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囚われない学者と囚われた公妃 2

「ホルテンシュタイン夫人」

 彼女を手招く者がいた。日頃から懇意にしている貴族の奥方である。

 壁際から離れ、その奥方の元へと歩みだす。

 と、そんな夫人の腕を掴む別の女がいたことにいざそうなるまで気付かなかった。

 美しく形作られた白い顔はホルテンシュタイン夫人と並び立つのに遜色ないが、その表情は天と地ほどに違う。夫人のものは、穏やかな春風を思わせる心満ち足りたものだが、女のものはさしずめ雪が混じった凍える冷風であろう。険をはらんだまなざしは違えることなく、夫人に向けられている。掴まれた腕はきりきりと痛みを持って、締め付けてくる。

 その訳を、彼女は十二分に知っていた。

「ホルテンシュタイン夫人」

 美しさを歪ませて、恥も外聞をもかなぐり捨てて、女は夫人を睨んでいる。心配そうに背後から見つめているオレリーの視線や、その場の人々から向けられる関心を受け流しながら、夫人は清冽な水仙のような立ち姿で女と向かい合った。

「ヴィオラさま、いかがなさいましたか」

「その名で呼ばないで」

 女は夫人にだけ聞こえるような小声で言い捨てる。

「では、ローゼンベルグ公妃さま」

 夫人がそう呼べば、彼女の自尊心が満たされたらしく、一旦口を閉じる。その隙に自分の言葉をすべり込ませた。

「ここにお越しいただけるとは思いもよりませんでした。用事があると伺っておりましたのに」

 今回の集まりには、ここに来たヴィオラ・ローゼンベルグも招いていた。でも、それを断ったのは、彼女の意志であったはず。

 きっと彼女も気づいてしまったのだろう。今、王宮の貴婦人たちは二つの催しに割れている。そのうち、大公妃よりも夫人の方に人が集まってしまったのだということに。

「歓迎いたします。せっかくお越しいただいたのですもの、ゆっくりなさっていってください。今日は毛並みの違った御方もお招きしていましたの」

 夫人の視線に釣られるように、ローゼンベルグ公妃は和やかな歓談を続けているアレクセイ神父を一瞥するも、すぐに戻した。彼女の眼中はあくまで夫人のようである。

「あちらはアレクセイ神父。あの、アレスタ神父の後任になられる方だとか。今日は講師として有意義なお話を伺っておりましたの。せっかくですもの、ご挨拶を」

「結構ですわ」

 言葉尻をさらった公妃が苛立たしげに手の中の扇を弄ぶ。

「少し様子を見に来たというだけ。わたしを待っている方々が大勢いるものですから」

 夫人よりも濃く、太い紅の唇が余裕を見せつけるよう弓なりに動く。掴んだ手が離される。ひりひりとした痛みを残された夫人は、それでも微笑んだ。

「まったくそうでしょう。陛下より公妃の称号をいただいたのですもの。皆様、公妃さまをお待ちしているのも当然です」

 公妃はわらう。しかしそれは、夫人がしているものと似て非なる物のようにも思えた。

 近頃になって、ローゼンベルグ大公妃はますます不安定さを増していく。

 国王の寵姫という立場では夫人と公妃は等しい。だが出自が娼婦と貴族、まったくの両極端である。後ろ盾も、子爵と侯爵であり、すべてにおいて相手の方が優位にあったのだ。大公妃に焦る必要もない。それどころか、国王の寵愛のみに頼るほかない夫人の方が、本来この華やかな戦争に劣勢であろう。

 それなのに、大公妃は手負いの小さな獣のような目をしている。ぎらついて、今にも飛びかからんばかりの憐れな生き物の目なのだ。以前ならば、立場の違いをわからせるために、とことん無視をするばかりだったが、今では自ら乗り込んでくる。

「あらまあ、それはありがとうございます。感激ですわ、夫人」

 公妃は、指にいくつもの宝石をつけて、首元を彩る装飾品は以前よりもずっと華美になった。自らを守る鎧にするように、じゃらじゃらと、きらきらと卑しい輝きを身にまとっている。公妃が怒りを抑えるためか、身動ぎする。その際に反射した光が夫人の目を射る。眩しそうに目を細めた。

「ですが、わたしにはわかっておりますわ。夫人は陛下にもっとも寵愛されているのですもの。ああ、別に嫉妬しているわけでは。わたしとて、〈公妃〉という称号をいただきましたし。きちんと形があるものを」

 ここでの戦争は、剣は言葉だ。公妃は剣を構えてきりかかるが、空を切る。しかし、夫人は剣を持とうとは思わない。

 白粉が塗られた頬に雫が滴った。公妃は、泣いていることにも気づいていないのだろう。周囲の視線を避けるように、話しかけている振りをしながら、さりげなく扇を広げて公妃の顔を隠した。

 ここに至って、すとんと胸に落ちてくる言葉があった。――公妃は、壊れてしまった。

 何が彼女を変えたのだろう。もしかしたら、噂で聞いた話は真実なのかもしれない。

「公妃さま」

 最近、〈魔術クラブ〉に出入りしているというのは、本当なのですか。

 誇り高い大公妃は何も言わないだろうから、夫人は発言を途中で止めた。恨めしそうに公妃は夫人を見下ろす。

 形では敵対していようとも、夫人は公妃を嫌っていなかった。潔癖に装う中に、傷つきやすい少女のような内面が見え隠れしている女性なのだ。まして、夫人は国王の愛人であり、同志であっても、彼女自身は国王に執着していないのだ。子供のような独占欲も持たない。娼婦が愛人という職業に変わったというだけ。心は誰のものでもない。

 王宮での貴族同士の交流を、その機知で円滑に進めるのが彼女の仕事だ。公妃に恥をかかせないということも含まれている。

「落ち着いてくださいませ。私は誰にも申しません」

 さりげなく背中をさすりながら、彼女は内心で深い溜め息をつく。

 夫人には嫌な予感がしていた。特に根拠はない。強いて言うならば、高級娼婦として多くの辛酸を舐めてきた経験が告げているのだ。微妙な男女の駆け引きの中にふっと紛れている、次に起こる出来事へ続く糸口が目の前で現れたような感覚。避けるか、遠ざけるか迷う一瞬だ。今回は選び兼ねる。

「わたしにも、申し上げようもないことですから」

 公妃の付けている香水ばかりが優しく鼻腔をくすぐって、心安らかでいさせてくれた。少しして、自分の香水も匂いたっていることに気づく。いつの間にか、香りが移っていたのだろう。

 夫人はしばらく公妃が落ち着くまで、話し込むふりを続けたのだった。


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