その録音水晶、あなたの声も録っています。「年寄りの耳は、遠くてねえ」と祖母が笑った日、義姉様は相続の席から消えました
前回の姉弟バディものに思いのほかご好評をいただき、今回はその第二弾——祖母と孫娘のバディものです。
私の名を、おばあさまは猫の名前で呼んだ。十年前に死んだ、先代の飼い猫の名前で。
「ロッテです、おばあさま。孫のロッテでございます」
「おや、そうだったかい。ロッテ、ロッテ……セシリアだったかね」
「そちらは義姉様です」
「では、ミーナ」
「猫です。しかも故人ならぬ故猫です」
義姉様は口元を扇で隠した。笑うのをこらえた、というより、欲しかった値札を見つけた顔だった。
「仕方ありませんわ。おばあさまには、商会もお屋敷も、もう重荷ですもの」
「おや、なんだって?」
「今後のことを、私どもにお任せいただきたいと申し上げたのです」
「年寄りの耳は、遠くてねえ」
おばあさまは卓上の菓子器へ手を伸ばした。琥珀色、薄紅、菫色の飴の中から菫だけをつまみ、私の掌へ落とす。
「お食べ、ミーナや」
名前は忘れるのに、好物は忘れない。どっちなの。
義姉様は扇を畳み、お兄様は窓の外を見た。私だけが菫の飴を握りしめ、薄い角が掌へ食い込むのを黙っていた。
その夜、台所で玉葱を刻んだ。玉葱はとっくに鍋へ入れたのに、私は空のまな板を前に袖口を濡らし、料理番から黙って布巾を渡された。犯人を玉葱にしてもらえるなら、今夜だけはそれでよかった。
◇
翌朝、おばあさまは寝台の上で帳簿を読んでいた。眼鏡は鼻先にずれていたが、昨日届いた砂糖の樽数まできっちり覚えている。
「おばあさま、私の名は?」
「ロッテ」
「昨日は?」
「昨日がどうしたんだい」
即答。迷いなし。私が口を開きかけたところで扉が開き、義姉様が書類の束を抱えて入ってきた。
「まあ、おばあさま。また古い帳簿などご覧になって。もうお休みになっていてくださいな」
「おや、ミーナ」
「セシリアです!」
故猫へ格下げされた義姉様の眉が跳ねた。私は天井の染みを見た。あの染み、昨日よりずいぶん面白い形をしている。
「今日は大切なお話がございますの。おばあさまをお守りするため、ユリウスに後見をお願いしたくて」
「はて、こうけん?」
「おばあさまのお財布を預かる係です」
「おや。私の財布をかい」
「ええ。ですから、こちらへご署名を」
「ご飯はまだかねえ」
「さっき召し上がりました」
「おや、そうだったかい」
署名の話は、朝食の皿と一緒に片づけられた。義姉様は書類を拾い直し、今度は署名欄を手で隠して、お兄様の名を書く位置だけを指した。
「難しいことは私どもでいたしますわ。おばあさまは、ここへお名前だけ——」
「書類がないねえ」
「お持ちです!」
「どこに置いたかね」
「右手です! たった今、私がお渡ししましたでしょう!」
おばあさまは書類を持った右手を上げたまま、枕の下を探り始めた。義姉様が右へ回れば右手も逃げ、左へ回れば枕が持ち上がる。老女一人と紙一枚に翻弄される義姉様。天井、頼む。今そちらを見ないと、私の口元が反乱を起こす。
「ミーナ、何を探しているんだい」
「私はセシリアです!」
「猫にしては大きくなったねえ」
駄目だ。天井の染みでは足りない。梁の節まで総動員だ。
義姉様の前でだけ。しかも、義姉様に都合の悪い時だけ。
私は咳を一つして笑いを飲み込んだ。怖い。嬉しい。どちらも喉につかえて、変な咳になった。
「今日はお疲れのようですから、またにいたしますわ」
義姉様は立ち上がり、頼まれてもいないのに置き時計の位置を直した。文字盤をこちらへ向け、台座を指一本分だけ壁から離す。世話好きとは、時計の尻まで気になるものらしい。
◇
数日後、私は置き時計の裏に青白い光を見つけた。覗き込めば、爪ほどの録音水晶が台座へ押し込まれている。
「おばあさま、これは——」
おばあさまは水晶を見た。けれど手を伸ばさず、ずれた時計の位置を直しもしない。その目だけが私へ向き、ほんの少し細くなった。
外すな。
声にはならなかったが、ほかに読みようがない。私は時計の埃を払うふりをして手を引っ込めた。胸の中では心臓が机を叩いていた。承知しました、店主殿。理由はまるで聞いておりませんが!
