生誕祭
目を覚ますとクリスマスだった。
布団の中で見慣れた天井を視界に入れながら、昨日の出来事を記憶の砂地から一つ一つ掬っていく。
朝のバス。上級生カップルの破局に、芸能人の結婚報道。先生たちの疑惑。
アルバイトに行って、兄からの電話にぎょっとして、高橋さんと佐伯さんから受けた、微笑ましい眼差し。心当たりのある俺を見つけた、支配人の真面目な表情。
支配人の顔が出てきた頃には、脳がすっかり起動していた。すると、背後から抱え込まれた感覚も思い出されて、ムッとした気持ちになる。
初めてのバックハグが支配人だなんて。チッ。脳内で舌打ちをかましながら、どうもおかしい。
昨日の一番のトピックは、どう考えてもヒナとの出来事なはずだ。彼女の動機は身勝手だったし、それを押し通そうとする頑なな眼差しに、確かに恐怖を感じた。
ところが、一晩経って思い返してみると、まるでどうでもいいことに感じる。映画を見たお客のおっさんに、「つまらなかった!」と文句を吐かれた翌朝と同じくらい。
「ひっ!」
寝返りをうったら、横に人がいた。ジャック・オ・ランタンの被り物を被っている。
一瞬、十月に時が巻き戻ったのかと錯覚したけど、
「おはよう」
見慣れた顔が、身を縮めた俺に笑いかけてくる。
「心臓止まるんだけど」
「ごめん」
「何してんの?」
「添い寝」
「なんで?」
「昔は一緒に寝てただろ?」
「そうだっけ」
記憶を漁ると、確かにそんな時期もあった。
俺がしょぼついた瞼を擦りながら身体を真横に倒すと、兄ちゃんもこっちへ身体を向けた。向かい合って、小さい頃と変わらない面差しを眺める。
「で、なんで添い寝?」
「急に、聡太郎が遠くにいるみたいに感じたから」
俺は、そこで再び夕べのことを思い出した。
今思えば、変なタイミングだったカミングアウト。成り行きも聞かない両親が出してくれた温かいチャイや、俺のために残されたブリスケットの味。
どれもが、不思議と変わらない温度感で俺の中に散らばっている。まるで、ただの平凡な一日だったみたいに。目覚めて直ぐにジャック・オ・ランタンを拝んだせいかな。
「それって、俺が行方不明になったから? それともゲイだって言ったから?」
兄ちゃんが被り物の隙間に指を入れて頬を掻きながら、「どっちもかな」と呟く。
「別に、ゲイだからって何も変わらないよ。兄ちゃんに恋愛相談する気は元々ないし」
「そんな寂しいこと言うなよ」
「兄ちゃんだって、俺にはしないだろ?」
「俺にはそんな相手がいないだけだ!」
口をへの字にしてまできっぱりと言われると、弟としてはコメントに困る。
「夕べは、俺たちがあの子のことで騒いだから家を出てったのか?」
悲し気に下がる眉尻を見ながら、俺は、「んー」と、喉を鳴らした。
もちろんそれもある。でも決定的だったのは、もっと幼稚でねじくれた感情だ。これはあまり言いたくない。
なんと言おうかと思っていると、兄の口元が何か言いたそうにうずうずとしている。
夕べ、眠気に負けて二階に上がる俺を誰も引き止めなかった。きっと色々と聞きたいことがあっただろうに。
唐突に、くすっと口の中で笑みが出た。
弟にゲイだと聞かされて、どうしてカボチャの被り物で添い寝しようなんて思いつくんだろう。変な兄ちゃん。
「本当に、あの人は恋人じゃないんだよな?」
行方を案じていた被り物のジャックと視線を合わせていると、兄ちゃんが変なことを言った。
「……恋人?」
「例の、支配人の」
くたびれた顔がぱっと脳裏に現れて、俺はシーツに顔を伏せって噴き出した。
「違うよ!」
「でも、聡太郎を抱きかかえてた。こう、後ろから」
「それは俺をあの子から守るために――」
「だからってああなるか?」
「まあ、俺も驚いたけど」
「あの人、結構年上だよな?」
兄ちゃんが真面目な顔になって、俺はさすがに慌てた。
「恋人の方向で話を進めんなよ! てか、今何時?」
俺は起き上がって、部屋の時計を探した。もういつも起きる時間を過ぎている。
