水魚之交
ぼくはどうも苦戦しているらしい。
そこで、手帳のことを友だちに相談してみた。
「これか? ほう、なかなか重厚だな。革の質感もいい」
「ケイイチ。中をひらいてみてくれ。そこに印刷されたような字と、ぼくの字がある」
今日、もう一人の友だちの克樹は病欠していた。
あいつにはわるいが、ひそかにこういう日をまってたんだ。
克樹はいいやつで、ぼくが相談すればきっと親身になってくれる。
しかし、親身になりすぎてしまうおそれもある。心が熱いタイプだから。だからここは、熱くなりすぎずクールにものを考えられる蛍一だけに手帳のことを打ち明けようと思った。
「ど……どうだ?」
「……」手帳に視線を落としたままで言う。「永太。その書かれている文字というのは……日本語なのか?」
「えっ」
「おれには、どこにも何も書かれているようには見えない」
そんなバカな。
手帳のコレが、見えてない―――?
コレが見えるのは、ぼくだけ?
立ったまま、急に心臓がドキドキしてきた。
まだどこかでウソだと思っていた〈高校生活のループ〉がいよいよ真実味をおびてきたからだ。
「すまない。だが、おまえが真剣なのはわかるぞ。なにか少しでも、おれが力になろう」
蛍一は中指でメガネをくいっと押し上げ、机から一枚プリント出して、それを裏返す。
「おれには認識できないが、おまえはできる。そうだな? じゃあ、ここにその文字をぜんぶ書いてくれ」
「あ、ああ……」
となりの席のイスをかりてすわって、プリントに書き込む。
書いている途中、「できるだけ正確にな」と念をおされた。
「火宮……時枝という人はわからないな。ただ、この早足なら知っている。同じ学年で陸上部だ」
「そうなのか?」
「ああ。そして永太のいうとおり、その三人が〈卒業式の日に手をつないで出た〉人たちだろう。その後〈一生いっしょ〉かどうかのジャッジが入って、結果がここに記載されている……」
「なにかひっかかるのか?」
「そうだな……どうやってその日数を知りえたのかという点もそうだが、むしろ一体どこからカウントされているのか、という点のほうがおれは気になる」
なるほど。
それは考えもしなかった。
やはり相談してみるもんだ。
たしかに、どこがスタートで日数はカウントされているのか?
告白した日? それとも婚姻届を出した日? それとも男女の関係をもった―――
い、いや、それはさすがに。
生々しすぎるだろ。このぼくが、三人もの女子と、そ、そんなことを。
「ねえ」
「…………え?」
「わ。なんか顔あかーい。熱でもあるの?」
「なんだノアか」
「ノアよ」
幼なじみが、そこに立っていた。
ボブカットの髪がゆれて、全身、夕焼けに染まっている。
「ここってクラブハウスの前じゃない。ねぇねぇ、どこの部に入ったの?」
「いや、ぼくは帰宅部だけど」
「え~。じゃあ、ここでなにしてたわけ?」
「なんとなく。歩きながらのほうが考え事しやすいから」
「あ、そう」ノアはクラブハウスのほうをちらっと見て「せっかくだから見学でもしてきたら? まだ五月だし、入部もまにあうでしょ」
それじゃね、とノアが手をふろうとした瞬間、
「わ、わっ!」
あわてた様子で声をあげた。
いきなり強風がふいて、あわててスカートを手でおさえたノア。
「……」
「なんでぼくをニラんでるの?」
「…………バイバイ省略」
細めた目のままターンして、そのまま歩いていった。
(ところであいつは、こんなとこに何の用があったんだ?)
