フェース
古い電気スタンドのスイッチを押すと、夕方も過ぎ薄暗くなっていた部屋が、小さな勉強机を中心に少しだけ明るくなった。
僕は椅子にすわり、引き出しから一冊のノートを取り出す。高校三年にもなって、小学生の頃から日記をつけ続けている男なんて、そうはいないだろう。始めは面倒にも感じていたけれど、それが習慣になってしまえば寝る前に書かないと落ち着かなくなってしまった。
使い慣れたペンを持ち、ノートを広げる。今日も、色々なことがあった。朝から夜まで忙しく動き回った原因は、二日前のあの出来事からはじまっている。あの出来事がなかったら、僕は今日という一日をこんな風に過ごすことはなかっただろう。
ペンを置き、親指があたるところだけ少し黒ずんだ厚めの大学ノートをめくる。今日の出来事を書く前に、二日前の日記に視線を落とす。
全ては、一通の手紙から始まった。
忘れていたことだった。何もなければ、僕は思い出すこともなかっただろう。けれど、思い出してしまった今、もう忘れることは許されない。
静かに目を閉じる。全ての始まりになった日を僕は、日記を見直さずとも、その場にいるかのように思い出すことができた。
その時の服装も、アイスコーヒーの味も。
ガラスに吹き付ける、騒々しい雨音さえも。
八月 二十四日 (火)
天気 雨ときどき曇り
ガラス越しに見える街の風景は、二週間ぶりの雨に彩られていた。
硬い木の椅子にすわりなれているだけに、柔らかいソファは居心地が悪かった。案内された場所が喫煙席だったのも、余計に僕をいらだたせる。
わざわざファミレスに呼び出さなくてもよかったのに。話なら、どちらかの部屋でやればいいのに。そうは思っても、僕を呼び出した本人が約束の時間から十分以上経っても来ていないのだから、文句の言いようもない。
五分前行動、と子供の頃から親に口を酸っぱくされて教えこまれた僕が注文したアイスコーヒーは、すでに氷も溶けきって、薄茶色の何だかわからない液体へと姿を変えている。仕方なしに一気に飲みほし、今度は胃に優しそうなアイスティーを注文したところで、水を滴らせるビニール傘を片手に津川瑞樹が入ってくる姿を見つけた。
軽く片手を挙げると、慌てて駆け寄ってくる。外の雨は僕が来た時よりも強くなっているのだろう、ジーンズの色が濃くなり、ロングヘアの先も結構濡れて黒く光っていた。
「ごめん智哉、待った?」
無言で空のグラスにふれてみる。瑞樹は口をとがらせ「だから、ごめんって言ってるじゃない」と呟きながら、向かいの席にすわった。よく見ると、白いブラウスの肩口も若干濡れて透けていた。アイスティーを運んできてくれたウェイターに「ミルクティー、ホットで」と頼む瑞樹から、不自然ではない程度に目を逸らした。
「ホントにごめんね。病院から抜け出そうにも、おばあちゃんがなかなか話やめてくれなくって」
「ああ、そういえば今入院してるんだっけ?」
「うん。北区の総合病院。そろそろ三週間になるかな」
瑞樹の祖母が、今年の夏の暑さにまけて入院したことは、母から聞いてなんとなく覚えていた。もともとあまりよくなかった心臓に、さらに負担がかかったとのことだった。
家が隣ということもあってか、我が石田家と瑞樹の家は活発に交流している。母親同士、馬が合っているのが一番の原因なのだろうが。
高校はお互い別々のため、こうして会うのも久しぶりだった。雑談に花を咲かせているうちに、ミルクティーが運ばれてきた。お互いに一口すすり、間を置いて、切り出す。
「で、話ってなんだったんだ?」
元々、用事があるから近所のファミレスまで来てくれと頼んできたのは瑞樹の方だった。お互い、特に瑞樹が僕の部屋に遊びに来ることは、高校になってからでも何度かはあったし、今さら何の意識もしていないのだが、わざわざ外で会いたいというからには理由があるのだろう。その通りだと言わんばかりに、瑞樹が表情を曇らせた。
脇に置いていた小さなチェック柄のポーチから、白い紙切れを取り出して、テーブルにのせる。アイスコーヒーのグラスから落ちた水滴で濡れない様に気をつけて受け取ると、それが簡素な封筒であることが分かった。
「手紙?」
何の変哲もない手紙だった。表には住所と宛名。ちょっと特徴のある丸字気味で、『津川瑞希様』と書かれていた。
「これがどうかしたの?」
さらに尋ねると、瑞樹は眉をしかめて「わからない」と答えた。
「わからないって」
「本当にわからないのよ。とりあえず、中を見てみて」
わからない、とはどういうことなのだろう。いまいち質問の意図を掴みきれない僕は、ハサミで几帳面に開封された脇口から、少しばかり青味がかった便箋を取り出して読んで、ようやくその意味を知った。
『 貴女はうさぎ 私はかめ
けれど私は、スタートラインにも立てない 』
ほとんどが空白で埋められている便箋の中央に、たった二行、そう書かれていた。
何度も読み返す。裏に続きが書かれているのではないかと期待したが、そういうこともなかった。手紙の内容は、それが全てだった。
