赤いレインコート
バイトの帰り道。俺はスマホを見ながら歩いていた。
夜だというのに熱帯夜のせいで、服がじわじわと汗で湿っていくのを感じてうんざりする。
早くクーラーの効いた自宅に戻りたい。
そんなことを考えながら歩いていると、視界の端に赤いものが見えた。
何かと思って視線を向けると、街灯の下に真っ赤なレインコートを着た黒髪の長い女が立っていた。
(こんな夜中になんで……)
疑問に思いつつ、俺はなるべく女を見ないようにして、その場から離れた。
それにしてもこんな暑い夜に雨も降ってないのにレインコートを着てるなんて、どう考えてもおかしい。
俺は不気味さを感じながらバス停へと向かった。
バス停に着くと丁度バスがタイミング良くやってきた。
俺はホッとしてバスの中に入った。しかし──
「ひっ!」
悲鳴を上げかけて何とか飲み込んだ。
さっきの……そう、さっき街灯の下に立っていた赤いレインコートの女がバスの中にいたのだ。
女は一番後ろの席に座っていた。
(なんでだ!? ここに来るまで、あの女は俺を追い越していない! なのに何でここにいるんだよ!)
女から少しでも離れたかったから、俺は運転席のすぐ後ろの席に座った。
大丈夫……ここには運転手もいる。変な気を起こしても男二人なら何とかなる……。
そんなことを思いながら、俺は早く自宅近くのバス停に着くように願った。
しかしふと考えた。もし女がストーカーだったら? 俺の家の住所がバレるんじゃ……。
どうしたらいいのか必死に考えを巡らせ、俺は思いついた。
降りるバス停の一つ前で降りようと。
いやでも、女も一緒に降りてきたらどうする?
バスが目的地に近づく。
俺は決断した。一つ前のバス停で降りようと。
そしてついにバス停にバスが着いた。
俺は女の方を見ないようにして、バスを降りていく。バスが閉まる音がして去っていく。チラリとバスを見ると、赤いレインコートの女が後ろの席に座ったままなのが見えた。
(なんだ……俺の考え過ぎか)
心がフッと軽くなる。
俺は熱を持った湿気のある空気が、全身にまとわりつくのにうんざりしながら家へと急いだ。
そして家にたどり着くと、電気は消えていた。家族はみんな寝てしまったのだろう。いつものことだ。
門扉を開けて、玄関の鍵を開ける。
中に入るとムワッとした熱気が俺を襲う。
「なんだよ! 母さんクーラー付けといてくれなかったのかよ……」
文句を言いながら、俺はリビングに行くと、クーラーを付けるためにリモコンのボタンを押す。だけどクーラーが何の反応も示さない。
壊れてしまったのか、はたまた電池が切れたのか、俺は暑さで苛々しながらリモコンのボタンをめちゃくちゃに押した。早くこの暑さから解放されたい!
その時、ふと背後に気配を感じ、俺は家族の誰かが目を覚まして降りてきたのだと思って文句を言った。
「あれだけ言っただろ! クーラー付けといてくれって! なんかクーラーの調子が悪いみたいで付かないんだよ」
愚痴る俺に返事をしないから、俺は苛立ちを抱えたまま背後を振り返った。
リビングの入り口に、あの真っ赤なレインコートの女が立っていた。
「なっ、なんで!」
驚きすぎて身体が硬直する。
女はじりじりと俺に近づいてくる。俺は後退りしようとして、ソファーの角に足を引っ掛けてしまい尻もちをついた。
「や、やめ……」
女はゆっくりと近づいてくる。俺は大声を上げた。
「母さん! 父さん! 変な女が! 変な女が──」
そう叫んだとき、女が音もなく距離を詰めてきて、俺の顔を掴んだ。
女の顔が長い髪の間から見えた。見えてしまった。
女の顔は大小いくつもの水疱ででこぼこしていて、目は白く濁っていた。
「やだ、やめろ……」
女は口を開けた。そこには歯がびっしりと生え揃っていた。舌も無く、上顎まで歯が生えている。
「……涼しくしてあげる……」
ねっとりとした声音で低く女が囁く。
次の瞬間、女の口からぼとぼとと涎か何かが俺の顔に降りかかってくる。
そして、ごぼっ、という音が聞こえたと思ったら、女の口から大量の濁った水が吐き出された。
それは溝の匂いがした。冷たくて汚い溝の水。
全身が濡れていく。気持ち悪さに吐き気がする。
息ができない。
溺れる。
あぁ、なんて冷たい──
「晴人ー? 帰ってきたの? やだ、凄く寒い。クーラーつけっぱなしじゃないの。ん?」
母がクーラーの下を見るとそこには大量の水が床を濡らしていた。
「やだ、なによこれ! クーラー壊れたのかしら」
母は文句を言いながらクーラーの電源を落とした。
「あの子ったら、また友達のところにでも遊びに言ってるのね、全く」
文句を言いながら、母は雑巾を持ってきて床を濡らしているなにかを拭き取っていく。そしてそのなにかは二度と床を濡らすことはないのだろう。