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若き画家と老いた画家

 王宮の中にはいくつもの離宮があり、いくつものサロンが存在する。

 その中で〈睡蓮の間〉と呼ばれるところは、美術画家アカデミー、通称〈アカデミー〉が主に王宮での作品発表に用いている。白い睡蓮が咲く、大きな池に浮かぶように設計された小さな建物は、簡易的な玄関と、大きな一間だけで構成されている。

 入ってみれば、天井の高さに驚くだろう。上は丸天井となっており、ガラス張りになっている。しかし、壁にかけられた絵画に直射日光が入らない構造となっていて、鑑賞するに申し分ない環境を作っている。

 壁に一列にかけられた絵画の他にあるのは、大きな木の柱時計。時たま時を知らせに鳴る。さらに中央に置かれたゆったりとしたカウチが二つ背中合わせに配置されている。

 柱時計が二時を指す。

 ここにいる貴婦人たちはホルテンシュタイン夫人、あるいはローゼンベルグ公妃のどちらとも距離を取っている者ばかりであった。中立派、というのがふさわしかろう。

 彼女らには明確なリーダーが存在するわけではなかったが、自然と輪の中心にいる人物はいた。

 その人物は南側にかかっていた大きな絵画をぼうっと眺めている。男爵令嬢の訃報は、彼女の取り巻きからとうに情報が入っていたものの、そのようなことに気を取られている様子もない。カウチに座って、やはり絵画を眺めているようにしか見えなかった。

「絵を気に入ってくださったと伺っております。ありがとうございます、コルネリウス大公妃」

 彼女に話しかけてきたのは、まだ三十にも満たない青年である。後ろで一つにまとめた茶髪がまるで馬の尾っぽのように揺れている。まったく落ち着き払って、堂々たる態度を貫いているように見えるのだが、しかし、内心ではおっかなびっくりといった様子で、今にも叫び出して逃亡しないか、自分でも恐れている節がある。

 この若き画家――バルテスは、今回が王宮のサロンに初の出展となる。出品したのが、ちょうど大公妃と呼ばれた年嵩の婦人が鑑賞している絵画なのであった。

 バルテスは、知らずごくりと唾を飲んでいる。と、いうのも、これは彼にとっては瀬戸際である。国一番の画家集団、〈アカデミー〉に所属できるか否かが、これで決まる。国でもたった四十人しか入れない、画家最大の栄誉の称号が、たった一枚の絵にかかっているのだ。もちろん、彼がただ博打のようなことをしているわけではない。若き画家の登竜門ともいうべきフルール賞を初め、数々の賞を獲ってきた。あるいは、多くの貴族に絵画を気に入ってもらい、ようやく王宮のサロンにまで出品することを許されたのである。

 そして彼は今、王宮での最大の庇護者ともなりうる人物の審査を受けているようなものだ。何を思っているのかわからない面差しで、絵画を見上げているコルネリウス大公妃は、国王の妹というれっきとした王族であり、宮廷内でも有数の文化人としての地位を築いている女性だった。

「さて――」

 彼女はやっと絵画から目を離し、絵画の作者に気を移す。

「画家さん? えーと、何という名前でしたかしら?」

 バルテスに向けられたのは、年齢の割にはあまりに可愛らしく、華やいだ声であった。対面して初めてかけられた言葉があまりにも柔らかかったため、バルテスの緊張は尋常なものではない。想像とはまったく違う〈貴婦人〉の態度に、面食らったのだ。