その日の午後、義姉様は再び書類を持ってきた。おばあさまがうとうとしているのを見るなり、私の腕をつかんで廊下の隅へ寄せる。
「あなたからも署名を勧めなさい」
「おばあさまがお決めになることです」
「そう。では、あなたの縁談もご自分でどうにかなさるのね? お兄様の口添えがなければ、まともなお話は来ないでしょうけれど」
「それは脅しですか」
「家族として心配しているだけよ」
心配という言葉は便利だ。縄にまでリボンをかけられる。
「本当に、言い方が、先代にそっくりだこと。可愛げがないわ」
言い捨ててから、義姉様の唇が「私がこの家へ嫁いだ日から——」の形に動きかけ、いえ、いいわ、と自分で閉じた。
義姉様は部屋へ戻り、置き時計の前で声を落とした。
「お耳も遠くていらっしゃるのねえ。好都合ですこと」
時計の陰で水晶が淡く瞬いた。私の腹の中でも、そろばん玉が一つ動いた。可愛げは売り切れました、義姉様。代わりに勘定なら、たっぷりございます。
その日の夕方、薬種商の青年が納品に来た。伝票の数字は狂わず、樽の数も一目で合わせて帰る。義姉様の「心配」は縄なのに、この人の数字はまっすぐで、輪がない。それが、少し眩しかった。
◇
親族会議の日取りは、義姉様が自分で決めた。おばあさまの衰えを皆に見てもらうのだと、年長の親族へは慎ましく頭を下げ、私たちだけになると署名欄を叩いた。
「今日こそ、こちらへお名前をお願いします」
「ご飯はまだかねえ」
「さっき召し上がりました!」
「そうかい。それなら、この書類を——おや、書類がないねえ」
「お持ちです! また右手です!」
義姉様が奪い取ろうとすると、おばあさまは書類を袂へ入れ、その袂を覗き込んだ。探し物が自分で逃げる高度な怪奇現象である。もちろん被害者は義姉様だけだ。
「昔、胡椒一袋を金貨一枚で売ろうとした商人がいてねえ」
「そのお話は昨日も伺いました。まず署名を」
「昔、胡椒一袋を金貨一枚で売ろうとした商人がいてねえ」
「二度目です! おばあさま、ここへ!」
「昔、胡椒一袋を金貨一枚で売ろうとした商人がいてねえ」
三度目で書類は完全に袂の奥へ消えた。義姉様は卓へ両手をつき、肩で息をした。
私は天井を見上げた。笑えば助手失格、笑わなくても腹筋が死ぬ。おばあさま、敵より先に味方を倒す作戦でしょうか。
書類を諦めた義姉様が、ふと思いついた顔で言った。
「昨日届いた砂糖は、七樽でしたかしら」
本当は十樽。わざと少なく言って、訂正が出るか試している。私は帳簿の数を飲み込んだ。
「さあ、樽の数は蔵番にお聞き」
おばあさまは顔も上げずに躱す。義姉様は小さく頷いた。数さえ覚えていない、と安心した顔で。
「セシリア、今日はもういいんじゃないか」
お兄様はそう言いながら、止めるための手は出さなかった。義姉様が別の書面を広げると、自分の印章だけはすぐ卓上へ置く。
「会議では、おばあさまが反対できる状態ではないと説明します。名義を書き換える案も、このままで」
「僕は何も決めていないよ」
「ええ。私が読み上げますから、あなたは印を」
お兄様は窓を見たまま、印を押した。硬い音が一つ、置き時計の前へ落ちる。
「これで僕が商会を支えられるなら」
水晶は、夫婦の頼もしい相談を残らず聞いていた。
◇
親族会議の席は義姉様が整えた。おばあさまは卓の端、私はその後ろ。義姉様とお兄様は中央に並び、屋敷の鍵束まで自分たちの側へ置いている。
年長の親族が入ってくると、義姉様はおばあさまの肩へそっと手を置いた。返事を待たずに言葉をかぶせていた人が、今だけはいたわり深い家族代表の顔をしている。
