海底撈月
〈顔つけ〉という言葉ほどおそろしいものはない。
幼稚園のときの水泳ではじめて知って、それ以来ぼくのトラウマをしめすワードでありつづけている。
「おに。いいよ。その調子~」
妹の声。
ぼくはうつぶせで水面に体を横たえて、両手を頭の上へまっすぐ伸ばし、両足をばしゃばしゃさせている。
ぼくの手をにぎっていた妹の手がはなれた。
「うん、いいんじゃん? それだけできてれば」
水しぶきをあげて顔をあげる。
「おい太依、適当に言わないでくれよ。これは冗談抜きに……ぼくの生き死にがかかってるんだからな」
「おおげさだな~、おには」
プールの中に立つ妹は両手を腰にあてた。
遠くからは黒Tと黒短パンにみえるタイプの水着。
「――海に遊びにいくだけじゃんか」
そろそろ一学期が終わろうとしている時期。
うちの高校には、終業式の次の日から二泊三日で臨海学校がある。
いや……もうそういう名称じゃなく、海辺の学習みたいな名前だったか。
むかしは生徒強制参加で遠泳もあるハードなイベントだったらしいが、いまは自由参加でやることも遊びがメインだ。
「でもおに、どうして泳げないのに参加する気になったの?」
「それはな……話すと長くなるんだよ」
もちろん妹は手帳のことや、ぼくが無自覚に高校生活をループしていることを知らない。
「女子。水着。交流……こんなトコでしょ。おにってスケベなんだから」
「まあ、うん……」
「いや否定してよ!」
今日は室内プールに妹をさそって、泳ぎを教えてもらっていた。
ぼくは泳げないが、太依はちゃんと泳げる。
「で、どうする? クロールとかやる?」
「最低限でいいよ。沖のほうまでいくつもりないし」
「じゃあ、ヘッドアップの平泳ぎでも教えようか?」
「なんだそれ」
「顔を水につけない平泳ぎ」
それだ、とぼくは思った。
なによりぼくは水に顔をつけたくない。
こわいんだ……あの、鼻の中に水がズーッと入るイヤな感覚……これぞトラウマってやつだろう。
「なんだかんだ、おにってセンスあるよね」
帰り道。
黒Tと赤いハーフパンツの妹が横にならんで言う。
肩までの髪はまだ少し濡れてるみたいだ。
「おまえの教え方がよかったんだよ」
「それはそう」ぴっ、と人差し指をぼくに向ける。「ありがたいでしょ、できのいい妹がいて」
「あ、ああ……」
「次はおにが、私がこまったときに助けてくれるんだよ?」
はいはい、と返事。にっこり笑う妹。
多少、こうやって恩着せがましいところがあるものの、たしかにこいつはできた妹だよ。
「おに」って呼ぶのだけは、人前じゃやめてほしいけどな。「おにいちゃん」→「おにぃ」→「おに」って変化してきてて、もういつ「お」か「に」の一文字になってもおかしくない状況だ。
(とにかく、顔上げの平泳ぎはできるようになったぞ)
そして当日の朝。
親に呼ばれて玄関に出ると、
「うっそ。ほんとに行くんだ」
キャミソールっぽい服にジーパン姿の、いかにも夏らしい格好の幼なじみがいた。
「正気? ヘタしたらしん……」あっ、という顔。ぼくの家族が近くにいることに気づいて、言葉をえらんだのだろう。「あぶない目にあうじゃない。あなた、泳げないんだから」
「わかってるよ」
「イジメ?」
「なんでだよ。100パー自分の意志だよ」
「まったく……しょうがないんだから」にぎったこぶしをぼくに突き出した。「はいこれ」
ぷらん、とノアの手から何かがぶら下がっている。
ひもだ。
そのひもの先の、小さな布でできたこれは―――
「お守りか?」