「バルテス、と申します」

 こういう彼の声はいかにも威風堂々としたものだが、やはりそれは内心とはまったく別である。

「ふうん、あら、そう」

 間延びした返事をする大公妃の眼がまた絵画の方を見る。

「ねえ、バルテスさん? この絵画の題名を、あなたは何と付けたの?」

 彼は大公妃に釣られて、自分の描き上げた絵画を見上げた。

 その絵画は、彼が両手を広げても収まらないほどの大きさで、古めかしい額縁に収まっている。

 今回の展覧でのテーマは自由であった。だから、自由に描く。すべてはそれに尽きるはずだったが、〈睡蓮の間〉に集まると、画家たちの風潮がよくわかる。

 色調が底抜けに明るくて、淡い。風で揺れるドレスの裾。陽が差し込む森の中。妖精、あるいは女神。貴族の男女の逢引。泉のほとりで休憩する騎士。

 どれもが浮き足立って、ふわふわと空中を彷徨っている。そんな印象だ。近頃は、なんの教訓性も見いだせない絵画が飛ぶように売れる。

 バルテスの絵画は、それらとはまるで反対をいく。

 透明感のある油絵のタッチは流行と違えないものだが、色調自体は黒や茶色を多用した暗いものである。その中には粗末な木のテーブルについた十人の男たちがいる。つぎはぎの入った服を着て、酒を酌み交わしている。影の具合で、表情を明確に読み取ることはできない。

「私は、〈忘却〉と名付けようと考えています」

「どうして?」

 間髪入れずに問い返されて、バルテスは及び腰になった。しかし、落ち着いた口調で応える。

「彼らは忘れるために酒を呑むからです」

「忘れたいことがあるというの?」

 貴婦人は目を瞬かせている。やがて、その黒みがかった茶の瞳に興味という名の色が滲んでいく。肘掛に置かれた手に力が入れられ、ほんの少し体が前のめりになった。

「ええ、そうなのでしょう、きっと」

 おそらく彼らは日々の暮らしの鬱憤を呑むことでしか癒せない。農村も下町も、貧民窟も、実はそこまで大差はない。暮らすだけで一日が過ぎていくのだ。

 バルテスが切り取ったのは、ある日の夜の酒場の一風景である。彼もその中に交じって、酒を呑み、帰ってから一気にデッサンまで描ききった。

 他人事のように言えるのは、絵の中の男たちを、酒場で出会った男たちと同一に見ているからだ。モデルの心情は想像で補う他ないのだから。

「あの、右奥にある鏡にある、小さな横顔がありますね。あれは――バルテス?」

 コルネリウス大公妃は、バルテスのかしこまった顔と見比べて、ああ、やっぱり、と無邪気に言う。

「あなたは、鏡の向こうの鑑賞者だったというわけかしら。ふうん?」

 鼻にかかった声を発すれば、バルテスは見下されたようにも感じたが、そういうことでもないらしい。大公妃はバルテスよりも、絵画の方に興味を引かれていた。つぶらな瞳がひたすら〈忘却〉と題された絵画を見上げている。

「今までのあなたの作品を見せてもらってきたのだけれど、その絵はとても一輪一輪の花がとても見事に描写されて綺麗でした。花びらにたまった朝露が今にもこぼれ落ちてきそうな、いっそ幻想的な風景。でも、それはある意味、今までの流行の先端を推し進めるだけの作品に過ぎなかった……。これはそういうメッセージを込めているのかしら?」

 コルネリウス大公妃は首を傾げながら、形だけ尋ねた。と、いうのも、彼女の口調はまるきり自分を相手にしているようなものであり、視線は壁にかけられた絵画から跳ね返って、己に返っていくようにも思えたからだ。それは、自分が鏡に向けるがごとき形容しがたい視線である。

「王宮絵画の潮流を一本のまっすぐな線とするならば、あなたのものは、それと重なるようでいて、実は並行であるみたいですね。酒、酒場、仕事終わりにねぎらう男たち、彼らのあけっぴろげな笑顔。題材はあまりにも俗っぽいのに、とても優しい視点で描かれています。……バルテス、あなたはとても良い方なのですね」

 春に木の芽がほころんでいくように、大公妃の顔に、喜色が滲み出る。若さという武器は、すでにこの女性に味方しない。それらがぼろぼろにすりきれて、捨てるほかなくても、このしなやかな女性の別の何かが、彼女に魅力を与えてくれる。そう確信を持てるような微笑みがそこにあった。

 バルテスは惚けていた。我に返ったのも、彼女の言葉であった。

「素敵な絵ですね」

「はっ」

 答えを求めるように彼を見るので、とうとう声がひっくりかえってしまった。心の中ではとてつもない羞恥にさらされていようとも、表面はあくまで堂々と胸を張っているようにしか見えない。人に察してもらうには、損な性格なのは百も承知している。

