前編
――灰が降る夜だった。
肺が焼けるように痛む。横たわる地面は熱く、頭の奥では鼓膜がまだ悲鳴を覚えていた。傍には、焼け焦げた毛並みを揺らして、小さい馬が同じく横たわっている。
「……アッシュ……」
その名を呼ぶ声だけが、かろうじて彼をこの世界に繋ぎ止めていた。
***
まだ目覚めぬ村の朝、早朝の空は藍色で、家の裏手にある小さな厩舎に、蹄の音だけが響く。
赤毛の少年・ノクスは眠たい目をこすりながら干し草の束を抱えて厩舎へ入ると、やっと来たと言わんばかりにブルンと鼻息をひとつ鳴らして、一頭の馬が出迎える。
「おはよう、アッシュ。今日もよろしくな」
飼い桶に干し草を入れ、水桶に井戸水を注ぎ足し、木棚から馬用のブラシを取り出す。
白いたてがみと、淡い灰色の毛並みをした小さな馬――アッシュに手を伸ばすと、アッシュはノクスの手のひらにそっと鼻先を寄せてきた。
「よしよし」
軽く撫でてやると、こげ茶色の大きな瞳がまっすぐにノクスを見つめ、次の瞬間、ぐいっと頬を押しつけてくる。
「あはは、アッシュ、くすぐったいってば」
ノクスが笑うと、アッシュは顔をすり寄せながら、嬉しそうに鼻を鳴らした。
「もう、甘えんぼだな。さ、準備が出来たら、卵を売りに行こう」
ノクスはアッシュの餌やりや掃除、蹄のチェックも終えると、手際よく鞍を着けていく。
ここは村と言っても地図にも載らないような小さい規模で、10家族しか住んでいない。全員が家族のようなものだ。そしてこの村から一時間ほど歩けば、町の市場がある。
鶏卵を売りに行くのは、ノクスの仕事だ。父は口下手で市場のやり取りが苦手だし、母は病みがちで長い外出はできない。家事全般は祖母がきびきびとこなしてくれている。大の馬好きな祖父が生きていた頃は、馬小屋の掃除も祖父と一緒にやっていた。去年の暮れに亡くなって、アッシュのたてがみを撫でていると、時々思い出してはまだ寂しい気持ちで胸がいっぱいになる。
ノクスの家は代々続く小さな自作農で、小麦や豆を三圃式で回して育てている。鶏も十羽いて、産みたての卵は貴重な現金収入だ。とくに冬場は、少しでも現金があると助かる。今日も無事に売れればいいけど、とアッシュのたてがみを撫でながら、ノクスは小さく息をついた。
「さあ、出発だ。」準備を終えると手綱を握り、厩舎を出る。石畳すらない小道には、霧がまだうっすらと残り、アッシュの蹄の音だけが、その静寂をやわらかく揺らす。ノクスの家は村の外れにあり、畑の畝を横目に見ながら、村の中心を通って、隣町へ向かう橋へと歩く。
小さな橋を渡り切ってすぐ、わらわらと群れる羊たちと、傍らに立つ小柄な羊飼いの姿が見えた。古びた外套を着て、杖を持っている。
「おはよう、今日も早いな。今から市場へ行くんだな。」
男性は羊の群れをちらりと振り返りながら、穏やかに口を開いた。
「叔父さん、おはよう。うん、卵を売りに行ってくるよ。」
そうか、と頷くと、叔父はノクスの頭を、ぐりぐりと撫でる。
「ちょ、叔父さん、俺はもう15才だよ。頭撫でられるような年じゃないって。」
「そうだな、こんなに大きくなって。ボッシュの背も早く抜けそうだし、マーサも鼻が高いな。」
ボッシュというのはノクスの父親の名前で、マーサは母親の名前だ。叔父はマーサの兄にあたる。叔父はちらりと、荷物を背負うアッシュを見やった。
「こいつも立派になったな。納屋でボヤが起きて、大騒ぎした時に生まれた仔馬だったな?」
「そうそう。あちこち灰も舞っちゃって、あの時は大変だったよね。」
「ああ。そうかと思えば病弱な仔馬だし、正直ここまで育つと思ってなかったぞ。ノクスがよく面倒を見てやったからだな。」
叔父がアッシュへ手を伸ばす。が、避けるようにアッシュはそっぽを向く。目だけは叔父をじとっと見ていたが、「さわるな」と言わんばかりだ。はあ、と叔父が大きな溜め息をつく。
「まったく、こいつは本当にノクス以外には懐かんな。」
叔父が手を引っ込めると、アッシュはすっとノクスのほうへ顔を寄せて頬を摺り寄せた。
「……ごめん、叔父さん。ちゃんと躾もしないとね」
「そうしてくれ。……ボッシュの家は余裕があったから良かったものの、そうでなければどうなっていたんだか。お前は幸せ者だぞ。」