「皆様、本日はお集まりくださり、ありがとうございます。おばあさまのご様子を、身内だけで確かめていただきたくて」
「オルガ殿ご本人の話を聞こう」
「ええ、もちろんでございます。ですが、まずは記録をお聞きくださいませ」
敬称が一つ増え、義姉様は回答をお兄様へ渡した。それから、置き時計から外した録音水晶を卓の中央へ置き、得意げに触れた。青い光が卓上に広がり、そこから流れたのは、名前を間違え、書類をなくし、同じ話を繰り返すおばあさまの声だった。
親族たちは視線を伏せた。義姉様は悲しげに唇を結び、後見の書面を卓の中央へ滑らせる。
「この状態では、商会の判断をお任せできません。夫が代わってお支えするほかないと、私どもは——」
「……やむを得んかもしれんな」
年長の親族の一人が呟き、隣がゆっくり頷いた。卓の空気が、書面のほうへ傾いていく。
録音の中のおばあさまは、あまりにも頼りなかった。分かっていたはずなのに、台所の夜が戻ってきて、指先が冷える。もし私が、都合よく信じたかっただけなら。
その時、おばあさまの手が袂の下で動いた。誰にも見えない角度から、菫の飴が私の掌へ一つ落ちる。たくさんのことを忘れた手が、色だけは迷わなかった。
「ロッテ」
間違えなかった。
息が止まり、うなじの産毛が立った。掌の飴は小さいのに、帳尻だけがぴたりと合った。
「年寄りの耳は、遠くてねえ」
おばあさまは水晶を見た。
「けれど、そちらの耳はよく聞こえたようだ。止めずにおきなさい」
水晶から、義姉様の声が流れた。
『あなたからも署名を勧めなさい』
『おばあさまがお決めになることです』
『そう。では、あなたの縁談もご自分でどうにかなさるのね? お兄様の口添えがなければ、まともなお話は来ないでしょうけれど』
義姉様の得意げだった指が、水晶の上で止まった。
「これは違います! 説得のために、少し強く言っただけですわ。家族を守るためで——」
椅子の脚が一つ鳴った。年長の親族が、義姉様からわずかに距離を取る。
「その水晶も怪しいものです。前後を切り貼りされたのかもしれません!」
青い光は途切れなかった。
『会議では、おばあさまが反対できる状態ではないと説明します。名義を書き換える案も、このままで』
『僕は何も決めていないよ』
『ええ。私が読み上げますから、あなたは印を』
続いて、硬い押印の音。
『これで僕が商会を支えられるなら』
息遣いから押印の音まで残っている。これで、お二人の逃げ道はない。
「僕は、セシリアに任せていただけで……」
お兄様の声が痩せた。親族の椅子が、今度は一斉に兄夫婦から離れた。
おばあさまが、肩に置かれた義姉様の手を外した。曲げていた背を伸ばし、卓の中央を見渡す。その姿から猫背が消えるだけで、部屋の席順までひっくり返った。
「この商会も屋敷もねえ、私が建てて、私が守ってきたんだよ。誰に継がせるかも、私が決める」
声は、いつもの間延びした年寄りの声のままだった。それなのに一度も言い淀まず、部屋の誰の声より大きく聞こえた。
「セシリア。お前さんに帳場は任せられないねえ。ユリウス、止めなかった者は、知らなかった者にはなれないよ。二人とも、商会の役目はお終い。屋敷の管理からも外れておくれ」
「おばあさま、どうかお考え直しを。私どもはただ——」
「商売人としては、ずいぶんお粗末だねえ」
おばあさまの一言で、義姉様の口が閉じた。上品な刃物は、鞘から出るとよく切れる。
「鍵をお返し。帳簿と商会は、今日からロッテに任せるよ。それから、ロッテの嫁入りはロッテが決めること。お前さんたちの取引の道具じゃあないよ」
胸の中で拳を握った。どうだ、義姉様。私の縄は今、そちらの勘定書を縛る紐になりましたよ!