「これ、何?」
正直な感想だった。確かに、意味がわからない。
最初に読んだ時は同じ気持ちになったのだろう、表情を崩さずに瑞樹は首を横に振った。
「一昨日、智哉の母さんから渡されて読んでみたんだけど、全然意味がわからなくて。差出人も分からないし、不気味じゃない、そんなの」
「ん、ちょっと待って」
気になる台詞があり、さらに続けようとする瑞樹を押し止めて、慌てて封筒の裏を見る。あるべきはずの差出人の名前は、どこにも見当たらなかった。
「えーと、でもうちの母親から渡されたんだよね?」
それなら差出人が不明なわけではない。だが。
僕の気持ちを見透かすかのように、瑞樹はまたも首を横に振る。
「その手紙、もともとは智哉の家に届いていたのよ。宛先の住所、智也の家になっているでしょう?」
言われて、確認する。家が隣なだけに、僕と瑞樹の住所はほとんど変わらない。最後の数字が二か三かの違いだけだ。手紙には、僕の家の住所である『三』がしっかりと書かれていた。
「ちょっと待ってね」
いきなり様々な情報が飛びこんで来たため、頭が混乱している。窓際の端に置かれているお客様アンケートの紙と鉛筆を取り上げ、裏の無地の部分に今までのことを整理することにした。
差出人不明の手紙。内容も、暗号のようでまったく意味が分からない。住所は僕の家のものだが、宛名は津川瑞希の名前――そこで、止まる。
「ミズキの名前、こんな漢字だったっけ?」
瑞樹は、当惑の表情を一気に怒りへと変えて首を横に振った。
「何年間お隣さんやってるのよ。私の名前は、ミズは同じだけど、キは樹木の樹」
強い口調で僕から鉛筆を奪い、メモ帳代わりのアンケート用紙の裏に名前を書いていく。いや、僕だって忘れていたわけではないのだけれど。
とりあえず「ごめん」と口にだしながら、鉛筆を返してもらって、書き込む。宛名、スペルミス。
住所も宛名も間違っている手紙。すでに、本当に瑞樹に宛てられたものなのかすら怪しいではないか。
そう伝えてみたが、瑞樹は不満そうに頬を膨らませただけだった。
「確かに住所は間違っているけど、二と三を間違えているだけじゃない。他は全部合ってるんだから。名前だって、漢字は間違ってるけど、たぶん読み方は同じだと思うし。ちなみにこの町内、津川って苗字、うちだけ」
一息おいて、「つまり、私宛てって考えた方が自然じゃない?」
もっともだ。僕はあっさり自説を取り下げた。間違いの可能性もなくはないが、天文学的な数字になることは確実だろう。
この手紙は何なのだろう。誰が出したのか、その意図は何なのか。
黙って考える僕を尻目に、瑞樹はクスリと笑った。
「やっぱり、智哉に見てもらってよかった」
「は?」
「不思議なことがあると、納得いくまで考えるでしょ。智哉に言えば、頼まなくてもきっとこの手紙のこと調べてくれるだろうと思って」
なるほど。悔しいけれど、確かに自分でもすでにこの手紙はどういう意味があるのか、考え始めていた。うまくのせられた感は否めないけれど、その悔しさよりも、すでに僕の興味は手紙にへと向けられていた。
「とりあえず、知り合いってことはないの?」
瑞樹は首を横に振る。
「文字に見覚えもないのもそうだけど、たいていの人とはメールできるし。嫌がらせをしそうな人もいないし」
運ばれてきたミルクティーに口をつけながら、瑞樹は思い出すように視線を宙に漂わせる。この言葉はあてにはならないな、と僕は考えた。もし嫌がらせだとして、こんな手口を使うような相手ならばまずボロは出さないだろう。さらに言えば、瑞樹は多少にぶいところがあるから、余計に気づいているはずがない。
ひとまずその案は脇に置き、再び手紙に目を落とす。
封筒の表を見る。消印は市内、けれど北郵便局となっていた。僕らの地域は南郵便局管轄だったはずだから、少なくとも差出人はこの近くに住んでいるわけではないのだろう。それを口に出すと、瑞樹は首を捻った。
「んー、そっちの方に知り合いなんていたかな。高校だって南学区の人しか来てないし。せいぜい中央郵便局の範囲じゃないかな」
確かにそうだ。市内では、北学区と南学区に高校の区が分かれていて、南学区の高校に北学区の生徒がくることはない。郵便局の管轄がどのように分かれているか、細かいところまで知っているわけではないが、すくなくとも北郵便局の範囲と南学区の範囲は重ならないだろう。
うーん、と声を出し、腕を組む。背後から漂ってくるタバコの煙のせいで集中ができない。何度か腕を組みなおす。
「文章だけを考えると、うさぎとかめだよなぁ」
空白の多い便箋をながめ、呟く。
誰でも知っているだろううさぎとかめの童話。かけっこをして、うさぎは途中で眠ってしまい、その間に亀がゴールしてしまうという教訓めいた話。瑞樹がうさぎで、差出人がかめ。ということは、瑞樹と何かを競っている? しかし、スタートラインに立てないとは?