本来、村の共同資産である馬を、個人が所有することはない。ノクスの家は経済的に少し余裕があったが、それ以上に――病弱な仔馬で、これは大人まで育たないだろうと諦めた村民たちに対し、「おれが世話をするから!」と言って仕事の合間を縫っては家をこっそり抜け出して、極寒の夜でも自分と仔馬を毛布でぐるぐる巻きに包んで抱きしめ、そのまま厩舎で寝てしまい、朝にはノクスが熱を出してボッシュの拳骨と雷が落ちるという定番の流れ――献身的に世話をしたノクスに、アッシュは非常によく懐いた。アッシュが無事に大きく育ち、丈夫になってからも、ノクスはアッシュの世話をよくしていたし、アッシュはノクス以外に全くと言っていいほど懐かなかった。それがいつまでも変わらなかったため、これは他の誰の手にも負えないという村民の意見の一致と、馬好きな祖父の「納屋の一部を改造して厩舎にして、馬の世話もわしが教えるから」という後押しもあり、ノクスが世話をするという形で、ノクスの家へ譲渡されることになったのだった。
他の誰にも懐かないというのは正直困ることもあるが、しかし他の誰にも見せないような仕草を、自分には当たり前のように見せてくれることが、ちょっと誇らしく思う。
「じゃあ、気を付けて行ってくるんだぞ。」
叔父がひらひらと手を振ると、ノクスも「行ってきます」と笑って応え、手綱を少し引いて、歩き始めた。
市場へ着くと、村と違って人が朝からごった返し、風に野菜や布地の匂いが混じっていた。ノクスは人混みに鶏卵の籠をぶつけないように気を配りつつ、鶏卵を無事に売り切ると、村へ戻って、父と共に畑の手入れをする。途中、簡単な昼食や休憩を挟みながらアッシュや鶏の世話をしたり、収穫物の整理や翌日の準備などをしていると、もうあっという間に夕方になる。夕餉の香りが、家の土壁の隙間から漏れ出していた。
小鍋に湯気を上げるスープの中では、カブと豆がほくほくと煮えている。もうお腹はぺこぺこで、腹の虫がきゅるきゅる鳴いてうるさい。父と母、祖母、ノクスが全員食卓に着くと、夕食の始まりだ。
ノクスはパンをちぎりながら、母の焼いた卵に塩をひとつまみ落とした。
「今日の卵は黄身が濃いね」と言うと、袖まくりをして日焼けした肌を露わにした父が「アッシュの散歩が効いたかもな」と笑う。
「ノクス、服の脇の所、少し糸がほつれてきてるわね。食事が終わったら、繕ってあげるわ。」
祖母はやや骨ばった指でノクスの服をかるく摘まむと、目を細める。うん、と頷くと、母が「今日もよく働いてくれたわね。しっかりお食べ。」と言いながら、自分の皿に載った黒パンを半分ちぎって、ノクスの皿に載せた。
「だめだよ、母さん。これは母さんの分だよ。」
「いいのよ。母さんはあんまり畑にも出なかったし、お腹もそんなに空いてないの。ノクスはよく働いてるし、成長期なんだから、たくさん食べないと。」
母はゆるりと結んだ赤毛の髪を肩にかけて、にっこりと微笑む。それを見て、「仕方ないわね」と祖母が溜め息をつきながら、自分のスープからカブをすくい、母のスープに入れた。
「マーサもちゃんと食べて、よく寝なさい。これ以上伏せたら大変よ。」
「いけませんお義母さん、マーサには僕のを分けます。お義母さんにはたくさん働いてもらってますから、倒れたら大変です。」
慌てて父が黒パンを丸ごと祖母の皿に置こうとして、「あなたは一番食べなきゃだめでしょう!」と祖母に一喝される。うっと怯む父を見て、母とノクスは思わず笑みをこぼした。
「みんなちゃんと食べて、また明日、元気に働こうね。」
火の明かりが、家族の顔をやわらかく照らしていた。
食事も修繕も終え、明日の準備をすると、ノクスはベッドに横になる。一日働いて疲れた身体は、夢も見ないほどあっという間に深い眠りに落ちた。
――しかし夜が更けたであろう頃、祖母の「きゃああああ!!」という金切り声で目が覚めた。
まだぼんやりとした頭で身体を起こすのと同時に、扉をドンと乱暴に開けて、父親が血相を変えて入ってくる。「襲撃だ!!」と叫ぶ父の声は裏返っていた。
「お前はアッシュに乗って逃げろ!父さんは母さんと祖母ちゃんを連れて逃げるから!!」
「え…?襲撃ってなに?」
その問いに答えることなく、ノクスの布団を引っぺがすと、ノクスに靴をぐいぐいと手荒く履かせる。顔色は蒼白でひどく焦っていて、履かせ終わるやいなや、ベッドの横の窓をバン!と開けた。すると、焦げた煙の匂いが外から流れ込んでくる。
「行け!!!」
何があったの、と口にしようとしたが、それよりも早く、まるで窓から荷物でも捨てるように、父はノクスを外へ投げ出した。