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情熱の矛先



 アルバイトを始めてひと月が経った。隙間なく働いているお陰で、もう新しく覚えることはない。

 大変なのは子ども向け映画の後の清掃だけど、販売に回ると女子トークに巻き込まれる。どっちが大変かはまだ決められない。

 それにしても、エンタメの世界っていうのは無常なものだ。どれほど広告にお金を掛けても、売れなければたちまち上映回数が減っていく。有名な女優が出ていようと、海外でヒットしていようと関係ない。エンドロールに収まらないほど多くの人が関わっているっていうのに、なんとも恐ろしい。

 その点、ハチワレパンダは好調だ。初動はそれほどだったけど、どこかで何かがバズったらしい。

 透馬は俺と観に行った後、両親を片方ずつ誘って、追加で二回鑑賞することに成功していた。さすがにネタが上がってしまい、姉にはタカれなかったと嘆いていた。たくましいオタクだ。

 荒木のスマホにもオススメとしてよく出て来るらしく、そろそろ観に来るんじゃないかと俺は踏んでいる。


「こんにちは」

「こんにちは」

 反射的に答えて、出されたチケットを受け取る。

 見覚えのあるネイルに、「どうぞ」と、来場者特典の入った銀色のパッケージと一緒にチケットを戻すと、「ありがとう」と嬉しそうにした女の子が、スクリーンの入り口に消えて行った。

 彼女は『MARS』という男性アイドルグループの『アイキ』のファンだ。直接教えてもらったわけじゃないけど、身に付けているものを見れば一目瞭然だし、彼女が入ったスクリーンでやっているのも彼が主演の映画だ。

 残念ながら、彼女の推しの映画は、一日の上映が一回しかない。ダブル主演のもう一人のアイドルが、公開日目前に女性関係で大炎上したせいだ。

 三週目なのにまだ特典が余っている。炎上した方のアイドルは俺ですら顔と名前を知っていたから、ファンも多かったと思う。若い女性にターゲットを絞ったラブコメ映画で、半分の集客を失ったのだ。関係者はさぞ恨み節だっただろうし、ああしてセットで看板になっている何の罪もないアイキくんを見ると、自然と励ましの言葉が漏れてくる。

 そして、健気に通う彼女にも。いや、彼女たちというべきか。

 また一枚チケットを千切る。次は二人連れ。一人がポテトとドリンクの入ったケースを抱え、もう一人が二枚のチケットを俺に差し出す。

 自然と行儀のいい列が形成されていく。女性ばかりで、どこかファッションが似ている。アイドルを推す人の傾向なのか、アイキの好みなのかは分からない。

 覚えてしまったグループのロゴ。アイキのメンカラは青。

 推しを大きなスクリーンで見られる機会はあまりない。たくさん栄養を吸収して欲しい。


「ちょっと! なにが言いたいんですか!」


 突然列の後方で女性の声が上がった。俺は驚いて持っていたチケットと特典を渡し損ねてしまった。

「すみません!」

 慌てて拾い上げている間にも、女性の怒声が聞こえる。一方的で、相手の声は聞こえない。

「すみませんでした!」

 俺は落とした特典を下げて新しいものを手渡したが、女性は気もそぞろで、後方を気にしながらスクリーンへと消えて行った。

 声を荒げる女性には、既に社員の男性と物販のスタッフがフォローに駆けつけていた。列はいくらか乱れていたが、俺は向こうを見ないようにしながら、もぎりの仕事をこなし続けた。




「リッツくんのファンだよ」

 落ちたポップコーンを掃き取っていると、上方で座席を清掃しているアイナさんが教えてくれた。

「やっぱりそうだったんですか」

「後ろの子が意地悪なこと言ったみたい」

「ファンは悪くないのに」

「ほんとねー。でも大声出しちゃうと、やっぱああいう人がファンなのかーってなっちゃう」

 確かに、怒らせるきっかけを作ったのはアイキくんのファンだろうけど、印象を下げたのは『リッツ』ファンだ。

「元々メインは律くんだったからね。アイキは事務所の先輩に指名貰って出してもらった立場なんだから文句言うなよ、みたいな気持ちがあるんじゃないのー? やらかしたリッツパイセンが全部悪いんだけどー」