お兄様は卓上へ鍵束を置いた。義姉様も腰の鍵を一つずつ外したが、金庫の鍵だけがない。束に残った空の輪が、たいへん雄弁だった。
「金庫の鍵もお願いします、義姉様」
「何のことかしら。私は預かっていません」
「左の袖口が、先ほどから卓に当たるたび鳴っております」
義姉様が袖を押さえる。遅い。私は手を差し出し、逃げ道ごと塞いだ。
(なんなのよ……この祖母と小姑は……)
「お返しください」
親族の視線が集まる中、義姉様は袖の内側から小さな鍵を出した。私の掌へ落ちたそれは、菫の飴よりずっと冷たく、ずっと重い。受け取った私は鍵束へ通し、輪を閉じた。
「何も仕掛けなければ若奥様のままでいらした。仕掛けた結果、持っていた席まで、すべてお返しいただきます。差し引き、大損でございますね」
年長の親族が低く呟いた。
「……先代の若い頃に、そっくりだ」
「おや。誰に似たんだかねえ」
おばあさまだけが、とぼけた顔で首を傾げる。
席を立った義姉様は、出際におばあさまの袂を一度だけ見た。何か言いかけ、言葉にはせず背を向ける。
私は反射的に天井を見上げかけ、途中でやめた。今日から見るべきものは、染みではない。掌の鍵束だ。見上げて耐える係は、本日をもって廃業である。
◇
兄夫婦はその日のうちに帳場の席を失い、屋敷の管理簿からも名を外された。お兄様は最後まで「僕は決めていない」と繰り返したが、印影は本人よりよほど正直だった。決めないことが、この人の身の守り方だったのだろう。いつからかは、知らない。
二人きりになると、おばあさまは鍵束を握る私の手を包み、空いたほうの掌へ菫の飴を載せた。会議の時とは違い、包み紙の端を指でゆっくり撫でている。琥珀も薄紅もご自分でつまむのに、菫だけは、いつも誰かの掌にしか落とさない。私はそれに気づいている。
「怖い思いをさせたね」
私は飴を握った。台所で濡れた袖口も、空のまな板も、おばあさまは見ていないはずだった。ふと、あの夜に黙って布巾を差し出した料理番の顔が浮かんだ。この屋敷の耳は、時計の裏だけではないらしい。
「次からは、先に教えてください」
「次があるのかい」
「ないようにしてください!」
「それは相手に言っておくれ」
無理だ。うちのおばあさま、反省より先に次戦の責任分担を始めている。
「ロッテ」
「はい」
「帳場を頼んだよ」
今度も間違えなかった。
「はい、おばあさま」
返事をすると、菫の飴の包みが掌の中で小さく鳴った。
◇
数日後、取引先の薬種商の青年が帳簿を届けに来た。数字に間違いは一つもなく、目録にない薄荷の飴だけを帳場の端へ置いていく。
「試供品です」
「目録にありませんが」
「ですから、試供品です」
それだけ言って、彼は耳を赤くしたまま帰った。おばあさまは薄荷の飴をつまみ、窓辺で日に透かす。
「ロッテは菫だと、次は教えてやろうかね」
「縁談はおやめください」
「縁談とはひとことも言っていないよ」
しまった。先に言った私がいちばん意識しているみたいではないか。薄荷の飴を帳簿の引き出しへ放り込み、私は何事もなかった顔で鍵をかけた。縄にするはずだった私の縁談は、今は私の手綱だ。どちらへ進むかは、私が決める。
◇
夕暮れの縁側で、おばあさまと並んで茶を飲んだ。庭の菫はもう花の時期を終え、風だけが涼しく葉を揺らしている。
「そういえば、セシリアの実家は砂糖の卸だったねえ」
「よくご存じで」
「ただの世間話だよ」
世間話にしては、目の奥が笑っていない。次はどの親戚が来るか、もう見当をつけた顔だ。
ふと見ると、私の膝に薄荷の包み紙があった。引き出しへ放り込んだはずの一枚が、いつのまにか手元にある。
「ロッテや、それは菫かい」
「薄荷です」
名前は忘れるのに、好物は忘れない。今のは、忘れたふりだ。
「ご飯はまだかねえ」
「さっき召し上がりました」
「冗談だよ」
今度は私も一緒に笑った。
お読みいただき、ありがとうございました。
とぼけの祖母と、ツッコミの孫娘。凸凹バディの事件簿、いかがでしたか。
「この二人の次の騒動も読みたい」と思っていただけたら、感想欄でぜひひとこと。続編の一番の後押しになります。
面白かった——そんなときは、★やリアクションでそっと教えていただけると、創作活動の励みになります。
ほかの短編も、作者ページからのぞいてみてください。




