06. パン屋で顔を合わせて
鍋を修理に出した翌朝、アリスはいつもより少し遅い時間に家を出た。昨夜から吹いていた風は明け方には収まり、通りには柔らかな春の日差しが落ちている。向かいの家の軒先では冬の間しまわれていた鉢植えが外へ出され、土の中から伸び始めた若い芽が朝露に濡れていた。暖かくなったとはいえ日陰にはまだ冷たさが残っており、アリスは羽織ってきた薄手の上着の前を閉じてから市場の方角へ歩き出した。
今日は特に急ぐ用事があるわけではなかった。塩が少なくなっているため買っておきたいのと、昨夜の煮込みに使った根菜を補充しておきたい。その程度の買い物である。市場まで行けばどちらも手に入るため、昼までには帰れるだろうと考えながら歩いていると、三軒先の家の扉が開いた。
出てきたのはエマだった。昨日まで玄関近くに積まれていた木箱は見えなくなり、開けられた窓には薄い布が掛けられている。まだ完全に片づいたわけではないだろうが、最初に見たときよりずっと家らしくなっていた。
「おはようございます、アリスさん」
「おはようございます。片づけは終わりました?」
「どうにか寝る場所は確保できました。残りは暮らしながらでもいいかなって」
エマはそう言って笑った。腕には買い物籠を提げており、中には折り畳んだ布袋が入っている。これから市場へ行くのかと尋ねると、食料を買うついでに町の店をいくつか見ておきたいのだという。
「リナは?」
「家です。昨日から外ばかり見ていたから、今日は自分の荷物を片づけるように言いました。たぶん半分くらい片づけたら、また窓から外を眺めていると思いますけど」
「リナならやりそうですね」
「もう分かってきました?」
まだ二日しか知らないのに、アリスにもその光景は簡単に想像できた。エマは市場までの道をもう一度確認したいというので、二人はそのまま一緒に歩くことになった。
通りへ出ると、朝の買い物へ向かう人々が行き交っていた。荷車を引く男の横を子供たちが駆け抜け、家の前を掃いていた女性が近所の者と立ち話をしている。エマは歩きながら周囲をよく見ており、ときどき店の看板や脇道へ視線を向けていた。昨日は荷物を運ぶだけで一日が終わってしまったため、町をまともに歩くのは今日が初めてらしい。
「思っていたより大きい町なんですね」
「どのくらいだと思っていたんですか?」
「もっと家が少なくて、畑の間に店が何軒かあるくらいかと。ここへ来る途中に寄った集落がそんな感じだったので」
「エルデンは昔からこの辺りでは大きい方でした。今より人が多かった時期もあります」
帝国が存在していた頃には、周辺の村々から人が集まる場所でもあった。伯爵家の領内を通る街道の一つが町の近くを通り、市場には決まった日に農産物や家畜が運び込まれていた。帝国崩壊後には街道を利用する商人が減り、店を閉めた者も多かったが、近年は別の方向から人が入ってくるようになっている。
以前の賑わいが戻ったという言い方は、アリスには少し違うように感じられた。人が増えているという点では似ていても、町へ来る人間も、運ばれてくる商品も、聞こえてくる言葉も昔とは違う。失われたものが元へ戻っているのではなく、空いた場所へ別のものが入り始めている。
「アリスさんは、ずっとここに?」
「ええ。生まれたときから」
「だったら、町のことは何でも知っていますね」
「それが、そうでもないんです。新しい店も増えましたし、知らない道具を売っていることもあります。昨日なんて、自分が使っている鍋のことを鍛冶屋さんに教えてもらいました」
エマが興味を示したため、アリスは昨日聞いた古い規格の話を簡単にした。同じ数字が書かれていても、作られた土地によって大きさが違う場合があること。帝国時代には工房の基準が決められていたものの、現在では周辺の国々から異なる規格の品が持ち込まれていること。
「じゃあ、私が持ってきた裁縫道具も違うのかしら」
「裁縫にも規格があるんですか?」
「針はそこまで困らないと思います。でも布の長さを測るときは、土地によって少し違いますよ。前にいた町では商人と仕立て屋が同じ物差しを使っていましたけど、ここで同じとは限らないですね」
アリスは知らなかった。昨日は鍛冶屋で金属製品の違いを聞き、今日はエマから布を測る基準について聞いている。国境を越えることが珍しくなくなった今では、商人や職人の方がこうした違いに敏感なのかもしれない。
