朔くんの彼女
ガラスがはめ込まれた茶色いドアを押し開くと、喫茶店らしいベルの音が俺を迎えてくれた。
香ばしいコーヒーの香りに、ミルク色をしたガラスの吊るし照明。店内を隙なく満たす趣は、レトロなんて言葉でまとめていいものとは思えない。
俺は先週トオルくんと来た時と同じ後ろめたさを味わいながら、目が合った女性店員に奥の席を指さした。
「トオルくん、おまたせ」
「そーちゃん来てくれてありがとう。迷わなかった?」
「ちゃんと覚えてたよ」
「バイト終わりに来てもらってごめん」
「いいよ、この店また来たいと思ってたんだ」
「ここ気に入った?」
「うん!」
まさかトオルくんに呼び出される関係になるとは。お友達っぽいではないか。
一体何の話があるんだろう。やっぱり朔くんのことかな。
にこにこと笑うトオルくんにもまだ新鮮な気持ちがして、俺はごろごろと鳴りだしそうな喉をお冷で潤した。
「それで話ってなに?」
脱いだブルゾンをシートの端にやって尋ねると、「その前に何か頼んだら?」と、二つ折りのメニューが開かれる。
「あーっと、じゃあケーキセットにしようかな」
俺は話が早く聞きたくて、適当に目に付いたメニューに決めると、トオルくんが俺の代わりにチョコレートケーキとコーヒーのセットを注文してくれるのを待った。
ところが、店員が去ってもさっきの俺の問いかけに話が戻ることはなく、俺を待っている間に見ていたらしい画集を鞄にしまうトオルくんに、俺の唇はぴたりとひっついてしまった。
「……」
なにか、話しにくいことなんだろうか。
ひとりでテンションを上げていた自分が急に恥ずかしくなった俺は、おしぼりで丁寧に指先を拭いながら、トオルくんのタイミングを待つことにした。
今日も支配人が送ってくれようとした。もちろん断ったけど。
盗撮の件から数日、詳細は分からないままだ。健介の元カノから連絡はなく、アイナさんの追加の情報もない。俺にはアイキファンの知り合いはいないから、ローカルでのやり取りを知りようがないのだ。
支配人や事情を知っている社員の人たちには毎日声を掛けられるけど、正直俺にはそれほど危機感がない。
兄ちゃんや荒木や透馬、トオルくんにも盗撮の話しはしていない。兄ちゃんは大袈裟に心配するだろうし、そこまでの広がりは今のところないから、言わなくて良かったと思う。
このまま、知らぬ間に風化してくれたらいいんだけど。
「そーちゃんは、最近調子どう?」
「え? 別に、普段通りだけど」
俺は笑顔を作ったが、頭には疑問符が浮かんだ。
トオルくんが話があると俺を呼んだのに、なんで俺の調子なんか聞くんだろう。やっぱり切り出しにくい話なのかな。ゲイ特有のなにかだろうか。
俺はゲイのくせに『ゲイ特有の何か』にちっとも心当たりがなかったけど、早く話を知りたくなって、顔をトオルくんに近付けた。
「トオルくん、なにかあったの?」
「おまたせしました~」
思い切って尋ねたところでコーヒーとケーキが届き、また間が空いてしまった。
「お熱いのでお気を付けください」
「あ、ありがとうございます」
お礼を言いつつ、タイミングの悪い今日の運勢を呪う。
俺が悪意のない店員の後ろ姿を見送っていると、彼女が十分遠くに行くのを待っていたかのように、今度はトオルくんが思い切ったように口を開いた。
「実はさ、朔の彼女のことなんだ」
それは、出し抜けの衝撃だった。
「……えっと、なんて?」
訝しむ俺をトオルくんがささやかに笑う。
「朔の彼女。出来たって言ってたの聞いてなかったっけ? イブのパーティーで」
「いや、あのそれは」
確かに聞いたけど。え?