「瑞樹、何部だっけ? 最近レギュラーになってたりとかしない?」
「高校は帰宅部。進学コースは部活に入っちゃいけないことになってるから」
髪が乱れることも気にせず、頭をかく。部活内などの争いでもないようだ。どうにも、この線でもつながりが見えない。
メモを書いた紙切れに視線を移す。残っている伝うべき糸は、間違えられた住所と、名前。ここから、何かがわかるだろうか。
駄目だ、集中できない。僕はあっさり放棄した。
「わからないよ、これだけじゃあ。ピースの足りないジグソーパズルみたいだ」
そう言うと、瑞樹はひどくがっかりした表情になった。この表情に、いつも僕は負けてしまう。
「家で考えてくる。何かわかったらメールで連絡するよ」
わからないと思うけどね、と心の中で付け足した。いつの間にか外の雨は小降りになっていて、傘をささずに歩く人の姿も見えた。
八月二十五日 (水)
天気 晴れときどき曇り
中学一年の頃に何をしていたか、僕はあまり覚えていない。
初めての中学と言うものにいささか緊張していただろうと言われれば、そんなこともあったかもしれないけれど、二つの小学校から生徒が集まってくる中学校では半分が知り合いなわけで、たいした戸惑いもなく生活に慣れていった覚えがある。
勉強もスポーツも、可もなく不可もなく、部活動も、生物部に身をおきながら参加することはなく。テストの点数もそこそこ取るが、授業中は寝ていたり。問題は起こさない問題児だったといえるかもしれない。
そんな、中学時代の自分のことを瑞樹に聞くと、「やればできるのに、やろうとしないんだよね、智哉は」と呆れられてしまった。
「買いかぶりだよ」
「違うよ、昔から智哉はそう言って誤魔化すよね」
どこをどう見れば僕が頼りになるように見えるのかわからないが、昔から瑞樹は何か困ったことがあると僕に言ってくることがあった。それは幼稚園の頃に頼っていたのがただ続いているだけだと僕は思っているのだが、どうも瑞樹は何らかの確信があるらしい。期待されるのは苦手なのだけれど。
「瑞樹こそ、僕よりも頼りになりそうな人はいるだろう?」
そう言うと、瑞樹は何も言わず口をとがらせた。
明るく、誰とでも気軽に話せる瑞樹の周りには自然と人が集まる。すくなくとも中学校までは人望が厚かった。勉強もそつなくこなす彼女は学級委員などに選ばれることも少なくなかった。高校に入った今もそうなのかはわからないけれど、表情豊かな彼女を見ていると、そんなに違いはないのだろうなと感じた。
突然中学のことを思い出そうとしたのは、とある冊子を見つけたからだった。
昨日の夜、家に帰ってから僕がしたことは二冊の卒業アルバムを引っ張り出すことだった。小学校と、中学校の。
もし、あの手紙が瑞樹の高校での友人が書いたものだとしたら、僕に確かめるすべはない。僕が調べられることといったら、中学までだ。
そして、考えたことが一つ。いくらなんでも、手紙を出すときに名前を間違うだろうか、ということ。もし、この宛名が間違っていないとしたら?
瑞樹と同姓同名の人物。記憶にはなかった。それが正しいことを証明するかのように、卒業アルバムからは津川瑞希という名の生徒は、いや、瑞希という名前も、津川という名字の生徒すら見つけることはできなかった。
お手上げかな、と思ったときに目に入ってきたのが、中学時代の生徒住所録だった。
安っぽい紙質のそれは、目に痛くない程度に抑えられた赤色の表紙がやけに目立ち、大きな文字で中学校の名前と『住所録』と書かれていた。
別段期待もせずにペラペラとめくり、自分のクラスのページを開き、「ああ、こんな奴もいたなぁ」と懐かしい名前を見ながらぼぉっとしていた僕の目に飛び込んできたのは、『津川瑞希』という名前だった。
たまたま見つけたことをメールで伝えると、次の日、朝早く瑞樹は家に訪ねてきた。今は冊子を挟んで、僕の向かいに座っている。
「よく見つけられたねー」
感心したような声に「たまたまだよ」と答える。本当に偶然なのだから、それ以外に言いようがない。
それを謙遜ととったのだろう、瑞樹は「またまたー」と笑いかけてきた。隣の家に遊びに来るだけだから、その格好は淡色のスカートにTシャツというラフなものだ。いつぞや中学校の友人にこのことを話したら羨ましがられたが、そんなにいいものなのだろうか。
とりあえず、視線を冊子に戻す。そこにははっきりと『津川瑞希』の名前が瑞樹と並んで書かれていた。
しかし。
納得のいかない僕の表情に気づいたのか、瑞樹も冊子を覗き込んできた。
「でもさ」
彼女もまた、僕と同じような表情をしている。
「こんな名前の子、いたっけ?」
まったく同じ感想だった。
住所録に書かれているということは、間違いなくクラスに存在していたのだろう。しかし、どんなに記憶を掘り起こしても、瑞樹と同姓同名の女子の姿を思い起こすことはできなかった。忘れていても、名前を聞けば顔くらいは思い出せるというのに。
ちなみに、津川瑞希の名前があるのは一年の住所録だけで、二年以降の住所録から彼女の名前を見つけることはできなかった。転校でもしたのだろうか。
「僕も覚えていない。でも、この住所録を使ったことは間違いないんじゃないかな」
僕が住所録のある部分を指差すと、瑞樹も首を縦に振った。
この冊子からは、もう一つ発見があった。
一年のこの住所録に限って、瑞樹の家の住所と僕の家の住所が逆になっていたのだ。
わずかな違いに担任が間違っただけなのだろう。それほど大きな問題でもないとされたらしく、改訂版は出されていない。だが、これで僕の家に手紙が届いた理由もある程度考えられるようになった。
「とにかく」
視線を冊子から瑞樹へと移し、僕は言葉をつむぐ。
「ここで考えられるのは三つ」
人差し指をピンと立てると、瑞樹は話を聞くように体を起こした。