「いいでしょう」

 彼女はゆっくりとバルテスに手を伸ばす。社交としては、これはどのような意味なのだろう、と王宮に不慣れな彼は考える。

「立ち上がりたいので、わたしの手をとって下さるかしら。若い画家さん?」

 おっかなびっくり手を差し出すと、コルネリウス大公妃はきゅっと彼の手を握る。手袋に包まれてもわかる、細くて柔らかい指がバルテスの骨ばった手に触れているのかと思うと、彼は急に逃げ出したい気分に苛まれた。

 貴婦人らしく、コルネリウス大公妃は香水を付けている。花を思わせる丸みのある香りが、ふわりと空気を漂っている。

 大公妃はバルテスに手を取られながら、正面に向かって歩く。〈忘却〉の絵画に触れられそうなほど近くにまで寄った。

「わたしが子供の頃、もう、ずいぶんと昔になってしまいますが……。とても変わった絵画を目にしたことがあります。それは宗教画でしたけれど。題名はとうに忘れてしまいましたが、〈天使の出立〉の場面でした」

――神から創世の使命を受けた二人の天使は地上と天上をあやふやな世界に降り立った。人間を含めた様々な生き物を創り出したあと、彼らは地上を離れたという、〈神書〉の有名な一節である。

「二人の天使は天高く飛び去ろうとしたけれど、一人の人間が矢で後ろにいた天使を射た。翼は傷つき、地上に落ちた。ええ、まさしくその場面。多くの画家の画題にもなりましたから、あなたも描いたことがあるかもしれませんね。でも、わたしは、その絵を見て、とても驚いたのです。描かれたのは、一人の天使は天上へ上っていき、もう一人が地上に落ちていくところ。そして、それよりも大きく幅が取られていたのは、肉屋の店先の風景でした。吊り下げられた豚肉や牛肉がギュウギュウ詰めになっていた屋台の真ん中で、鑑賞者を挑発するように腕組みした男性の姿でした」

 大公妃はここで言葉を切って、バルテスを微笑みながら、一瞥する。ね、面白いでしょう、とでも言うように。

「わたしは数多くの絵画を見てきて、美しいものに囲まれて、磨かれて。それなりに見る目というものを養ってきたつもりです。でも、あの絵画ほど忘れられないものはありませんでした。雰囲気も、タッチもまったく違うけれど……その画家と、あなたは同じものを見ている気がします。〈俗〉に愛情も愛着もあって、柔らかい視線で見つめている。わたしはやはり、その視線が好きなのかもしれませんね」

 彼女はバルテスに取られていない方の手を上げた。

「いかがいたしましたか」

 侍女らしき女性がしずしずとやってくる。コルネリウス大公妃は、その耳に何事かを囁いた。

「かしこまりました」

 女性は下がっていく。大公妃はバルテスを改まった様子で見上げた。

「バルテス、あなたは合格です。〈アカデミー〉に所属できるよう、推薦状を書きましょう。この絵のことで多くの批判を受けるかもしれませんが、出る杭は打たれるもの。役に立たぬ批評より、己の感性を磨き、技術を磨きなさい。彼らを黙らせるのは、自分らしさであって、おもねることではありません。それを忘れないように」

「はい。感謝いたします。大公妃さま」

 ここで辞去の意を表するのが自然だろう。しかし、彼は同じ画家として関心を持ったことを問わずにはいられなかった。

「不躾ながら、伺ってもよろしいでしょうか?」

「なあに?」

「さきほど、お話なさっていた画家の名は、なんというのでしょうか」

 聖と俗という両面を描く画家で、大公妃が言うような絵画を描くような人物は一体、どこにいたというのだろうか。バルテスと似ている、というその画家の名を、彼は知りたいと思った。

 彼は画風を変えていくタイプの画家ではない。描きたい情景が、彼の画風を変えていく。変えたいと思って、やっているわけではないのだ。

 この巨大な絵画が、今の流行とかけ離れているのをバルテスは知っている。でも、彼が今描かねばならない絵画がこれであったのだ。自分でもよくわからぬ衝動が彼を駆り立て、描け描けと責め立ててくる。葛藤の中で、ようやく一枚完成した。物議を醸すだろうということは初めからわかっていたし、一足先に見物にきた貴族たちは期待通りの華やかな絵でないことに落胆して帰っていった。