「あの時そーちゃんもいたよね? 出てった後だったっけ」
とぼけたような顔で記憶を辿るトオルくんに、俺は慌てて首を振る。
「いいいや聞いてたよ!!」
聞いてたけど忘れていた。いや、忘れてたと言うよりも――、
「あれってトオルくんのことなんじゃないの? 恋人が出来たイコール彼女っていう、ノーマルの奴らの発想なんだと思ってたんだけど。ほら、俺を訊ねてきた女の子を彼女って思い込むみたいに」
「いや、彼女も居るんだよ。彼氏と彼女」
まるで曇りのない笑顔のトオルくんが自分を指さし、それから『彼女』と、どこか遠くを指すのを見て、俺の口は開いたままになった。
「いらっしゃいませ~」
ドアベルの音と店員さんの声。彼女が置いたコーヒーの湯気が開いたままの口に入って来て、俺はそっと目を閉じた。
「あの、まだあんまり理解できてない」
小さな声で問う俺の額の辺りで、ふふっとトオルくんが笑う。
「そうだよね。変だって言われるかもしれないけど、俺が朔に女の子とも付き合ってって言ったんだ」
かもじゃなくて、すごく変。
「なんで?」
慎重に顔を上げる俺に対して、トオルくんはアイスクリームの味を迷う子どもみたいな顔でテーブルに右肘を突くと、「ん~」と唸った。
「だってそもそも朔はゲイじゃないし、俺とは可能性を探ってみるって感じで始まったからね」
「可能性を探ってる段階なのに、別の人とも付き合えって言ったの?」
「うん。だって今、朔は卒業制作に取り組んでるから」
また意味が分からない返事が来て、思考が滞る。
「……卒業制作と女の子と付き合うのに、どんな関係あるの?」
めげずに質問を続ける俺に、トオルくんの表情が労わるような優しいものに変わった。
「俺も初めて知ったけど、恋愛って凄くインスピレーションが刺激されるんだよ。俺もずいぶん絵が変わったって先生に言われたし」
「はあ……」
確かにトオルくんの絵は変わった。俺にもいいなと感じられるくらい。でも、でもでも全く意味は分からない。
「そりゃイブの日にいきなり彼女出来たって聞いた時は驚いたよ? でも相手がモデルみたいな綺麗な人らしくてさ。向こうに一目惚れされたんだって」
「へえ……」
「なのにさ、朔がやっぱり付き合うのは俺だけでいいって、彼女と別れようとしてて」
惚気に聞こえなくもない言葉を発して、トオルくんの顔が一転、残念そうに翳るのを見て、俺の視界は大きく傾いた。
「も、もしかして、それが今日の話?」
「そう」
「そうって……」
俺は項垂れて、白いお皿によく映えたチョコレートケーキを眺めた。
ゲイ特有のなにかじゃなかった。でも、これはあまりに特殊過ぎる。仮に俺に恋愛経験があったとしても何も言えることはないだろう。
朔くんはなんで女の子と付き合ったんだ? トオルくんに付き合えって言われたから? 告白されたから? その子にはどう説明したんだろう。そういうことをするタイプじゃないと思ってたんだけどな。
いやその前に、なんでトオルくんはそんなことを言ったんだ!
「トオルくんは、朔くんが俺のベッドで寝るのが嫌で告白したんじゃないの? なのに他の人と朔くんが付き合っていいの?」
「男が俺だけならいいよ」
あっさりと言われて唇を噛む。だめだ、聞けば聞くほど理解が出来ない。
「俺は朔とはセックスできないから、そういう意味でも彼女がいたらいいかなって思うんだけど」
「???」
混乱で頭が決壊するような気がして、俺は咄嗟に後頭部を抑えた。
「あの、できないってのは?」
話を聞けば聞くほど道に迷うと分かっているのに、口が勝手に続きを知りたがる。
「俺は軽いキスとかハグで十分なんだ。とりあえず今のところは」
「軽いキスやハグ」
肯定差の激しい純なセリフに、前回トオルくんが、朔くんと初めて手を繋いだ場所を死ぬほど恥ずかしそうに白状したのを思い出した。
あの時俺は、付き合って二ヵ月以上経つのにまだそこなんだと驚いた。大学生カップルなんて、俺には想像もつかないほど乱れた性生活を送っていると思っていたからだ。
俺は今さらになってその考えを反省した。
「そっか、トオルくんは朔くんに会って始めてゲイって自覚したんだもんね」
「そ。俺だけ中学生みたいな段階なんだ。それに合わせてもらうのに後ろめたさがあるっていうか」
なるほど、それはわからないでもない。でもそんな切ないように笑うのに、だから別の人とも付き合ってなんて言う? エッチなことはそっちとしてってこと? なんだそれ。ん~~~~?