「仕事を探すなら、それも確かめないといけませんね」
「そうなんです。昨日教えてもらった仕立て屋さんも見てみるつもりです。いきなり雇ってくださいと頼むより、どんな仕事をしているのか知っておきたいので」
「それがいいと思います」
アリスはゲルダの店を知っていたが、昨日と同じように紹介を申し出ることはしなかった。エマが自分で店を見て、自分に合うと思えば訪ねればいい。必要になったときに場所を教える程度で十分だった。
二人が市場へ向かう角まで来たところで、焼いた小麦の香りが漂ってきた。まだ朝の客が多い時間らしく、マルタとハンスの店では扉が開け放たれ、窓際に昨日より多くのパンが並んでいる。丸いパンのほか、細長く焼いたものや、表面に種を散らした小さなパンもあった。
「ここ、パン屋さんですか?」
「一昨日開いたばかりです。私も昨日初めて買いました」
アリスが答えたところで、店内にいたマルタがこちらに気づいた。窓越しに目が合い、そのまま笑顔で手招きされる。買う予定がなかったと言って通り過ぎるには少々気まずいほどはっきり呼ばれてしまったため、アリスは足を止めた。
「寄っていきます?」
「私はちょうどパンも買いたかったので」
エマがそう答え、二人は店へ入った。
昨日より店内は整っていた。床に残っていた木箱はほとんど片づけられ、棚には種類ごとにパンが並んでいる。壁際には値段を書いた小さな札も取りつけられており、開店直後の慌ただしさが少し薄れていた。奥の作業場からは焼き上がったばかりのパンの匂いが流れ、窯の熱で店内は外より暖かい。
「おはよう、アリスさん。昨日はどうも」
「おはようございます。今日はずいぶん並んでいますね」
「ハンスが朝から張り切ったの。昨日教えてもらったことも、さっそく試してるわ」
マルタが指した棚には、昨日アリスが買ったものより少し色の濃い丸パンが並んでいた。ライ麦を少量混ぜて焼いたらしく、まだ配合を変えながら試している途中だという。アリスが口にした昔の記憶だけを頼りに再現したわけではなく、ハンス自身が市場の穀物商に聞き、手に入った粉を何種類か試したらしい。
「昨日より柔らかくなったって本人は言ってるけど、私は昨日のも嫌いじゃなかったのよ」
「私も味は好きでしたよ。少し詰まっている感じはしましたけど」
「それ、あとで本人にも言ってあげて。朝から私に感想を聞いてくるのよ」
マルタはそこで、アリスの隣に立つエマへ視線を向けた。アリスが紹介しようとすると、エマの方が先に軽く頭を下げた。
「エマ・ローデといいます。二日前に、この近くへ越してきました」
「マルタ・ハインです。夫とここを始めたばかりなの。ということは、私たちとほとんど同じ頃に来たのね」
「私は一昨日です」
「私たちは少し前に着いて、店を開けたのが一昨日。じゃあ私の方がほんの少し先輩ね」
「そのくらいなら、ほとんど同じじゃないですか?」
「大事よ。二週間くらいは先輩なんだから」
冗談めかして胸を張るマルタに、エマが笑った。アリスが何か話題を用意する必要もなく、二人はどこから来たのか、荷ほどきがどれほど大変だったかという話を始めた。マルタたちは店を開くための道具が多く、荷馬車二台分になったという。エマは一台に収めるため家具をいくつか手放してきたらしく、今も椅子や棚が足りていない。
「家具なら、どこで買えばいいか知ってる?」
「市場でも中古品が出ることはありますよ」
尋ねられたためアリスが答えると、マルタも別の店を知っていた。自分たちが店の棚を用意するときに世話になった木工所があり、既製品だけでなく簡単な棚なら注文もできるという。
「でも、新品だとそれなりにするわ。私たちは店だから必要経費だと思って頼んだけど、家で使うものなら中古でも十分かも」
「まず市場を見てみます。まだ仕事も決まっていないので、あまり使いたくなくて」
「仕事を探してるの?」
「仕立ての仕事があればと思ってます。前の町でも縫い物をしていたので」
そこから話題は仕事へ移った。マルタも町へ来る前には、パン屋を開いて客が来るのか心配していたらしい。移住者が増えているという話だけを頼りに来たわけではなく、ハンスと二人で何度かエルデンを訪れ、人通りや空き店舗、穀物の値段を調べてから決めたという。
アリスは初めてその話を聞いた。マルタたちは勢いだけで町へ来たわけではなかったらしい。