「一つは、この手紙が、実際にはこの『津川 瑞希』って人に宛てられたものだった。けれど、これを書いた人が、住所を瑞樹のものと間違えてしまった。住所欄が隣合わせで名前も似てれば、途中読んでいる欄を間違えてしまうこともあるだろう」
とりあえず、抗議の声があがらなかったので、僕は中指を立てた。
「もう一つ、考えられるとしたら、これは瑞樹に宛てた手紙だった。けれど、この住所録をみて書いたときに、名前の漢字を津川瑞希という人と間違えてしまった、か」
ある程度、予想を付けられるようにはなった。だが実際、ほとんど何もわかっていないに等しかった。あて先の間違いが、この住所録を使った可能性は高いだろう。だが、そこから手紙の主を予想するのは、まだまだ無茶だと思う。この住所録を持っていた人が何人いたかと思うと、頭がふらつく。
「最後に」薬指を立てながら言う。「この住所録なんて全然関係なくて、ただ差出人が住所と名前を素で間違えただけ」
「それは」
「うん、まずありえないとは思うけど」
瑞樹の抗議に先んじて、僕はあっさりと最後の意見を取り下げる。昨日までならその可能性も、確率は少なくても否定はできなかっただろう。けれど、こうして新たな発見があった今となって、全てを偶然で収めてしまってはいけないように思える。
「だとすると、さっき言ったどちらかということになるけど」
今の少なすぎる情報ではどちらとも判断できない。そう思った僕に、瑞樹は何を迷っているのとでも言いたげに声をかけてきた。
「じゃあ、この人に連絡を取ってみればいいわけね」
結論から言うと、『津川 瑞希』と連絡をとることはできなかった。
電話番号は斉藤さんというおばあさんのものになっており、住んでいたはずのアパートの住所には、土地を売るということが書かれた小汚い看板が草原と化した更地に立っているだけだった。
卒業アルバムに載っていないのだから、転校したのだろうとは思っていたが、まさかアパートそのものがなくなっているとは思わず少し肩を落とす。これでは大家に引越し先を聞くなどという芸当もできやしないだろう。だが瑞樹は「じゃあ先生に聞いてみようか」と次なる計画を立てていた。この行動力には尊敬の念すら浮かぶ。
昨日の雨の名残か、アスファルトにはところどころに水溜りが残っていた。しかしそれも今日の陽気で、夕方には乾いてしまうだろうと予想できた。
器用に水溜りを避けて歩く瑞樹は昨日と同じようなジーンズと薄い水色のシャツに着替えている。いざ出かけると決まってから、すぐに家へと戻って着替えてきた。薄く化粧もしてきたようで、やはり女なんだなぁと思う。そんな僕は相変わらずのジーンズにTシャツというラフな格好だ。
「でも、やっぱり思い出せないなぁ」
見事なまでに晴れ渡った青空を見上げて、瑞樹が呟く。住宅街から見る空は、どこか味気ない。
「なにが?」
「私と同じ名前の子のこと」
「ああ」
それは僕も感じていた。間違いなく同じクラスにいたはずなのに、ここまで記憶にないというのはどこか不自然で、胃の中に石が入っているかのように胸の辺りがむかついた。それは瑞樹も同じらしく、昨日の空のように曇った表情をしていた。
「同姓同名でしょ。智哉が覚えてなくたって、私は覚えていてもいいはずなんだけどなぁ」
「途中で転校したのかもしれない」
「転校していく人なんてそんなにいないんだから、余計に覚えていてもいいじゃない」
津川瑞希の名前は、二年の時の生徒住所録には載っていなかった。ということは一年の間しか在学していなかったことになる。けれど、その彼女がいつ転校したのかさえ、僕たちの記憶の引き出しには入っていなかった。
「中学校かぁ。懐かしいなぁ。志乃先生のこと、覚えてる?」
「ああ」
急に変わった話題に、僕の思考はひっぱられる。佐々木志乃という女の先生が、僕たちが中学一年の時の担任だった。大学を出たばかりの若い先生で、子供の目から見ても大変そうにしていた覚えがあった。
「先生に聞けば、さすがに分かるよね」
「分かるだろう」
もう五年も前の生徒のことを確実に記憶しているかどうかなんて、覚えているかどうかも怪しいと思っていたが、とりあえず相槌をうっておいた。その言葉に励まされるように、瑞樹は何度も「そうだよね、うん」と呟いている。
僕はというと、そこまで楽観視はしていなかった。もし津川瑞希が転校していたとして、さすがに転校先の学校くらいは分かるだろうが、たかが担任が引越し先の住所までは分かりはしないだろう。となると、これから転校先の学校に問い合わせなければならないだろうし、そこで本当に現在の住所が分かる確約もない。他県に引っ越していたりしたら、余計に彼女の痕跡を追うのは難しくなるだろう。
それでも、なぜか僕は覚えのない津川瑞希という女の子に会わなければならないような気がしていた。それは手紙の謎が気にかかっているからかもしれない。でも、どこかそれだけではないように思えた。
久々に見る志乃先生は、少しだけ小皺が増えたようにも思えたが、それを素直に口にだすほど僕は失礼じゃない。と思っていたら、瑞樹が「先生、少し老けました?」と核心を突く言葉をさらりと言ってのけた。
僕たちが一年の頃に大学卒業したばかりだったのだから、まだ三十にも達していないはずだが、それでも自分で思うところはあるのだろう、志乃先生は「やっぱわかる?」と苦笑いを浮かべた。あくまで先生にとって僕たちは生徒なのだろう。たとえそれが、卒業して二年が過ぎたとしても。
ソフトボール部は夏休みでも、いや、夏休みだからこそ活発に活動しているようで、顧問として自らノックを行っている志乃先生は見事なまでに日焼けをしていた。午前中もやって、昼休みを挟んで午後もやるというのだから、志乃先生が来てからソフトボール部が強くなったというのもうなずけることだった。
「で、今日は何の用事だったのかな?」