クラブハウスに用事はなかったみたいだし、校舎から正門へは通るルートじゃないはずだけど。まあ、いいか。
「おっと」
ずいぶん近くを、ジャージ姿の女子が駆け抜けていった。
はやい。
長い髪をなびかせて、いいフォームで走っていく。
(……)
その場にほのかに残るシャンプーのにおい。
顔はよく見えなかったけど、なんか楽しそうにランニングしてた。
(もしぶつかってたら、あの子と話せるきっかけになってたりした、とか……)
なんて。
そういう考えは、ちょっとキモいよな。
そもそも、女の子との出会いはそのへんにころがってたりはし―――
「おーい! そこのキミ!」
上からだ。
ぼくは顔をあげた。
「風でカードが飛ばされた。いま、それがキミの足元にある。ひろって、ここまで持ってきてくれないかー!」
女子が窓枠にヒジをついて、こっちを見下ろしながらそう言った。
毛先がややくりっとしたセミロングの髪で前髪は長めで、目元は隠れがちだ。
(えーと……)
あ。
なんかある。
黄色い背景に小麦の絵が描かれたカードが。
「やーすまない。ありがとう」
「いえ」中ががらんとした部室で、この人しかいないみたいだ。「じゃあ」
「つかぬことをたずねるが……いまヒマかい?」
「え? まあヒマといえば」
「よかったら、私の相手になってくれないか」
部屋に入る前に確認したドアには《ボードゲーム研究会》とあった。
「ゲームはこれがいいかな。シンプルで初心者向きだ。この盤の上にたくさんブロックを置けたほうが勝ち」
「これイス、すわっていい?」
「いいよ」
壁際に大きい本棚があって、そこにいろいろ箱がならんでいる。たぶんぜんぶボドゲだろう。
「――と、まあ、こうなって私の勝ちだ。十回目。どう、もう一戦やる?」
ぼくは即答した。「やります」
「いいねいいね!」と笑顔。「負けず嫌いのオーラがでてる。そういう予感がしたんだよね」
立ち上がって、彼女はそっと窓をしめた。
外の雑音が遮断されて、しぃん、とする。
そう広くない部屋に、ぼくたちだけ二人。
窓辺でこっちをふりかえって、彼女はさわやかな声で言った。
「ボードゲームの沼にようこそ」
結局、その日は一度も彼女に勝てなかった。
名前も聞きそびれるぐらい、ぼくはゲームに熱中してしまう。
「三年の先輩が三人いたんだが……その、な……たもとを分かったというか、早い話、ケンカして険悪になってやめてしまったんだよ、全員が」
結果、一年生で入部したての自分だけ残った、という。
そんなことあるのか。一年の一学期で、実質部長とは。
活動日は週イチで水曜日のみ。
「私だけではあるが……ちゃんと出席はしているぞ。抜き打ちでチェックされたりするんでな。活動実態がないと、最悪廃部という判断もある、と顧問の先生にはクギをさされている」
「でも一人じゃ、むずかしくないですか?」
「まあな」
にっ、と彼女はくちびるをとじたまま斜めに曲げる。
もうここに足を運ぶようになって、一ヶ月にはなるが、
(さそわれないな)
入部を。
ひょっとしたら、ぜんぜん戦力外だと思われてる?
たしかに、まだ一回だってゲームに勝ててないけど。
そして、ある日――
「おしかったな。GG」
「なんです、GGって」
「グッドゲーム。いい試合だったってこと」
やわらかい笑顔のまま、髪の中に人差し指をつっこんでクルクルと巻きつける。
このクセのせいで、毛先にパーマがかかったようになっているのかもしれない。
と、今度はその指で、前髪をかきあげた、
「自己紹介する。私は盤匠有希子」
すべてがはじめてだった。
「GG」とねぎらわれたことも、長く垂れた前髪の奥の両目を見たのも、名を名乗ったのも。
ぼくが名前をきいても「部長と呼んでくれ」とずっとはぐらかされていたからな。
(やっと認めてくれたのかな……)
それが一学期最後の活動日のことだった。
「つぎの段階にすすむか。もう少し、頭脳をつかうやつだ」
フテキな微笑を浮かべて、一枚のカードをみせる。
それには見おぼえがあった。
「それ、ぼくがひろった……」
「そう。小麦のカードだな」
無人島を開拓するゲームと、彼女は説明する。
「夏休みの間に、ルールをたたきこんでおいてくれ」
「はあ……」
正直、めんどくさいと思った。
せめてスマホでできない? と言ってみても、
「味がないだろ。カードの手触りもないし、二人で同じ時間をすごしているという実感にも欠ける」
あっさり反論される。
が、「二人で同じ時間」と口にしたとき、不覚にもグッときてしまった。
距離が近づいてる、と思った。
そのせいか、ぼくは展開をいそいだ。
二学期の最初の活動日、
「もしぼくが勝ったらぼくの彼女になってください」
「おいおい……」
ちょっとおおげさな身ぶりで、盤匠さんはひたいをおさえる。
そしてゆっくり立ちあがって、窓際で背中を向ける。
「はっきり言ってわるい気はしないよ。キミにとって、私は魅力的な人ということなんだろうからな」
「……」
「しかし、そういうことをゲームにもちこむのは、不純だ。私の好むところではない」
「部長。ぼくは―――」
「いま言ったことを取り消すか、このまま部屋から出ていくか。どちらがいい?」
「……ごめん」
「あやまれとは言ってないよ」
三分の一ふりかえって、口元だけで笑った。
「ゲーム、したいです」
「そうか」
その日は、コテンパンだった。
いわゆるハメ手というか、初心者キラーというか、何をされてるかよくわからないけど、とにかく太刀打ちできない。
(これ――彼女のメッセージなのかな)
ぼくをイヤな気持ちにさせて、もうこないようにって。
(あれ?)