「そうよ。水難よけの。た、たまたま手元にあったから、かしてあげる……」
「なんか」
「なによ」
「やけに新しいな。最近買ったやつか?」
「ばっ!? ばか言って! そんなわけないから。ぐうぜん家にあったのを持ってきただけです!」
じゃあね、とあいつはドアをしめた。
ほのかに残るシャンプーの香り。
ボブカットの頭がターンの遠心力でふわっとなって、一瞬クラゲみたく見えたな。
「おう、永太!」
友だちの克樹が手をあげた。
「今日は夜通し語り合おうぜ、なあ! ケイイチのやつはいねーけどよ」
もう一人の友だちの蛍一は、このイベントには不参加だった。
とくに水が苦手という話もきいてないので、たぶんただ単純に面倒だからやめたんだろう。
たしかに、まわりを見ても……
(うわ、バリバリの一軍ばっかりだな)
明るくて元気良くてノリもいいみたいな、そんな人たちが多い。
自分は場ちがいな感じもする。
しかし、もし克樹が参加してなくても、ぼくは一人でも参加しただろう。
――ずばり目的は「出会い」。
事前にウワサがまわってきたんだ。このイベントは、ものすごくカップルができやすいって。
そしてもう一つ。
そろそろ積極的にアクションを起こして、事態の解決にあたらなければならない。事態とは言うまでもなくループだ。
自分ならそうするだろうという選択肢をえらんでばかりじゃ、いけないと思うんだ。
逆に、自分は絶対そうしないという選択肢にも飛びこんで、活路を見出す。
今回なんかそのいい例だ。
ふだんのぼくなら即決で不参加だけど、
参加してみることで新しい可能性をさがしたい。そう思った。
(あっつ……)
汗ダラダラの一日目が終わった。
とくにカッターってのがつらかったな。みんなで手漕ぎの船に乗るやつ。水面をスイスイすすむ感覚は、ちょっと楽しかったけど。
夜は浜辺で花火をした。
先生が大型の打ち上げ花火も用意して、かなり盛り上がってた。
(つかれ……あれっ!?)
就寝の時間で消灯してしばらくして、
ぼくは気づいた。
体操服の短パンのポケットに―――入れておいたアレがない。
ノアがくれたお守り。
落としたのかな。
(いつどこで……花火する前にはあったから、浜辺か?)
どうする。
さがしにいくか。
先生に見つかったらおこられるが……まあ、こっちには正当な理由があるか。
(もう寝入ってる。克樹もつかれてたんだな)
ぼくは起こさないように、そーっと部屋を出た。
外は意外と明るかった。
空にまるい月が光ってる。
海に近づくと、きこえてくる波の音。
(この明るさならさがせそうだ)
さすが先生のチェックはきびしいらしく、ゴミ一つない。きれいな砂浜だ。
(まてよ。ってことはお守りも〈落とし物〉としてひろわれたってことか?)
そんな気がしてきたな。
もう少しさがしてなかったら、もう帰るか。
ざぁ、ざぁ、という静かなひびき。海はおだやかだ。
水面は月を映していて、
その光は水平線へ向かってタテにのび、まるで空の上までのぼっていけそうな白い道が――――
(いやいや、なんでポエム読んでるんだよ)
と、自分につっこみながらそこに注目していたら、
かすかな違和感があった。
海にうつる月の光が一部、欠けて見えたんだ。
人の頭と肩のような形だった。
(えっ)
あそこにもしかして、人がいるのか?
こんな夜に?
海の中。よくみれば、そんなに遠くではないようだけど……
(! うそだろ!?)
みつめていたら、手をあげた。
声こそ聞こえないが、あの動き方は人間でまちがいない。
(おぼれてる? 流されて、助けを求めてるんだ!)