職員室の脇にある、中学生だったときは決して入れなかった応接室に通され、柔らかなソファに腰をかけると、向かいに座った志乃先生が問い掛けてきた。卒業したらお客様ということなのだろう、先生自ら入れてくれたコーヒーを一口含んで、切り出した。
「先生は津川瑞希という生徒を覚えてらっしゃいますか?」
志乃先生の目が点になる。そして、瑞樹の顔をみて、もう一度僕に視線を戻す。きっと心の中では「何を言ってるの」と思っているのだろう。
「瑞樹じゃありません。キが希望の希です。津川瑞希。同姓同名で、一年の頃同じクラスに居たと思うんですが」
ようやく合点がいったのか、志乃先生は考え込むように視線を巡らせると、「あっ」と声を漏らした。
「あ、ああ、居たわねそういえば。よく覚えてたね、智哉君」
「知ってるんですか?」
瑞樹があげた疑問の声に、志乃先生も苦笑をもらす。
「覚えてないのも無理ないかもしれないわね。瑞希さん、あ、こう呼ぶしかないからこれで通すけど、あの子は生まれつき心臓に重い疾患を持っていたらしくてね。学校にも確か一日しか来なかったんじゃないかしら」
一日――それでは思い出せないのも無理はないかもしれない。瑞樹も同じ思いだったようで、そうだったんだ、と呟いていた。
それがなにかしたの、と尋ねてくる先生に、引っ越した後の連絡先を尋ねてみた。理由は伏せておいた。あの手紙を誰彼かまわず見せるのは、どこかはばかられた。
理由も言わずに連絡先を尋ねる僕たちをどう思ったかは知らないが、先生はどうしようかと少し逡巡した後、「ちょっと待ってね」と言い残しソファを立って、二、三分ほどして一通の手紙を持ってきた。
「彼女、体調が悪化して、病院に併設する養護学校の方に移ったのよ。そう、それで一応の引越し先を教えてくれたの。これがその時の葉書。変わってなければ、この住所でいいと思うわよ」
葉書を受け取って差出人の欄を見る。津川葉子、これは母親の名前なのだろう。その隣に書かれている住所は、市内の中でも北に位置する、北郵便局の管轄内だった。
「智哉、これこれ」
それを見つけた瑞樹は、手がかりをみつけたと手放しで喜んでいる。
「先生、電話番号とかはわかりませんか?」
「ごめんなさい、そこまではちょっと。この葉書も、智哉君に言われるまで引き出しにしまっておいたことを忘れそうだったわ」
忘れそうだった、というわりに、先生はあっさりと葉書を見つけてきたように思う。五年も前の、一日しか登校しなかった生徒のことをすぐに閉まっていた葉書と結び付けられるものだろうか。それに、表情も急に固くなったようにも感じられる。
そんな疑問を抱きながらも、瑞樹と先生がたわいもない話題で盛り上がっているうちに、僕は素早く津川瑞希の住所をメモして、葉書を返した。
十分くらいして、先生が部活の指導に行くということで席を立ち、僕らもそれにならった。
「失礼します。今日はありがとうございました」
瑞樹が頭を下げるのにあわせて、僕も真似をする。先生はまた来てねと手を振った。
それを合図に瑞樹が部屋を出る。が、僕はどうしても、もう一つ聞きたいことがあった。
「悪い、ちょっと先に行っててくれ」
「え?」
「いいから。すぐに行くから、玄関で待っててくれ」
瑞樹の抗議の声を待たず、僕は応接室のドアを閉めた。ドアはそれなりに重い手応えで、簡単に声が外に漏れそうな作りではなかった。
「どうしたの?」
志乃先生も何事かと不思議そうな顔をしている。僕は、できるだけ声を落として、けれど先生にははっきりと届く音量で聞いた。
「先生は、津川瑞希にどんな負い目を感じているのですか?」
八月二十六日 (木)
天気 晴れ
雲一つ見当たらない快晴に、思わず心の中で毒づいた。完全な青空とはこういうものを言うのかもしれないが、目が痛くなるほどの青さに自然とうそ臭さを感じてしまう僕は、どこかひねくれているのだろう。
地下鉄に乗って、僕と瑞樹は昨日メモした津川瑞希の家に向かっていた。電話番号が分からなかったので、アポイントメントなしの訪問になってしまうが、居なかったら居なかったでまた来るだけだと開き直った。電話番号検索サービスを使えばいいのだと気づいたのは、今日地下鉄で瑞樹に指摘されてからだったのは情けないことこの上ないが。
元同級生、とはいえどもお互いほとんど見知らぬ他人に等しい関係だから、ある程度きちんとした身なりの方が良いだろうと、珍しくアイロンのかかったシャツを着てきたりしたが、まあたいして変わらないかもしれない。
「んーとね、そこ右」
メモ書きされた簡単な地図を見ながら瑞樹が指す方向に曲がる。幸いというか、津川瑞希の住所は、瑞樹の祖母が入院している病院から近いものだった。いつもは方向音痴気味の瑞樹も、何回も足を運んでいる土地だから自信があると案内役を買って出たので、僕はなすがままについていくだけだ。
ぼんやりとワンピース姿の瑞樹の後ろ姿を眺めながら、僕は何を話そうか考えていた。どうやら交渉役は僕に一任されているらしく、例の手紙も僕が預かっている。
昨日、志乃先生と話したおかげで、僕も瑞樹もおぼろげに津川瑞希という存在を思い出してきてはいた。重い病気を背負って学校に来れない女の子。そんな偏見の混ざった代名詞で、少しは存在が知られていたがそれも一瞬で、みんなの目の前にいなかった彼女は次第に誰の口からも名前がのぼらなくなった。いや、もともと名前など出されなかったのだろう。彼女の役割は、他の生徒にとっては「重い病気を抱えたかわいそうな女の子」でしかなく、津川瑞希という一人の人間ではなかったのだから。
僕は、というとみんなよりは少しだけ、彼女との接点があった。けれどそれはおそらく一方通行のもので、忘れていたという意味では他の人と変わりはないけれど。
「あ、ここ」
