凡人の行方
午後の体育はのんびりと始まって、高窓から降りそそぐ日向にひしめき合って寝そべるジャージ姿の男たちは、一見して群れた海獣のようだ。対して中央ではバレーボールの試合が白熱していて、なんだかテレビの向こうとこちらを見ているように熱量に大きな差がある。
「そういや俺、バイト始めたんだよね」
「え、そーたろーがバイト?」
「うん。映画館」
「映画館かーいいじゃん!」
両隣りに座る透馬と荒木が、珍しく自分の話を始めた俺に反応良く声を上げてくれた。
凡人は外に出ようと思いついた当日に、兄ちゃんの友達のツテで映画館のバイトを紹介してもらった。
兄のツテを使ってバイトを決めるっていうのは、反抗期的にどうなんだろうと迷ったけど、実際には反抗期じゃないわけだから、そこは都合よく利用することにした。三日後に形ばかりの面接を受けると、あっさりと採用が決まった。
「ポップコーンタダで食える?」
右から荒木がいつも通り食い意地の張ったことを言う。俺はそれを曖昧に肯定して、「映画はタダで見られるよ」と、もっとお得な情報を打ち明けると、それに左から透馬が食い付いてきた。
「えっ? 割引きとかじゃなくて? めちゃくちゃいいじゃん!!」
「うん。俺もびっくりした」
「それにしても急だな。なんか欲しいもんでもあんの?」
荒木に聞かれて眉が上がる。俺がアルバイトに踏み切ったのは、自分の世界の開拓のためだ。当然そんなことは言いたくないから、俺は間を作らないよう「遊ぶ金欲しさに」と、ろくでもない犯罪を犯した若者が言いそうなことを口にして、その質問をやり過ごした。
「俺、来月の頭に映画館行くよ。ハチワレパンダ見に」
透馬が丸眼鏡を押し上げて、上映予告で流れていたアニメ映画の名前を上げた。
「ハチワレパンダ? なんだそれ」と、荒木が膝を抱えて笑う。
透馬はいつも通り、自分の趣味の話をするときの、『身体を縮めて照れ臭そうに首をすくめるポーズ』をとって、ほんの少し早口になった。
「俺も詳しくはわかんないんだけど、脚本書いてる人が好きでさ。ほら、夏に話題になったドラマあったじゃん? 珍しくホラーの」
「ああ! 見た見た! 女優のニセカが出てたやつな!」
「そうそう! 俺あの人の脚本好きだからさ、映画も面白いと思うんだよねー」
「へ~」
少しは興味を引かれたらしい荒木に、透馬が嬉しそうにしている。それを見て、俺も口が綻んでしまった。
透馬は一見、気の弱そうな見た目をしているけど、実際はうちの家族と同じ人種だ。国内外の映画、ドラマ、アニメを好んで見ていて、気に入った脚本家のものは全て見る主義らしい。一方でドラマの中で各話を複数の脚本家が分担して書く場合(そういうことがあると、俺は透馬に教えられてから知った)、好きな脚本家の回しか見ないそうだ。それじゃあ話が繋がらないじゃないかと思うけど、そこはどうでもいいらしい。
俺は変わってる人間には結構免疫があるほうだけど、透馬は中でも相当変わっていると思う。
「聡太郎、あのさ」
透馬がちょっと声を潜めて、俺に身を寄せてくる。思わず引いた身体が荒木にぶつかった。
「なに?」
「その映画、金曜に公開なんだけど」
「うん、知ってるよ」
大抵の映画が金曜日に公開だ。
「あれさ、特典が付くだろ?」
「え? あー」
確か小冊子が二種。特典にしてはボリュームがある分、配布が少ない。
「それにね、脚本家の東条さんのインタビューと、ボツになったシーンの漫画が付いてるみたいなんだよね」
「はあはあ」
「それでー……」
透馬の表情を詳しく見ずとも、話の流れでピンときた。俺という従業員の力でその特典を手に入れようと言うのだろう。