急がないと。
助けを呼びにいくべきだが、みんなは寝静まってる。先生を呼ぶにしても、かなり時間がかかってしまう。
(まよってちゃ……ダメか。ぼくは高校生活がループしているようだが、ここで死んだらどうなるんだろうな)
体操服をぬいだ。身につけているのは、下半身の下着一枚。
あらためて人影をたしかめる。
絶望的に遠いって距離じゃない。
意外と近いと思う。
妹に教わった、顔を上げたままの平泳ぎが、
こんな形で役に立つとはな。
「あの、だ、大丈夫ですか!?」
「はい」
女性の声だった。
おちついている。
「何かあったのですか?」
「えっ。いや、それは、ぼくじゃなくて……」
「月がきれいですね」
海面の光の照り返しで、真っ暗な中に表情が浮かんだ。
若い。
「え、えっと、えっとですね、もしかして同じ高校の、いま学校行事で来てる―――」
「足、つきますよ」
言われてぼくは、バタバタした平泳ぎをやめてみた。
「あ。ほんとだ」
「ボクは何をしにいらしたの?」
「ぼく?」
ずいぶん久しぶりに人から「ボク」と呼ばれた気がする。
久しぶりすぎて理解がおくれた。
「……ぼくはもちろん、あなたがおぼれてるのかと思って助けにきたんですよ」
「そう。ボクはいい子なのね。だけど」
「?」
「そのわりには、泳ぎがおぼつかないように見えたの」
「それは……ぼくは水が苦手で、ほとんど泳げないから……」
じっ、と静かにぼくをみつめる。
その表情からは、とくに感情は読み取れない。
「と……とにかく、あなたは大丈夫なんですね?」
「はい」
「同じ高校ですか?」
「同じ高校です。安心して。私も、高校生なんですよ」
じゃあ高三か? と直感的に思った。
このおちつきかたは、少なくとも同学年じゃない。
このイベントは一年から三年までが対象だから、きっと年上だろう。
(しかし―――みればみるほど)
美人。
こういうタイプの女の人の中でもトップクラスといえる。
水着はよく見えないが、オーソドックスなワンピースタイプのもののようだ。
「どこをごらんに?」
視点を、胸のあたりから彼女の顔へあわてて移動させる。
ここはウソでごまかしてもしょうがないな。
「どんな水着かなーと思って……」
「ボクは素直でもあるのね。ますますいい子」と、ぼくの横をとおりすぎる。「また明日、この時間にお会いできますか?」
翌日。
半袖と短パンの体操服であらわれた彼女は、まず自己紹介した。
「私、月見里と申します。よろしくお願いします」
こちらこそ、とぼくも名前をなのる。
そのまま彼女は砂浜に腰をおろした。
ひざを折って両足の先を横に流す、そこにカーペットがしかれているようなリラックスした座り方だった。
光の色と当たりかたのせいか、足も腕も肌は白く、ほのかに青みがかっている。
ぼくはその左どなりに、三角座りする。
「きょ、今日も満月――――」
会話しなければと口をひらいたぼくに、
自分の口元に人差し指をたてて示す。
「いまは自然の音を楽しみたいから」
「はあ……」
「ときどき男女の間では、言葉が邪魔になるときがあるの」
しばらくいっしょに海をながめた。
正面の夜空に、月がのぼっている。
ふいに、彼女から質問された。
「昨晩はどうしてこちらに?」
「えーと、落とし物をさがそうと思って」
「夜間に外出してでも見つけたかったもの?」
「そうでもないですけど……ただのお守りです」
「それは、人からいただいたものなのね?」
「はい」
「見つかった?」
「いえ。落とし物はなかったか先生に確認もしたんですけど」
質問をはじめたときのようにいきなり、
月見里さんはこっちに手をのばした。
ぼくの後ろ頭にふれ、その手を上下になでるように動かす。
「ボクにはいい人はいるの?」
「彼女ですか? いませんけど」
「そう。おかしいね。ボクのまわりには、見る目がない女の子ばかりなのかな」
「どうですかね……」
買いかぶりすぎだよ、とぼくは思う。
むしろ妥当な評価じゃないか。
この人は、ぼくのどこを見てそんなことを言ってるんだろう。
「ボクにお守りをおくったのはだれ?」
「幼なじみです」
「その子は同性?」
「いやー……女子ですよ」
「その子のことは好き?」
瞬間、いろいろなことが頭をかけめぐった。
手帳、自分が自分に残す引き継ぎ、ループ、けっして出られない高校――。
「どうかしたの?」
「あ……ちょっと考えてたんです。自分の気持ちを」
「そう」
「ぼくは……」
「もういいの。いいよ。また、静かに海を見たいな」
彼女は昨日とちがって、今日は長い髪をポニーテールにしていた。
横顔を盗み見ているうちに、やはりこの人はぼくと同い年かもしれないと思うようになった。
無邪気なんだ。
海を見る目が。
「また会えますか?」
波音にまじって彼女がささやいた。
顔はこっちに向いている。
「え……もちろんです。また学校で―――」
「学校では、私をさがさないでください」
月見里さんは言った。
「私、やさしいボクのことが好きになりました。けれど、学校では会いたくない」
「どうしてですか?」
「一年後、この場所この時間に、またお会いしましょう」
すっ、と音も立てず彼女は立ち上がる。
「私たち、織姫と彦星みたいですね」
追いかけるようにぼくも立った。
すると、
「―――!!!」
口に感触。