目の前のワンピースとの距離が近くなったのを感じて、僕も足を止めた。瑞樹の視線の先には、決してキレイとはいえないアパートが建っていた。二階建ての赤だか茶色だか分からない風体のそれは、かなりの年月を感じさせるものだった。
本当にここでいいのかと瑞樹は視線をメモとアパートの間でしきりに往復させたが、間違いはないようだった。
部屋番号を確認して、インターフォンを探すが、それさえもないようで、仕方なく僕は二回コン、コンとノックをした。
しばし待つが、何も聞こえない。もう一度、二回ノック。
はーい、もううるさいなぁ、という女性の声がした。
乱暴に開けられたドアから顔を覗かせた女性に、隣で瑞樹が息を呑むのがわかった。長い髪をボサボサにして、Tシャツにショートパンツ一枚という夏とは言えすっきりとした、いや、薄汚れているせいでだらしない印象さえ受ける女性が、誰だアンタとでも言いたげにこっちを睨み付けていた。
「津川さんのお宅、ですか?」
アルコールと煙草の臭いが混ざった複雑な息を浴びながら尋ねると、女性は「あんた、誰?」と口に出してきた。
「えーっと、瑞希さんの同級生なんですが」
そういうと、途端に女性は表情を変えた。
「瑞希の?」
めんどくさそうだった表情が消え、少しだけ目尻を垂らして笑った。それまではだらしのない四十くらいのおばさんという印象だったが、笑顔を見るとその顔の作りは端正で美人と言えるものだと分かった。それだけ、柔らかい微笑みだった。
「そーか、瑞希の友達かぁ。いや、ごめんねこんな格好で。汚いけど、あがって頂戴よ」
この人が葉子さん、瑞希の母親なのだろう。そう思いながら「お邪魔します」と言って部屋にあがった。瑞樹もおそるおそる入ってくる。
部屋の中は、女性の臭いを裏付けるように缶ビールの空缶の山と、ぎっしりつまった灰皿からでる臭気がこもっていた。眉をしかめた僕らに気づいたのだろう、女性は「あー、ごめんね。こんなんじゃ体に悪いよね」と窓を開けて、次に小さなテーブルの周りの空缶や脱ぎ捨てたであろう衣服などを端に寄せていた。六畳程度の部屋の奥にある押し入れから座布団を引っ張り出して、テーブルの端に置く。
「まぁ、座ってよ」
気さくな女性のススメに従って、僕たちは腰を下ろした。
「麦茶、飲める?」
お気遣いなく、というのも大人ぶりすぎかと、大丈夫ですと答えた。やがて、僕たちの前に麦茶の入ったコップが置かれた。
女性は向かいに座ると、僕と瑞樹をかわるがわる、遠慮なしに見つめてきた。
「君たち、健康そうだねぇ」
「はい?」
しみじみと言われた言葉に、思わず首をひねる。
「いや、どっか悪いなんて全然見えないよ。どこが悪いの? って、ああ、こういうの聞かれるの好きじゃないよね」
ごめんね、と謝る女性に、何も言えない。言葉の意味が分からず、瑞樹などは笑いが引きつりかけていた。
どういうことだろう。健康。どこが悪いの。
少しの間を置いて、ようやく僕はその意味がわかった。
「あの、すみません。僕ら、養護学校の同級生じゃないんです」
「え?」
今度は女性が呆気にとられる番だった。
なんてことはない。この女性は、僕らもどこかを病んで、入院しながら養護学校に通っている生徒だと思ったのだ。それも致し方ないのだろう。おそらく、津川瑞希は中学一年で転校してからずっと養護学校に通っていたはずなのだから。
女性から質問される前に、僕は中学時代の同級生であることを告げた。すると、途端に女性の表情が険しくなった。
「あの中学校、瑞希は一日しか学校に行かなかったし、友達もできていないようだったけど、どうやってアンタらはここを知ったのさ?」
口調も、さっきまでの温和で優しさを感じるものとは変わっていた。玄関のドアを開けた直後のような、敵意をもったそれだった。
怯えたように黙りこくってしまった瑞樹のかわりに、僕が当時の先生から聞いたことを伝えると「ああ、そう」と投げやりな答えが返ってきた。ここで怯むわけにはいかない。僕は持ってきた手紙を、女性の前に差し出した。
女性は煙草に火を付けながら、手紙を見やる。
「なに、これ?」
「僕の家に届けられた手紙です。けど、宛名は瑞希さんのものになっているんです」
瑞希、という名前に反応して、女性が手紙を手に取った。少しだけ、眉をひそめる。
「中を見ていいかい?」
「どうぞ」
僕の了解を得る前に、女性は中から便箋を取り出して読み始めた。すぐに読み終えるはずの、たった二行の文章を、食い入るように何度も読み返していた。
沈黙が重いものに感じた。いつまで待っても、女性から話し掛けてくることはないように思えて、僕はタイミングを見計らって声をかける。
「それでですね。実は、瑞希さんと同姓同名の、字は違うんですけど、瑞樹が僕と家が隣でして。もしかしたら瑞樹に宛てられたものかもしれないんですが、こちらの瑞希さんにももしかしたら関係するのではないかと思いまして……」
「ミズキ? 同姓同名?」
明らかに、さっきよりも敵意を感じる声だった。端正な顔立ちが、凄味のある声とのギャップで余計に怖さを引き立てる。
「あんたがミズキ?」と言われ、瑞樹はただ首を縦に振っていた。
僕は間に割り込むように、話を続ける。
「で、できれば瑞希さんにも話を聞きたいんですけど」
そういうと、女性は僕を睨み、ため息をついて、呟いた。
「死んだ」
「え」
「死んだ。一週間前に。手術中に。ここにもいないし、病院にもいないし。墓に埋まってるのは、あんなの瑞希じゃない。ただの骨だ。瑞希は、いない」
淡々と、何かを押し殺すかのように女性は語った。
「病気ですか」
女性は答えない。
「そうですか。そんな時に、申し訳ありませんでした」と言って、思い付く。これも何かの縁だと、ある物を探して部屋を見回した。
「なんもないよ」