帰ろうとしてドアをあけたとき、かいだことのあるようなにおいがした。
そして駅まで歩いていってホームに出ると、
「あっ。ノアか?」
「……」
「あれ? ノアだよな?」と、ぼくは正面にまわりこむ。「やっぱり、おまえじゃないか」
「あーはいはい、ノアよ」
なぜか投げやり気味な口調。
機嫌がわるい? ま、そういう日もあるか。
やけに早歩きなあいつの背中を追いかけて、ぼくは帰宅した。
(ネットでしらべるくらいはいいだろ)
ボドゲの攻略法。
(へー、初期配置には正解があったのか。適当じゃダメなんだ。で、なになに、まず港をおさえて……)
よし。自信がついた。やれそうな気がするぞ。
「あ」
「勝利ポイントカードだ」
「え」
「勝利ポイントカード」
「な」
「勝利宣言だ」
やれなかった。負けがどんどん積もってゆく。
気がつけば、三学期になっていた。
「永太くん」
「なんですか部長」
「そろそろ下が入ってくる季節だ。部外者のキミがいては、後輩たちに示しがつかない」
「とっくに出してますよ、入部届」
「なに……?」
盤匠さんはおどろいたようだった。
しかしプレイは乱れず、またぼくは負ける。
それでも、あきらめなかった。
「おめでとう」
ついに初勝利。
運の要素があまりからまないこのゲームで彼女に勝つのは容易ではなかったが、やった。
無意識に、力強くこぶしをにぎりしめていた。
「私もうれしいよ。最初は相手として物足りなかったが、じょじょに好敵手になっていった」
「部長」
「…………じつを言うと私は、後輩が一人も入部しなければ、と思っているんだ」
ふふっ、と彼女はくちびるを斜めに上げる。
はたして、
「よろこんでいいのか、微妙なところだな」
思いは通じてしまった。新入部員ゼロ。
「まあ、のんびりやるしかないな」
「はい」
毎週水曜日がくるのが、ぼくは待ち遠しくて仕方がない。
好きなんだ。
彼女とすごす時間が。
雑談しながらゲームで遊ぶこのひと時が。
「よぉ永太。ちょっとうらやましいけどさー、それって気まずくなんねえの?」
「なにが?」
「いや、女と二人きりなんだろ? 会話、つづかなくね?」
友だちの克樹に指摘されるまで意識してなかった。
そういえば、出会った日から今まで、彼女と二人でいてつらくなることはなかった。
しゃべりっぱなしじゃなくても、なんていうか……だまっていても間がもつというか、リラックスできる。
こういうの、相性がいいっていうんだろうか。
そんな話を、すこししたことがある。
「いや……クラスの男子とはこうはいかないよ。女子の友だちも多くない。気安く話せるのは、きっとキミだからだろう」
前髪でかくれて見えにくいが、ほほえんだようなやさしい目。
「私はいつも水曜日が楽しみなんだ」
「ぼくもだよ」
こんな話も、した。
「彼氏と?」
「あっ、いや、ぼくじゃなくて、もしもの話」
「まあ……べつにボードゲームはしたくはない。恋人同士なら、ほかにやることがあるだろう」
言い終わってしばらくすると、
盤匠さんの顔が赤くなっていった。
「へ、へんなことではないぞ!? 誤解はやめろよ?」
「大丈夫だよ」
「ま、まぁとにかく、ボードゲームというのは勝負ごとだからな。ケンカのタネにもなるしな」
「部長はケンカとかしないんじゃないですか?」
「そうだな」指に毛先を巻きつけて、くりくりさせながら言う。「ケンカなどエネルギーのムダだ。キミもそう思わないか?」
そして、ぼくたちは三年に上がった。
おどろいたことに、一年生が8人も入部した。
(よかったけど……複雑だな)
失われてしまった。二人きりの空間が。
ぼくたちはときどきサインのように目を合わせて、おたがいに苦笑した。
(もうじゅうぶん想いは伝わってると思うけど……男としてやっておかないと)
最後の文化祭。
わが部はボドゲの体験会をひらいて、けっこう盛況だった。
「部長。ちょっといいですか」
「なんだ」
片づけで、まわりにだれもいなくなったタイミング。
ほこりっぽい部室に、夕日がさしこんでいた。
「ぼくとつきあってください」
「わかった」
あっさりOKだった。
が、とくにそれっきりで、やることは変わらなかった。
デートに行ったりとかはなく、水曜日に顔をあわせるだけ。
盤匠さんは自転車通学だから、下校デートとかもなかった。
そんな関係性でもぼくは満足だった。
時間はあっというまに流れた。
3月。
ぼくは手帳に必要事項を書き込んで引き継ぎをのこし、
(高校生活も終わったな)
卒業式にのぞむ。
「ノア」
「きて」
手をひかれ、人気のないところにつれていかれた。
「私ね……あなたのことが好きだったの。それをどうしても、いっておきたくて」
「え? ぼくを? そんな、なんで……」
「私のことは、もう忘れてね」
たたっ、と引きとめるよりはやくあいつは走っていった。
ずいぶん髪が長くのびた。一年のときはボブカットだったのに、大人っぽいストレートの髪に。
って、髪の毛なんか見てる場合かよ自分。
追いかけなくて、よかったか?