いや……違う。多分トオルくんはそういうことを言ってるんじゃない。わかんないけど、凡人の俺には分かんないけど、えーとえーと。
「トオルくんもしかして、セックスも恋愛みたいにインスピレーションが刺激されるって思ってる?」
後頭部をくしゃくしゃに混ぜっ返しながら思いついた俺の答えに、トオルくんが眉を上げて頷いた。
「そうみたいだよ。制作に行き詰まったらセックスしろって言われる」
「誰に!?」
まさか講師じゃないだろうな。
「先輩とか、仲間内でも聞くよ。裸で過ごしながらセックスしては絵を描いて、カップルで金賞を取った先輩も居るって」
「はあ?」
オエ。作品は生み出された背景も重要だって聞いたことはあるけど、そんな背景は知りたくない。
「朔は人物の彫刻がメインだから、人体を見るって、かなり重要だと思うんだよね」
突然遠くを見るような顔で語ったトオルくんを見て、俺はいよいよ言葉を失くした。
正直、首がねじ切れそうなほど理解できそうなことが見当たらない。けどそれで当然だ。
俺みたいな凡人とトオルくんが同じ価値観なはずはない。正しさに厳しいこの時代に新しいものを生み出すには、これくらいとんちきな思考が必要なのかも。朔くんや朔くんの『彼女』もあっち側の可能性もある。それに、トオルくんは朔くんが好きってのと同じくらい、朔くんの彫刻も好きなのかもしれない。そう考えれば、ギリギリ言っている意味は理解できる。
いや、でも……。
美大生全員がセックスを創作の起爆剤にはしているはずがない!! うちの兄ちゃんなんて絶対にない。卒業制作がなんだ!! 女体を隅々まで触ってみないと人間は彫れないって言うのか!! そんないやらしい話があるか!!
いやでもー……それはちょっとそんな気もするかも。わかんないけど。
「……朔くん、最近調子良さそうって言ってたよね? それって彼女とセックスしてるから?」
「それは、してないみたいだけど」
トオルくんの表情がホッとして見えるのは、俺の価値観がそう見せてるのかな。
ハッキリ言って、俺に正解はわからない。けど俺に相談したんだから思ったことを言うくらい許されるはずだ。
「話を始めに戻すけど、朔くんはトオルくんとだけ付き合いたいって言うんだから、それでいいんじゃないかな」
「そうかな」
自信が無さそうなトオルくんに、俺は大きく頷いて見せる。
「朔くんの作品って、いつも繊細な瞬間を削り出そうとしてるように俺は思う。だとしたらむしろ、トオルくんとの関係にこそ刺激があるんじゃない? ほら、お互いに初めての男同士」
手さぐりにアドバイスらしきことを言ってみると、トオルくんの実直な眉の間に皺が生まれた。
トオルくんが思考を巡らせている。確かな手ごたえに期待が高まる一方、凡人の俺が不安になる。
俺なんかがなにを知ったふうなことを言ってるんだろう。朔くんがなにを表現したかなんて確認したことがない。なにひとつ生み出せない俺なんかが意見を出すなんて。二人の答えは二人にしか出せないのに。
「セックスしてみたら?」
ショックを受けたトオルくんの表情に、俺もつられてショックを受けた。
どこの童貞の高校生が大学生にセックスしろなんて言ってんだ。
俺は慌ててフォークをひっつかみ、チョコレートケーキを口に押し込む。
「んむ、ほら、キスハグと順調に来たんだし、まさぐり合うくらいしたっていいんじゃないかなーって」
ああどうしよう。ケーキをいくら詰め込んでも余計な口が止まらない。
「そーちゃん……」
そんな困った顔しないでよトオルくん。先にとんちきな相談してきたのはそっちなんだから。
「別の人とまさぐり合えって言うよりはずっとまともだと思うよ? せっかく勇気出して奇跡が起きたんだしさ、他の人となんて」
俺が首を横に振って見せると、トオルくんはますます居た堪れない顔になり、俺の中で動揺がやけくそに変わった。
セックスなんて他人にしろなんて言われてするもんじゃない! でもつまりはそういうことだ!