きれいな顔がフッと拡大して、またおなじはやさで縮小した。
(……)
月見里さんがいなくなったあとも、ぼくはしばらくその場にボーッとたたずんでいた。
一年がすぎた。
約束どおり、彼女はそこにあらわれた。
恥ずかしい話だが、
ぼくは何を話したのか、ほとんどおぼえていない。
話さなかったのかもしれない。彼女となら、ありうることだ。
わかれる前、スマホとかの連絡先を思いきってきこうとしたら、「もっていないの」と小声で返事された。
二年がすぎた。
二人とも、ふたたび約束をまもった。
夢乃さんはそこに来てくれて、ぼくも彼女を学校でさがさなかった。
ただ、
「……」
どこかさみしそうな表情だった。
今日も空にはまるい月がのぼり、海面がそれを反射している。
唐突に彼女は切り出した。
「ボク、ごめんね」
「なにが?」
「私学校やめるの」
「やめるって……退学? どうして?」
「こんな私と仲良くしてくれてありがとうね」
「答えになってないよ」
彼女の気持ちも考えず、ぼくは引きとめようと思った。
「もうたった半年しかないのに」
「そうね」
「半年だけ乗り切れば……」
「ボクには『たった』、私には『半年も』。うまらないミゾなの」
最初から違和感はあった。
彼女の服装。
学校の体操服じゃなく、白いワンピースだった。
ぼくらは砂浜に立っていて、正面には海と月。
急に風が強くふいて、夢乃さんの長い髪が前に流された。
「ごめんね」
「夢乃さん」
「学校やめたあとは、働こうと思ってる」
「そうなんだ……」
「ボクは、また私に会いたい?」
「会いたいよ」
そう、とかぼそくつぶやき、彼女は前へ歩いていく。
どこまで行くのかと思ったが、波打ち際でもとまらなくて、
そのまま行く。
「あの……あぶないですよ。今日は風も強いし」
「ボクはやさしいね」
「いやほんとに……」
あわててあとを追った。
サンダルごと海の中に足をつっこむ。
夢乃さんは立ち止まっていた。
腰のあたりまで水につかっている。
そしてゆっくりふりかえる。
「ねえ!」
はじめてきく、彼女の大声だった。
そのボリュームのまま、つづけた。
「私、ボクの最後の女になってあげようか?」
近づいてぼくは言い返した。
「なんですかそれ?」
「そのままの意味なの」
「最後の、って」
「だまって」
手をひかれて、細い腕で抱きしめられた。
ぬれた体と体が、ぴったりとくっつく。
「……イヤ?」
「いや、なんか、突然すぎて」
ふいにぼくは現実に引き戻された。
手帳。ループ。
言葉どおりなら、ぼくと彼女は一生いっしょということだ。
やっと高校を出ていける?
(ぼくは―――なんでこんなときに〈あいつ〉のことを考えるんだよ)
もうわかっていることだ。
幼なじみの有末乃逢とはずっといっしょにはいられない。
こんな状況にあって、高校を出られていないことがその証明なんだ。
「私はボクにはウソ言わないよ? 本気だから」
「ぼくだって」
「ん?」
「なって下さい。ぼくの最後の女性に」
そう言うと夢乃さんは、
言葉でなく、行動で答えてくれた。
夜の海の中で
大人がするようなことを、
まだ大人になりきれていないぼくが、真似事みたいにやった。
海を出てぼくは言う。
「卒業式の日に、会いに来てくれませんか?」
「そのつもり。ボクがちゃんと高校を卒業してから、私たちの関係ははじまるの」
「……はい。まってます」
最後のわかれぎわに、
念を押すように夢乃さんは話した。
「卒業式の日まで、けっして私を学校でさがそうとしないこと」
「……」
「どんなに気になっても、ね? いい? その約束は私とボクとの間で、まだ生きているから」
秋になって、冬になった。
ぼくはあの夏のことが忘れられなかった。
長い時間を圧縮したようなあの濃い夏を。
(会いたい)
来る日も来る日もその一心だった。
いい映画をみたあとの余韻が、ずっとつづいているようだった。
幾度もトレースする。あのときの記憶を。
(おかしくなりそうだ)
そしてついに、
ぼくは約束をやぶった。
「月見里?」
担任の先生は首をかしげた。
けど、ぼくの熱心さが伝わったのか、名前を手がかりにしらべてくれた。
(そうだったのか……それで、いくらさがしても学校の中にいなかったわけか……)
ようやくぼくは知ることができた。
彼女は、定時制の生徒だったんだ。
そのあと、罪悪感が一気に押し寄せてきた。
きっと夢乃さんには事情があったのに、
ぼくは自分のことばかり考えて、あげくには裏切って。
(もう会えない)
そんな予感があった。
ぼくが彼女のことをしらべたことが伝わるかどうかは知らないが、
事実として約束は反故にされた。
ぼくたちの関係は終わったとみなすべきだ。
卒業式の日になった。
式のあとでノアはぼくにずっと秘めていた想いを打ち明けて、姿を消した。
とてもじゃないが、直視できなかった。
あいつにもわるいことをしたという意識があって、
あやまりたい気持ちでいっぱいだった。
校門の近くに立って、ぼくは学校の中に入ってくる人はいないかさがしている。
だが、どこにもいない。
(やっぱり、来てくれなかったか)
この三年間の成果はゼロになるが、まあ、仕方ないな。
しかし今日は天気がよくて気持ちいい。
手帳とか、一生いっしょとか、ループとかぜんぶ忘れてしまいそうに――――
(!?)