「なるほど」

 どうでもいいけど、リッツか律か、呼び方を統一して欲しい。

「誰かを推すって、楽しいんですか?」

 ゴミ袋にチリトリの中身を出しながら、言葉がこぼれる。

「素朴な疑問を投げてくるね」

「今まで誰かを推したことがないので」

「私もそこまでハマったことはないけどー、なんていうのかなー、凡人ルートでこのまま生きていく自分の代わりに、アイドルにでっかい夢を叶えてもらうって感じかなあ」

「はあ……」

「まー人によって推し方は様々だけどね。お金落とさないお茶の間ファンもいるし、生きててくれるだけで幸せーとか、ホストに貢ぐみたいに、私がトップアイドルにしてみせる! みたいな気概の人もいるし、自分のものにしたいガチ恋勢もいるし」

「え、本気で付き合いたいって思ってるってことですか?」

「そ。たまにあるでしょ? ファンの人と結婚した芸人とか、女性アイドルが、初期から推してくれてたファンと結婚とかさ」

 確かに聞いたことはある。

「それは、夢がありますね」

「でしょー? ま、現実は99.9パーセント、ただの古参おばさんになっていくんだけどねん」


 凡人ルートという共感性の高いワードに興味を引かれたものの、どれも自分が至れる境地にはなさそうだ。認知されることすらないだろう相手に心血を注げる人を凡人と呼んでいいのかも怪しい。

 もしかして、凡人って稀有な存在なのかな。そんなわけないか。




「さむぅ〜」

「寒いっすねー」

 バイト終わり、アイナさんと通用口から出て、二人で寒さに身をすくめる。思わず駆け足で自転車置き場に向かって、タイヤの小さい自転車にアイナさんの手が掛かった。フレームには派手なペイントが施されていて、一部分はトオルくんが描いたらしい。

「ホレ、乗んな」

「ありがとうございまーす」

 広い駐車場を二人乗りして突っ切って、風がいっそう冷たい。バス停に人の列が見えて、今日は座れなさそうだなあと思った。

 敷地の終わりでブレーキが掛かり、ぴょんと飛び降りて御礼を言うと、アイナさんがひらひらと指を動かす。

「そーちゃん明日もシフトだっけー?」

「はい」

「頑張るねえ、私は休み〜」

「居ないんかい!」

「あはは! じゃーねー!」

「さよならー」


 気のいい先輩に大きく手を振る。仕事は順調。帰って、夕ご飯を食べて、お風呂に入って。兄ちゃん今日はいるのかな。


「こんばんは」

「こんばんは」

 反射的に答えて、見覚えのあるロゴが目に止まった。

「あ」

「私のこと分かります?」

 自分を指す指先に青いネイル。さっきアイキの映画を観に来た子だ。

「ええ、はい。さっき映画館で」

 むしろ、いちスタッフの俺を覚えているのかと訝しんだが、

「自転車のお姉さんも物販に居ましたよね」

 と、小さくなったアイナさんの姿を見やる彼女に、記憶力のいい子だなと感心した。アイドルファンは推し以外の人間は視界に入ってないだろうと思っていたのに。

「お疲れ様です」

 ぺこっとお辞儀をされて、俺は慌てた。

「え? いや、そんなに疲れる仕事じゃないので」

「なんか揉め事があったって聞きましたけど」

「え? あー、あれは社員さんが対応してくれましたから」

「彼女、出禁になっちゃいました?」

「いえそこまでは!」

「ですよね、なんか言ったのはこっちみたいだし」

 こっち、とアイキファンを身内のように語る彼女に、俺は表情の置き所に迷った。

 流れるように口を滑らせてしまったけど、詳しいことは分かりませんと通すべきだったかな。でも出禁にはなっていないし。とにかく、これ以上この話題を続けるのは避けたほうが良さそうだ。

「そうだ、アイキくんは出ましたか?」

 俺からすると少しギョッとするほど大きな彼女の目が、更に見開かれた。

「あの……特典の……」

「ああ! 出ました! 今回のはリッツくんと二人で写ってるやつでした!」

「そうですか! 良かった!」

 特典の中身にも、話題が変わって彼女が笑顔になったことにもホッとした。

「お兄さんがくれるときはいつも出るんですよ」

「本当ですか?」

「はい。他にも同じこと言ってる同担がいます」

「はー。偶然だと思いますけどね」

「うちらお兄さんのこと、『アイキの真心』って呼んでるんですよ」

 一瞬考えても、理解が追いつかなかった。

「……真心、ですか?」

「そう」

 くすくすと笑われて、言葉が出なくなった。

 なるほど、彼女たちは偶然をそんな風に捉えて楽しむのか。同情なんて要らなかったのかもしれないな。

 アイキくん、君のファンは人生を楽しくやってるよ。インフルエンサーと密着写真だけは撮るなよ。




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