「トオルくんだけでいいって言うんだからそれでいいじゃん! 一体何が問題なんだよ!」
ケーキの消えた皿にフォークを置き、コーヒーカップに手を伸ばしたところでトオルくんから深いため息が落ちた。
「ほんとはね、ちょっと、その……まさぐりあったんだ」
「うん?」
コーヒーの上澄みに唇を付けたまま、ほぼほぼ俯いているトオルくんの言葉に耳をそばだてる。
トオルくんは右手で左の肩をぎゅうっと握りながら、アフリカオオコノハズクみたいにみるみる身体を細くしていって、俺は目を見張った。
「その時思ったんだ。俺は、自分のインスピレーションのために、もう少し中学生みたいな関係を楽しみたいって!!」
「で、わけわかんなくなって戻って来たんだ」
支配人室のソファーで膝を抱える俺に、可笑しそうな声が降ってくる。
「すみません仕事中に」
「てっきり盗撮の件かと思ってたら。ま、面白いからいいけど」
トオルくんと別れた俺は、自宅ではなく映画館に戻ってきていた。
誰かに吐き出さないと脳がパンクしそうだったけど、二人の知り合いには話せない。それでこの人だ。
「自分はもう少し甘酸っぱい今を楽しみたい。でも向こうは先に進もうとする。それでなんで彼女をつくれなんていうのか、全く理解できない」
「複雑だね、芸術家の脳内は」
「なんでも表現の糧にしようとしてさ、あの人たちにはそれが人生なんだって分かってたつもりだけど、俺じゃ何も共感してあげられない。恋愛経験もなければ、作品を生み出す苦労も喜びも想像できないんだから。ほんと、なんで俺なんかに相談するんだろ」
お陰で恥をかいてしまった。ちっともしたいと思ってないトオルくんに、「セックスしろ」なんて言って。童貞の癖に。
「他に言える人が居なかったんだろ」
「……」
そうか、俺がトオルくんと同じだからか。
結局、二人で話し合ってとしか言えなかったけど、それが怖かったから俺に話したのかな。だとしたら、
「役に立てたのかなー」
「今の君なら、どういう感じかわかるんじゃないの?」
「え?」
キーボードを叩く音に顔を上げると、手元の書類に目を落とす支配人の横顔がくすっと笑う。
「話せる相手がいるってことだよ」
「あ……」
何がきっかけか、俺はいつの間にかこの人に心を許してしまっている。きっとこの人にはそんなつもりはないのに。バイトの学生に愚痴なんか聞かされて、面白いからいいなんて言ってくれたけど、本当かな。
「俺、普段はあんまり人の愚痴なんて言わないんですよ。本人に言えるタイプだから」
「いい性格だ」
「相談事もあんまりされたことなかった」
それは周りが悩みのない人たちばかりだからだと思ってたけど、もしかしたら俺が不向きなのかも。でもトオルくんには俺しかいない。
「ゲイの友達か」
「……はい」
「君は本当にゲイだったんだな」
支配人の言葉に、目が点になった。
「カミングアウト、聞いてましたよね?」
「聞いてたけど、言ってみただけかもしれないなって」
「あんなところでつく嘘じゃないでしょ!」
「あんなところでするカミングアウトでもなかったと思うけど?」
「それは……」
「どうしてあんなタイミングで? あの子もいたのに」
ギシッと椅子が鳴って、支配人がこっちを向いたのが分かった。俺はそっちを見ずに聞かれたことを考えながら、ヒナの姿を思い出した。
「あの日は色々と前振りがあったんです。俺の人生を凡人たらしめる成り行きが」
「カミングアウトでそれを打ち消したかった?」
「いえ、あれくらい変なタイミングでも問題ないって分かってただけです」
「受け入れてもらえるって分かってた?」
「はい。幸い俺は凡人だけど幸せなんです。ただ時々――」
「時々?」
尋ねてくれる声が優しくて、ソファーに身を埋めて目を閉じた。するとまたヒナが浮かんだ。黄色いワンピースで、青いネイルをしている。
何か口に任せて言おうとしたところで、尻のポケットでスマホが通知音を鳴らした。今日の運勢は間違いなくタイミングが悪いの一択だ。
画面に表示されたバナーには健介の名前。そして表示されたメッセージの一部を口が勝手に読み上げる。
「友情運アップ?」
「なに?」
俺の呟きに支配人が立ち上がり、こっちへやってくる。俺は体を起こしてスマホのロックを解除した。
「森口くん、それ誰が?」
支配人の声は聞こえていたけど、返事はできなかった。
お尻で温められたスマホの画面には、さっき別れたばかりの俺とトオルくんが写っていた。