「それでも、実際に始めるまでは分からなかったけどね。昨日は思っていたより売れたし、今日はまだどうなるか分からない。三か月後には暇で二人で窓を眺めてるかもしれないわ」
「そんなこと言うなよ」
奥からハンスの声が飛んできた。姿は見えないが、会話は聞こえていたらしい。
「聞いてたの?」
「聞こえるんだよ。店が狭いんだから」
「じゃあ、三か月後も忙しくなるように、おいしいパンを焼いてください」
「そのつもりだ」
マルタは満足そうに頷き、エマへ向き直った。
アリスは棚に並ぶパンを眺めながら、二人の話を聞いていた。どちらもこの町へ来てまだ間もない。アリスよりエルデンについて知らないことは多いはずなのに、移住して仕事を探すことや、別の土地から生活道具を運ぶことについては、アリスよりずっと具体的な経験を持っている。
この町について何か尋ねられれば、自分が教える側になると思っていた。
けれど、三人で話していると、それだけではなかった。
「そういえば、アリスさん」
マルタに呼ばれ、アリスは顔を上げた。
「昨日ハンスが鍛冶屋で会ったって言ってたわよ。鍋、直った?」
「直りました。ハンスさんの道具も置いてありましたよ」
「今朝取りに行って、もう使ってる。あれがないと大変なのよ」
奥から何かを動かす音が聞こえ、ハンスが作業場から顔を出した。昨日ロルフが修理していた長い道具を手にしている。新しい金具はしっかり固定されているらしく、ハンスは問題なく使えていると話した。
「ロルフさん、今度パンを買いに来るって言ってましたよ」
「本当? だったら少しおまけしないと」
「やめろ。修理代はちゃんと払ったんだから」
「おまけくらいいいでしょう」
夫婦の話が始まったところで、新しい客が二人入ってきた。マルタはすぐに仕事へ戻り、アリスとエマは棚の前を空けるため少し端へ移動する。エマは朝食用のパンを二つ選び、リナが甘いものを好むからと小さな焼き菓子も一つ買った。
アリスも昨日とは違うライ麦入りのパンを一つ買うことにした。予定にはなかったが、配合を変えたと聞けば味の違いが気になる。代金を払って店を出ると、外の空気が思った以上に冷たく感じられた。
「面白い人ですね、マルタさん」
店から少し離れたところで、エマが振り返った。
「私もまだ二回しかまともに話していませんよ」
「そうなんですか? もっと前から知っているのかと思いました」
「店を準備しているところを見かけたのが最初です」
エマは意外そうにしたあと、それなら自分と大して変わらないと笑った。二人はそのまま市場へ向かい、入口近くに並ぶ店を一つずつ見ていった。エマは食料の値段だけでなく、布を扱う店や糸を売る露店にも目を向けている。
市場の中央付近まで来たところで、アリスはゲルダの仕立て屋へ向かう道を教えた。ここからなら大通りを外れ、工房の並ぶ通りへ入ればすぐに見つかる。
「今日は店を見るだけにするつもりでしたけど、せっかくだから行ってみようかな」
「場所は分かります?」
「たぶん。鍛冶屋の近くですよね」
「ええ。大きな窓に服が二着飾ってあります」
アリスも一緒に行こうかと一瞬考えたが、やめた。ゲルダとは顔見知りだから、アリスが隣にいればエマが自分で話をする機会を邪魔するかもしれない。
「私は買い物を済ませて帰ります」
「分かりました。昨日も今日も、いろいろ教えてくれてありがとうございます」
「分からなかったら、帰ってから聞いてください。家は近いですから」
エマは頷き、人混みの向こうへ歩いていった。
アリスはその背中をしばらく見送ってから、根菜を売る露店へ向かった。ほんの数日前まで、エマの名前もマルタの名前も知らなかった。今朝は家を出た時点で一人で市場へ来るつもりだったのに、途中からエマと歩き、パン屋では三人で話をしていた。
それでも、三人が特別親しい間柄になったわけではない。マルタは店へ戻り、エマは仕事を探しに行き、アリスは一人で買い物を続けている。それぞれに今日やることがあり、別々の場所へ向かっていた。
根菜を選び終えたあと、アリスは塩を買うため市場の奥へ進んだ。通りの向こうには、さっきまで一緒にいたエマの姿はもう見えない。
家へ帰ったら、買ったパンを昼に食べてみよう。
昨日より柔らかくなったというハンスの言葉が本当なのか、少し楽しみだった。




