一日の始まりと王子の起床
闇に沈むクレーエキッツェ。
にょっきりと伸びた尖塔が目立つ都市。
そこにはとりわけ深い黒が家々の屋根を跳躍し、夜警のカンテラが地上を駆け回る。
いつしかそれは消えていく。
空は白み始め、耳を澄ませば街を音が満たしていった。
低く燕が風を切る音。
教会から立ち上る朝のお祈りの声。
邸の使用人たちが階段を駆け下りる音。
周囲の田園地帯から入ってくる重い荷車。
街灯が消え。
パン屋は弟子を叱り飛ばしながら生地をこね上げ、竈に突っ込み。
軽い口論をしながら、女たちは市場で品物を競うように並べ。
鐘が鳴り。
青年の新聞配達人が軽快に一軒一軒の家の戸口に日報を滑り込ませていく向こうの通りで、少年はミルクを配達し。
娼婦が帰らない客を平手打ちで叩き、その隣のアパートメントでは、ヴァイオリン弾きが狭い下宿で起き抜けに一曲流し。
列車は激しく揺れながらホームに入り。
慇懃な家令が主人を起こしに寝室の扉を叩き。
フライパンのじゅっというベーコンが焦げていく匂いで子供たちが目覚める。
一方で次々と馬車の蹄の音が王宮に向かっていった。
カロ、起きなさい。
部屋の隅にある大きな古時計が午前八時を指したそのとき、ベッドの上の彼を揺り動かす者がいた。
「カロ、カロ」
彼を呼ぶ声はよく知る人のものだったから、それでまた安心しきってしまって、反対方向に寝返りをうつ。もう少し、と言いながら。
声は一旦途切れ、寝ている彼の上からふう、というため息が落ちてくる。それから、彼の首筋にくすぐったいものが触れた。ゆるやかに波打つ金色の髪だ。
それとともに彼の耳元に呼気が触れる。
「――カロ。部屋の外でジョルジュが待っているわよ」
びくっと彼の身体はすぐさま反応し、がばっと音を立てて起き上がる。
「まあまあ、寝癖がついているわねえ」
くすくすと彼女は笑う。その表情を見たカロは、荒々しくがしがしと頭を掻く。目を細めながら、姉に問う。
「クリスタ。それよりジョルジュが来てるって、本当?」
「本当よ。見てみる?」
クリスタはベッドから離れて、居間に繋がる部屋への扉を開く。すると、正面には腕組みをして起き抜けの彼を待ち受ける男が立っている。
「カロ! 我が弟ながらいい度胸をしている! 一人で起きられないでどうするんだ」
妹と同じ金の髪をした兄は、そう言ってずかずかとベッドの脇へとやってくる。憤然として彼を見下ろし、今にも説教を始めそうな勢いだった。
カロは兄の隣の姉を見た。曖昧に微笑むばかりで頼りにならなかった。兄に起こされないようにしただけ配慮したと言えるのだろう。
「贅沢に惰眠を貪っているようだけれど、朝の日課を忘れるようではいけない。さ、すぐに着替えろ。二分だ、二分だけ待ってやる」
二本指を立てて、ジョルジュは宣言した。学究肌の兄であるが、朝と弟には心底厳しい。二つ重なれば、それこそ今のようにひどいことになるのだ。
カロはごしごしと瞼を擦り、兄とも姉とも違う黒い瞳でその姿を映して、よろよろと立ち上がった。小さな衣装部屋に入り、次に出てきた時には半袖半ズボンというスポーツウェアを身につけている。
首から下げた金の懐中時計の秒針を睨んでいたジョルジュが顔を上げた。
「遅い、一日は朝が一番肝心なのだ。ただでさえ、時間が惜しいというのに」
弟の腕を掴み、せかせかとした様子で部屋を後にする。
「ああ、待ってよ、ジョルジュ。貴方と違って、僕は低血圧気味なんだからさ。痛い痛い痛いよ」
泣き言を言うカロの大きな身体は兄の小柄な身体に呆気なく引きずられていく。
一連のことをにこやかに見守っていたクリスタは大きな袖口からのぞく小さな手を振って見送った。
「今日もいってらっしゃい。またお茶会のときにね」
クレーエキッツェは、元は城壁に囲まれていた旧市街地とその周りを取り囲む新市街地で構成されている。取り壊された城壁は今は見る影もない。しかし、人々はかつての城壁の中心に位置するように王宮が建てられていることを知っている。
俯瞰すれば、都市の中にぽっかりと緑の穴が空いているように見えるだろう。木々と芝生、湖とも思えるほど大きな池があり、その最中にコの字を描くように黄色い優美な建物が構えていた。その他にも温室や水車小屋や小さな離宮があちこちに点在している。
正面から入ればニンフや人魚、ハルピュイアの白い石像が整然と立ち並び、美しく刈られた木々が人の目を楽しませ、本館とも言える建物に向かって伸びるように大きな噴水が三つほど並んでいる。さらに右手と左手をそれぞれ見れば、人の背よりも高い生垣が茂っている迷路庭園となっている。
本館をまっすぐ突っ切って裏手に出れば、右には動物園、左には遊歩道を備えた林が広がっていた。白い砂利が敷き詰められており、浮島のように小さな花壇が配置されている。正面遠くには、神話を模した彫刻が絵画のように配置される中を人工的な小さな滝が流れていく。その正面遠くはそこで行き止まりかと思いきや、実は左右から上に登る道があり、再び芝生が続いて、丘に上ることができた。そこにも小さな離宮があり、そこから王宮を一望できるようになっていた。
おとぎ話のような美しい王宮に住まう住人たちの身の上は老いも若きも、貧富もさまざまなものである。王族や貴族に限られるわけではない。彼らを支える、大勢の階下の人々がひしめき合って暮らしているのである――。