(まさかノアがぼくのことを―――)
これも引き継ぐべきか?
いや、やっとわかったぞ、あの手帳の鼻ズボの意味。
幼なじみにキラわれろって、そういうことか。
つまり、何もしなければノアに告白されて、高校生活がループする。
(ノアとは一生いっしょじゃないからか……)
「どうしたんだ? 私の手をとって」
「いこう。このまま」
「私は今日も自転車できてるんだが」
「わかってる。この正門を出るところまででいいんだ」
「……おかしなやつだ」
あきれたような表情の有希子をとなりに、
ぼくは一歩ふみだす。
あと数歩で高校を出ることになる。
そのとき、ふいに友だちの言葉が胸によぎった。
「日数はどこからカウントされるのか」ということ。
とくに気になるのは『早足ひかり』。
3日――だって?
それは、卒業式の3日前に告白したということだろうか?
それにしては短すぎる……というより、3日前は授業もなにもないのに。
いったい……
そしてなぜ有末乃逢の名前はここにない?
もしかして……
その日数が〈ゼロ〉だから記載されていないとか……
もし卒業式からカウントされるとしたら?
カウントされていない理由は……
(あっ!!)
ぼくはある可能性をひらめいた。
ノアの名前がないのは、きっと。
遠くでかすかに鳴る救急車の音。
(絶対そうだ! でも)
それを手帳に書き残すことはできない。
まさに足が高校を出る寸前だからだ。
(ノアーーーっ!!!!)
◆
高校初日の朝からツイてない。
寝癖はひどいし、家にスマホ忘れて定期券つかえなかったし、ほどけたスニーカーのひもをふみつけてコケるし。
「どーぞぉ!」
あ。
反射的に受け取ってしまった。
駅前の広場で、ポケットティッシュみたくくばっていたから、てっきりポケットティッシュだと思ったんだけど。
手帳だ。
しかもずっしりくる革製。黒い色の。
こんなのタダでもらっていいのか?
(……なんか、はさまってるな)
しおりみたいなのが。手帳の上の部分にちょっとだけ見えている。
(なんだこれ……はっ!!!???)
「親愛なる自分へ
まず、ページをさかのぼって『盤匠 有希子』の名前をさがせ。
すぐだ。急げ。」
?
でも確認したほうがよさそうだな。
さがしてみると、
(これだ)
名前|盤匠 有希子
交際日数|951日
破局理由|ケンカ別れ
(よくわからないが、たぶん一生のパートナーじゃなかったってことか)
しかし、むちゃくちゃな話だな。
ちゃんと相手をみつけられないと高校から出られないとか。
どうしてぼくが、そんなひどいことに巻き込まれないといけないんだ?
「おーい」
手帳にはちゃんと書かれていた。声をかけられるって。だから心の準備ができていた。
「ノアか」
「ノアよ」
にこっ、と笑う。
丸いシルエットのボブカット。
「なあ」
「なに」
「ぼくと……いや、なんでもない」
「なーに、気になるじゃない。言いかけてやめないでよ」
こういうのは、質問するのは恥ずかしいよな。
「最後にケンカしたのいつだっけ」とか。
パッと思い出せないから、
「ねぇってば!」
おたがいに忘れているのかも。