僕の仕草に気が付いたのだろう、女性が言った。狭い六畳一間のアパートには、仏壇も、津川瑞希のものであろう遺影もなにもなく、押し入れからはみ出ている赤いランドセルと、かなりの場所を占めている勉強机だけが、子供が居たことを思わせていた。
ふと、床に落ちている薬袋が目に入った。総合病院の名前の下には、【津川瑞希】の名前が書かれていた。彼女は、確かにここにいたのだ。
「帰りなよ」
女性が言った。
「この手紙の文字は瑞希のとは似ても似つかないし、こんなの送ってくるような友達なんて瑞希にはいなかった。関係ないだろ、もう」
何も言えなかった。何故かわからないが、いや、なんとなくわかってしまったからこそ、僕たちはここを立ち去らねばならないと思った。先に瑞樹を立たせて、部屋を出させた。僕も頭を下げ、しかし、どうしても一つだけ聞きたくて、足を止めた。
「最後に、一つだけ聞いてもいいですか」
無言を肯定と受け取り、僕は続ける。
「瑞希さんは、病気で亡くなったんですよね」
女性は少しの間逡巡する素振りをみせて、口を開いた。
「ああ。心臓が手術に持たなかったせいでね」
「……わかりました」
今度は足を止めずに、深く礼をして部屋を出た。
ドアを閉めたとき、どこからか泣き声がしたのは、きっとセミの声と聞き間違えたのだろうと自分に言い聞かせた。
帰り道、地下鉄に乗るまでも、地下鉄に乗ってからも、お互い言葉を発しようとはしなかった。たとえ親しくなかろうと、死というものを現実に受け止めねばならない事態に直面して明るい気持ちになれなかったのだろう。僕もそれは当てはまったが、それだけとはいえなかった。
地下鉄を降り、見慣れた住宅街に足を踏み入れてようやく瑞樹が口を開いた。
「結局、分からないままだったね」
僕は、瑞樹に歩調を合わせて横を歩く。
「あの手紙のことも、私と同じ名前の女の子のことも。こんなに若くに死んじゃうなんて、その、悲しいよね」
悲しいよね。僕たち傍観者にとって、どんなに言葉を尽くしたってそれはうそ臭くなるだけで、瑞樹も言葉を探したのだろうけれど、結局それしか言えなかった。
「この手紙、どうする?」
ポケットに入っている手紙を取り出す。瑞樹はちょっとかなしげにそれを見つめた。
「智哉は、結局それは何だったと思う?」
少し迷って、言う。
「これをあの女の人に見せたときの反応、覚えているか? あれは明らかに、手紙に心当たりがあったんだと思う。でも、きっとあまりいい内容じゃなかったんじゃないかな」
「内容なんて、それにあるの?」
「暗号さ」
僕は口早に続ける。
「暗号っていうのは、出す人と受け取る人しか分からないものがある。解読するにはなにか鍵があって、それがないと絶対に分からないようになってるんだ。だから、僕たちには意味がなくても、差出人とあの女の人には意味があった。おそらく、津川瑞希にも」
「じゃあ、差出人って誰?」
「そこまでは分からない。でも、あの住所録が使われたことは事実だろうから、中学時代の誰かなんだろう。僕たちが知らないだけで」
「でも、あの人中学校に友達はいなかったって」
「本当に? 僕も瑞樹も、絶対とは言い切れないはずだ。僕は津川瑞希という人物の交友関係を知っているわけじゃあない」
そう言われると何も言えなくなるのか、瑞樹は俯いてしまった。けれど僕は、構わず続けた。
「つまり、あの手紙は津川瑞希に宛てようとして、間違えてしまった。それだけで、瑞樹とは関係のない手紙だった。だから、中身の意味が分からなくても当たり前で、問題はない」
強い口調で言った僕に、瑞樹は再度、視線を合わせてきた。
「本当に?」
「本当に」
僕はうなずく。ここで視線を逸らすわけにはいかなかった。
瑞樹はじっと僕の眼を見て、やがて肯いた。
「智哉が言うなら、そうなんだろうね」
いちかばちかだった。賭けに勝ったことに安堵しながら、しかしそれを外に見せないよう、表情を引き締めた。
瑞樹は、心から僕の言葉を信じてはいないだろう。当然だ。今瑞樹に力説した推理と真実は、おそらくまったく別の位置にあるからだ。
さっき立ち寄った家で、僕は薬袋を見かけた。【津川 瑞希】と書かれた袋にプリントされた病院名は、瑞樹の祖母が入院しているところだった。つまり、祖母の見舞いに行った瑞樹と津川瑞希が偶然出くわすこともありえる話なのだ。ましてや、津川瑞希も、瑞樹の祖母も、同じ心臓を患っていたのだから。
津川瑞希は、きっと瑞樹の顔を覚えていただろう。その点においては、僕は確信めいたものを感じていた。それは昨日、瑞樹を外へと追いやってから、志乃先生に聞いた話のためだった。
あの時、津川瑞希の名前を思い出させたとき、わずかに先生が渋い顔をしたのを僕は見逃さなかった。その後も、楽しそうに話しているとはとても思えない作り笑顔ばかりで、なにかあるのだと感じた。博打ではあったが、僕がかけた“カマ”に、先生はうまく引っかかってくれた。
それは一年の二学期初日、唯一津川瑞希が登校をした日の事だった。委員を決める際、学級委員の推薦で瑞樹の名前が出された。「ツガワミズキさんがいいと思います」と言う声に、誰もが納得しかけていて、賛成の声もあちこちから聞かれた。ただ一つ、問題だったのは、その時に誰も「ツガワミズキ」が二人居ることに気付かなかったことだ。黒板に「津川瑞樹」と、迷わず書いた担任すら。
それは責められることではないのかもしれない。入学から夏休みも含めて約半年を一緒に過ごしてきたクラスにとって、ツガワミズキとはすなわち瑞樹のことで、その日初めてクラスに合流した津川瑞希という人物を学級委員に推す人なんているとは思わないのだから。だが、せめて担任は聞かなければならなかった。どっちのミズキさんかしら、と。
黒板に瑞樹の名を書いて振り返り、津川瑞希の表情を見たとき、ようやく志乃先生は自分のやってしまったことに気付いたという。自分の存在を誰も認識していないという絶望を、津川瑞希は隠そうともしなかったと、先生は顔を手で覆いながら話してくれた。