 そんな中、たった一人、もっとも重要な人物こそが、彼を認めた。自分はどれだけ幸せなのか、計り知れない。

 でも同時に葛藤の中でようやく見つけた答えとも言うべき境地を、他の見ていた者がいたと聞いて、釈然としない気持ちにもなる。嫉妬に近しい。

 コルネリウス大公妃は、ふと瞳を曇らせた。悲しんでいるようにも、恐れているようにも思える表情で首を振る。バルテスの手を握る手がかすかに震えていた。

「もう、彼は筆を折ってしまった。もう、どこにもいない方です。あなたも気をつけなさい。彼のように絶望の暗闇に足を取られてしまわないように」

 思いもしない返しに、バルテスは目を見開くことでしか反応できなかったのであった。




 〈睡蓮の間〉を取り囲む池の外。一つの人影がこっそりと二人のやり取りを眺めていた。美しい睡蓮の花に似合わぬ浮浪者は杖をついたまま、身動き一つしない。自由の効く左目だけをぎょろぎょろと上下左右に動かしながら、光景を凝視した。しかし、当人たちは何も気づかずに、何かを話し続けている。

 その瞬間こそ、彼の至福。優しい時間の裏からぬっと黒い腕を伸ばし、緩やかな細い鎖を足元に投げ込む。すてんと転んでしまったら、もうお仕舞い。足掻いて、空を切る手も虚しく、監獄に引きずられていく。檻に閉じ込められて、逃げられないのだ。

 黄色く濁った目玉が、二度三度とまとめて瞬く。怒りっぽい老人のように杖を振り上げて、貴婦人と青年の姿を囲んで、くるりと空中で円を描く。

「〈美しき邂逅〉……安くないかい、大公妃?」

 老人は喉の奥で嗤う。杖はまさに、大公妃へと向けられているが、当の本人はやはり気づかない。透明の障壁がそこにあるように、二つの空間は隔たっていた。美と醜、明と暗、役者と観客、あるいは……キャンパスと絵筆を握る画家である。

 刻々と変化する光景を円形の額縁に収めれば、彼の溜飲は下がったらしい。絵画の終わりを見届けもせず、背を丸めて去っていく。

杖をつくと、かつん、かつん、と小さな音が発する。ひどく緩慢な仕草で、体を上下に揺らした老人は、風景との違和感だけを残していった。一歩一歩と進む様は、ずるずると芋虫が這いずっているのにも似ていたが、黒い靄が沈殿して広がっていくのに似る。

地上に出してはならなかった禁忌を、そのまま地下から持ち込んでしまったかのよう。

もはや、彼の足跡は王宮に終始している。誰も彼がどこからやってきたのかを知らない。

彼は地下奥深くの闇から、光り輝く王宮へとやってきた。老人が自らそう称すれば、信じてしまうほかないだろう。老人はそれだけの年数、王宮にいた。貴賎の中に息を潜め、華麗さの影に埋もれていた。

いずこかへ消えていくその背中を、偶然見とがめたある者は高貴な皇太子と同様に、おののきながらもなお呟く。

「どうして、メジリアクがここに……」

 彼らは耐え切れないで、口にする。あまりにも恐ろしいものから逃避しようと。さもなくば、自ら軽くしたいと願っているから、言葉にする。それで軽くなると期待することが無駄と知っていたとしても。

「〈餌〉を探して、彷徨っている? いや、しかし、とうに彼は」

 男が事情を知る数多くの者たちの中でわずかながらに異なっているのは、老人の正体の一端を握っていたことであった。瞳に揺れるのは、恐ろしさばかりではない。

 あまりにも過ぎ去った若き日々――爽やかな風と、情熱に身を任せた、時には羞恥心も交じった、眩しくももっとも輝かしい、向こう見ずな青き春を回顧する感情がそこにある。もう、五十年もの昔だ。

 そこには情熱を武器にのしあがろうとした、一人の画家がいたのだ。



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