外に出ようと歩いていると校門のところで、
学校名が書かれた石の柱のウラからニュッと白い手がのびてきて、
つかまれる。
「おいで」
ぼくの手首をつかんでそのまま引く。
ぼくの体は前のめりに斜めになった。
ぼくの目にうつる微笑する彼女の姿。
真っ白いワンピースを着ていて、
それはこの世のものじゃない、
きれいさだった。
「ボクにはきっと、ほかの未来があるから。そこに、……ね? 私はいないほうがいいの」
「夢乃さん」
「バイバイ」
やさしく抱きしめた。
ぼくを。
くずれたままのバランス。
このままじゃ立っていられない。
でもなんか、
たおれる予感もなくて、
二人で無重力で浮いて、ダンスしてるみたいだった。
ぼくたちはいつまでこうして――――いられるんだろう。
◆
高校初日の朝からツイてない。
寝癖はひどいし、家にスマホ忘れて定期券つかえなかったし、ほどけたスニーカーのひもをふみつけてコケるし。
「どーぞぉ!」
あ。
反射的に受け取ってしまった。
駅前の広場で、ポケットティッシュみたくくばっていたから、てっきりポケットティッシュだと思ったんだけど。
手帳だ。
しかもずっしりくる革製。黒い色の。
こんなのタダでもらっていいのか?
(……なんか、はさまってるな)
しおりみたいなのが。手帳の上の部分にちょっとだけ見えている。
(なんだこれ……はっ!!!???)
「親愛なる自分へ
まず、ページをさかのぼって『月見里 夢乃』の名前をさがせ。
たぶんない。彼女は、海にうつる月のような人だった。」
なんだよそのポエムな表現。
ほんとにぼくが書いたのか?
(名前は……どこにもないな。あるとしたら、一番最後の奥って人の次になるんだろうけど)
その部分は、ただただ白いだけ。
ぼくはあきらめわるく、何度も何度もページを前後してしらべてみた。
しかしどこにもその人の名前は記されていなかった。手書きで書いた、ぼくがぼくに残した引き継ぎのところ以外には。
「おーい」
「ノアか」
「ノアよ」
ボブカットの幼なじみが、ぼくの頭にすっと手を伸ばした。
「わ! なーにこの寝癖~。ネコミミみたいになってるじゃない」
「なあノア、ぼくたちむかし、海に行ったよな」
「……どうしたの? 熱でもある?」髪をさわる手を、おでこに移動させた。
「いや、ちょっと思い出しただけ」
「いっしょに乗ったボートのこと?」
海、っていう漢字を目にして、ぼくは思い出したんだ。
ゴムボートに乗せられた小さなぼくとノアが、
いっしょにワンワン泣いていたことを。
ボートをバタ足で押していたノアの父さんは笑顔だったけど、
ぼくはこわかった。
海がどういうところかはしっかりわかってなかったが、
えたいの知れない恐怖があって、でも、
「あのときは二人で泣いたよね」
「そうだな」
ぼくはなんとか先に泣き止んで、ノアのことを守らなきゃって思ったんだ。