「とーまー、そーたろーにとってこさせようと思ってんな?」
荒木もそれを理解して、伸ばした足を透馬の靴にぶつけ、透馬がぎょっと飛び跳ねた。
「ち、違うよ! もし金曜日バイトじゃないなら、一緒に映画を見に行ってもらえないかと思って!」
「あ、普通に頭数か」
「なんだそういうこと?」
荒木と俺が拍子抜けすると、透馬は激しく頭を縦に振った。
「もちろん特典は二つとも欲しいんだけど! 家族はキョーミないからさ。友達誘うにしても、やっぱり興味ないなら悪いし。でもタダで見られるなら行ってくれるかなーって思って」
丸眼鏡の奥から機嫌をうかがうように覗き込まれて、俺はホッとした。ぶっちゃけスタッフであれば特典は一人一つまでなら貰えるらしいけど、そうだと公表することは止められている。
「俺だって行けるぞ? 映画代出してくれるならさ」
荒木が胡座を揺らして言ったが、透馬は渋い顔をした。俺はその顔の意味もすぐに理解した。
趣味がある人間は、それを追うためのやりくりが大変なのだ。ライブ、コンサート、レアなレコード。これらは両親の話で、美大生たちは画材が高いといつも嘆いている。透馬は二つの映像コンテンツのサブスクを小遣いで払っているから、友人に映画を奢る余裕はないだろう。
「いいよ、二日のバイト休みにしてもらう」
「わー! ありがとう!」
顔を赤くするほど喜ぶのを見て、俺はバイト先でもらった割引チケットを全て透馬にあげようと心に決めた。
放課後の労働にも日々慣れていき、十一月ももう残すところ二日となった。
どうしてだろう。新しいことを始めたばかりなのに、気分の落ち込みを感じる。
映画館のアルバイトは悪くない。一応接客業ではあるけど、お客さんは疲れて不機嫌でもなければ、急いでもいないし、お酒も飲んでない。だからほとんどトラブルがない。無理矢理難点を探すなら、ポップコーンの匂いが身体に染み付くくらいのものだ。
今日も軽い疲労感を得て帰宅。両親の店で食事を取って、常連客に挨拶をして自宅に戻る。兄ちゃんは今夜も不在で、がらんとした自宅でシャワーを浴び、自室に戻って見下ろしたベッドが何とも言えず広い。
先月までここにあった朔くんの姿を思い出して、
「一度くらい寝ぼけた振りでもして抱き着いてしまえばよかったな」
しょうもない後悔が口を突いて出て、誤魔化すようにベッドに寝転がって天井を見上げる。
俺はどうも生まれながらに寂しがりな人間らしい。自ら進んで働きに出たくせに、帰ってきて家に誰もいないことにがっかりする。
小さい頃からそうだった。構って欲しい気持ちはあるのに、楽しそうに興味に向かう家族の邪魔をしたくなくて、自分の存在を主張することのできない遠慮がちな子どもだった。
どうやら今もその性分は変わっておらず、そういう意味で接客業は向いていたけど、かといって寂しさが埋まるほど人と関わる仕事ではない。
バイト仲間は女性ばかり。みんないい人達だけど、なんとほとんどが兄ちゃんと同じ大学の生徒だった。
俺が兄ちゃんの弟だと分かると、彼女たちはとても気安く接してくれたけど、俺はバイト先でも個性の強い彼女たちの創作活動や推し活の話を聞くリアクターとして、その存在を確立していった。
平凡な人たちって、どこにいるんだろう。
俺はほとんど衝動的にベッドを降りると、引き出しからジャックオランタンの被り物を引っ張り出し、廊下に放って戸を閉めて、ロックを掛けた。
ドアに耳を当てて、静かな廊下を彷徨うジャックをイメージする。
悪魔を騙し、死後天国にも地獄にも入れてもらえず、ランタンの明かりを頼りに彷徨う哀れな魂。彼の孤独を思うと、少しだけ心が救われる気がした。




