オレリーは慌てるも、ユーディトは自分も廊下に出る。オレリーを促しながら、歩き始めたので、彼女もついていくほかない。

 ユーディトが説明する。

「奥方さまがつみたてのダリアが欲しいとおっしゃっているの。紅いダリアね。温室で咲いているから、ついてきて頂戴」

「え? それでしたら、わたし一人で参ります。ユーディトさまはお忙しいのではないですか?」

 いいえ、と筆頭侍女は緩慢に首を振った。眼差しがふっと陰り、何かを振り払うようにさらに首を振る。先程までオレリーと話したときの気丈な振る舞いとは違い、そこには打ち解けた親しさも何もない。諦めという硬質な殻で覆ったような仕草である。

「私も、行かなくてはならなくて。出会わないに越したことはないけれど」

 ふっと口を閉じる。

しばらくはユーディトの早足についていく。

彼女は元々、歩調が早い人だったけれど、今日は一段とせかせかと何かに追われているように歩いてみせる。先行する背中を見る限り、機嫌が悪いというわけでもなさそうである。機嫌が悪かったのならば、心なしか背中が大きく揺れるし、頬をつねる強さだって、こんなものではなかったはず。

本館の通用口から出る。芝生の中の歩道を、本館に沿って歩く。巡回中の衛兵と挨拶を交わしながら、さらに進んでいく。その先に王宮の温室があるのだが、本館の角を一つ曲がったところでふいに前の背中が止まる。

ユーディトは近くの窓を見上げている。ちょうど窓からは頭一つ見えるぐらいの位置だ。そこは白いカーテンがかけられているが、わずかに隙間が見える。彼女は厳しい顔でさらに近づいた。

「あの、ユーディトさま?」

 しっとオレリーは口を押さえられてしまった。

「少しだけ、静かにしていて。確かめるだけだから」

 オレリーはごくりと喉を鳴らす。彼女に倣い、カーテンの隙間に集中する。

 中には、ひと組の男女が抱き合っていた。男の方はたしか子爵の称号を持つ貴族である。オレリーも顔を知っている。だが、現在夫人は懐妊中で領地に戻っていたと聞いていた。

女は男の影に隠れて、その袖しか見えない。

 女の方が男を挑発するように体をくねらせ、やがて、ダンスを踊っているように部屋の中でターンをし、情熱的な口づけをしている二人の横顔が見えてしまう。その時、オレリーはぞっと背筋に寒気が走る。

 女の方はオレリーと同じ、侍女のお仕着せを着ていた。女は、侍女だった。

「本当に」

 ユーディトは唇を歪ませ、自嘲気味に笑う。

「奥方様も、フェルメール侍女長も、よく見ていらっしゃる。あの子ときたら、わかっているのかしら? それとも、知っていて溺れているのかしらね? 馬鹿らしい」

 軽蔑しきった様子で呟き、ユーディトは窓の向こうを睨む。

「確かめ終わったわ、参りましょう」

 ユーディトは今度こそ、温室の方へ向かう。オレリーは後ろ髪を引かれる思いでその後をついていく。

 彼女には、何の言葉もかけようがなかった。〈彼女〉に近しかったのは、ユーディトの方だったのだから。

「オレリー、悪いけれど、今回の一件は他言無用でお願いできる?」

 口火を切ったのは、ユーディトの方である。「どうせ噂になるけれど、穏便に解決したいものだから」

「わかりました」

 侍女と貴族の恋愛を禁止した法はない。しかも王宮の侍女ともなれば、良家の令嬢ぞろいなのだ。侍女と貴族が国王の承認を経て、結婚した例も確かにあった。だが、相手とあまりにも身分が隔たってしまっている場合、あるいは……既婚者であれば、それは醜聞でしかない。

 穏便に解決するということは、侍女が処分されるということだ。引き裂かれ、実家に不名誉を持ったまま戻る。

 そんな当たり前の事実がオレリーの胸を打つ。逢引した侍女に同情していたわけではない。彼女とて相手が既婚者だと知っていて、恋に溺れた。オレリーにはそんなことはできないだろう。きっと、オレリーの思いが報われないことがこんなにも彼女を感傷的にさせるのだ。思いが届かないということを思い知らされるからだ。

「あなたは、ダリアが好きかしら?」

「え?」

「ダリアよ、ダリア」

 ユーディトが明るい声で繰り返す。事情を知るオレリーには痛々しく思えた。

 さきほどの侍女、カトリーンは、ユーディトとは親友と言ってもいいほど近しかった。同じ男爵家の令嬢で、侍女になったのも同時期だったのに。

「はい、好きです。華やかで、綺麗な花ですから」

「そうね、奥方さまにぴったりな艶やかな花よ。でも、あなたなら」

 ユーディトは、訝しげに見つめ返すオレリーに笑いかけた。

「カサブランカの方が似合いそうね。純真無垢の白い百合だもの」

 褒められているのはわかっているけれど、オレリーには返事のしようもなかった。困惑して、何気なく青空を見上げる。

 そこはもう本館から少し離れてしまっていたけれど、窓辺の人影だけは十分に見分けることができるぐらいの距離だった。

 上階の窓に立つ人影――カロ王子のものだった。

 オレリーには、見上げるのがお似合いなのだろう。

 じっと見つめたあとに、とうとう逸らしてしまった。


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