それだけではない。津川瑞希は、小学校は養護学校に通っており、本人の希望で中学校は普通学級を選んだと志乃先生から聞くことができた。つまり、小学校の友人もその場には誰一人いなかったということだ。その状況の中、休み時間などに「ミズキ」と名前を呼ぶ声が聞こえる。しかし、それも全て瑞樹に向けられた言葉なのだ。
次の日から、津川瑞希は再び学校を休むことになり、二学期の終わりには養護学校へと転校してしまった。それは自分のせいだったのではと、志乃先生は悔いていたらしい。だから、あの葉書も捨てられなかった。自分を常に戒めるために、と。
瑞樹は、きっとその時も気付いていなかっただろう。同じ名前の人がいたんだ、という感慨だけで、名前を呼ばれながらもその相手が自分ではないという辛さを感じていた津川瑞希という人物の思いを知れというのは酷なことだ。
しかし、津川瑞希にとって、それは忘れられない出来事だった。だから、手紙を書いた。手紙を書いたのが津川瑞希であるという確信も、僕は抱いていた。さっき、手紙を見せたとき、彼女の母親は手紙に反応した。きっと、その字に見覚えがあったのだろう。そして、瑞樹の話もきっと娘から聞いていたのだ。憧れと、自分の境遇への恨みを伴った、親としては辛い話を。そう考えると、内容も、宛名の間違いも読めてくる。住所は、あの住所録を用いたから間違ったに違いない。だが、宛名は意図的だろう。ささやかながら、自分の存在に気付けというメッセージ。そして文面。スタートラインにも立てない。それは、自分と瑞樹の立場を反映してのことだろう。中学のあの時から、同じ名前なのに、常に注目を浴びるのは瑞樹。その理不尽さ。もし同じ立場なら競うことだってできるのに、病気というハンデのため、それすらできない憤り。
それを再び感じるとしたら、どんなときか。やはり、瑞樹を見つけたときだろう。だから、僕は思う。津川瑞希は、病院で瑞樹を見かけたのだ。元気そうに歩き、ベッドで寝るためのものではない綺麗な服を着て、笑顔を振りまく瑞樹を見て、思い出すのだ。中学の時の、あの孤独を。そして思うのだ。
同じ名前なのにどうして、と。
こんなこと、瑞樹に言えるはずがなかった。津川瑞希は、君に、恨みに近い嫉妬を抱いていたんだ。憧れながら、憎しみ、悔しがり、絶望を感じて、死んだんだ。誰がそんな事を言える?
もちろん、これは僕の想像でしかない。想像は所詮、想像でしかない。だから、僕は信じる。津川瑞希は病気で死んだのだ、と。
母親らしき女性は言った。「手術中に、心臓がもたなくなった」と。けれど、心臓手術の場合、わざわざ心臓がもたなくなった、と言うだろうか。心臓手術をしていて亡くなったのなら、手術に失敗した、と言えばいいのだ。だから、勘ぐってしまう。彼女は心臓以外の手術を受けていたのではないのか。ではなぜそんな手術を受けることになった?
瑞樹をみかけたことで、彼女は絶望したのではないだろうか。終わりの見えない日々に、強烈過ぎる光が差し込んだのだ。どれだけ憧れても手に入れられなかったものを、自然に保有している、自分と同じ名前の人を見て。自分は絶対にあの位置には立てないのだと絶望して、みずから命を絶とうとしたとは考えられまいか。たとえば、階段から転げ落ちて。
やめよう。僕はすべての考えを振り払うように頭を振った。それこそ、僕の妄想に過ぎない。なんの確証もないのだから。
津川瑞希は、病気と闘って、綺麗な服をいつか着たいと憧れて、もっと生きたいと必死になって、思いはかなわなかったけれど、安らかに眠るように旅立ったんだ。それが、誰のためでもあるように思えた。
すでに空が茜色になっていることに、ようやく僕は気がついた。
僕は目を開け、机の隅に置いていた少し黄ばんだ日記を手に取った。眺めるようにパラパラと開き、目当てのページで手を止める。九月一日。五年前の、二学期の始まりの日。
この日、僕はある出会いをしていた。それは、五年後の今までずっと覚えているようなものではなかったけれど、当時の僕にはとても強い印象だったようで、日記の冒頭から書き始められていた。
『今日、津川瑞希という女子がクラスに顔を出した。
瑞樹と同姓同名でビックリした。漢字は違うけれど。どうやら、なにか重い病気を抱えていて、学校に来るのも初めてだったらしい。道理で、覚えていないと思った。
席が近かったし話しかったけれど、恥ずかしくて何も話せなかった。まあ、明日もあるし、次第に話せるようになればいいだろう。
席が隣になったのは、なんとなく嬉しい。毎日あの横顔が見れると思うと――』
この日の日記は、瑞樹と同じ名前の女子の話題で埋め尽くされていた。
明日がある、と書いてはいるが、その明日は永遠に来なかった。次の日と、その次の日までは僕も日記に書いていたけれど、それ以降、津川瑞希の事に触れた記述は一つもなかった。
もし。
もしこの日、僕が隣に座った女子に声をかけていたならば、何かが変わっただろうか。なんでもいい。たわいのない挨拶でもいい。もしかしたら、なにか共通の話題があってそれで盛り上がったかもしれない。なんでもいい、その女子を他の誰でもない〝津川瑞希〟として話すことができたなら、今日のようなことは起きなかったのだろうか。
僕は日記を閉じ、再び目を閉じる。
九月一日。僕は何一つ期待せず、登校したはずだ。変わりない日常に飽きながら、かといって何かをしたいわけでもなく、何かが起きないかと待っているだけの日々だったと思う。そして、その何かは起こる。最初は、名前に驚かされるのだ。彼女は隣の席に座る。僕はその人を横目で見ながら思うのだ。これで、明日から何か起こるのではないだろうか、と。
それなのに、綺麗だと思った津川瑞希の横顔を、僕はいまだに思い出すことができない。