「今日終業式だから行くわ。シャワーも浴びないと!」
兄ちゃんを跨いでベッドを下りると、「今日は何時に帰ってくるんだ?」と声が追いかけてくる。
「今日もバイトだから、七時上がり」
バイトと聞いた兄ちゃんが息を呑んだのが聞こえて、リュックと制服を抱えた俺は呆れた。
「あの人は本当にただの上司だから! 止めてよ、変な思い込み!」
兄ちゃんを自室に置き去りにして、リビングへ下りると、カーテンの開かれた窓の向こうに、かすかに朝の気配が降りているのが見えた。
ダイニングテーブルには、お弁当箱とサンドイッチが二つ、ラップに包まれている。
熱めのシャワーを頭から浴びると、すぐに筋肉がほぐれていく。すると、出し抜けに安心感がやってきた。
やっぱり、何も変わらなかった。
兄ちゃんは俺の隣に居てくれるし、話を聞いたであろう両親も、普段通り店に出ている。友人たちが俺について何か言ったら、兄ちゃんはそれを黙っていられないだろうから、きっとなにも言わなかったんだろう。
薄々分かっていた。いや、自信があった。そんなこと、誰も気にしないだろうって。だって、そうじゃないと辻褄が合わないじゃないか。みんなはいつだって、眩しいほど自分らしく生きているんだから。
お湯を止めて窓を開くと、玉手箱を開けたみたいにバスルームが湯気でいっぱいになった。すると、窓の向こうから、転がる鈴のような音色が聴こえてきた。ショパンの『子守歌』だ。
馴染みのある曲の続きが気になって、瞼が目を覆う。
俺はしばしの間、湯気と冷気に身体を撫でられながら、母さんのピアノに耳を澄ませた。
特筆する事もなく始業式が終わり、荒木と透馬に遊ぶ約束を取り付けて、学校を出た。まだ朝が続いているような穏やかな陽光の中をバスに乗って映画館へ向かう。
「――という訳で、アイキくんには俺が会うことになりました」
支配人がくたびれた顔でそう言って、俺はお弁当の卵焼きに箸先を置いたまま、その顔をまじまじと眺めた。
「夕べ寝ました?」
「寝たよ。少しは」
支配人の指先がメガネの裏に入り込んで、目元をうにうにと揉む。
寝起きにバックハグを思い出した時には、なぜかムッとしてしまったけど、冷静に考えるとこの人は、明らかに俺のせいで不要な労働をしている。いや、絶対にこれっぽっちも俺のせいではないんだけど、俺に降りかかった運命が原因であるのは間違いない。
「なんかすみません。俺のせいで仕事を増やして」
「君が謝ることじゃないだろ」
「まあ、そうですけど」
俺が肩をすくめると、ふっと支配人の口角に笑い皺が寄り、傾く頭を右手が支えた。その小さな所作が、俺の鼻先に嗅ぎ慣れない香りを運んできた。
爽やかなハーブのような香り。でも直ぐに果実の甘さが入って、最後には、なんと言えばいいのか、もったりとした――……香りの知識が全くないから、その正体を捉えようもないけど、とにかく、くたびれた男に色気をまぶすようなずるい香りだ。
いつもはこんなの付けていないのに、なんなんだ!
またわけもわからず苛立ちを覚えた俺に、「そうそう」と、支配人が右手を頭から離す。
「今朝、あの子から電話が来たよ」
「……律ファンの?」
「そう。夕べはどうかしてました、だって」
「そうですか」
「君にも謝罪したいって言われたけど、それは遠慮しておいた。よかった?」
「はい。もちろん」
謝ってもらうために会うなんて、気まず過ぎる。
それにしても、あれは彼女にとってもどうかしている状態だったのか。
「なんかさ」と、支配人が息を吸って、背中を受け止めたチェアがギシッと鳴った。
「主演じゃないらしいけど、律くんのドラマが決まったらしいよ。新曲もリリースされるとかなんとか、嬉しそうに喋ってた。一方的に」
困ったように笑う支配人を見て、俺も同じような顔になった。
「結局、なにをするにも推しなんですね」
「そうだね、善きも悪しきも」
上下する眉に、蔑みを感じる。
昨日も思ったけど、この人は俺以上にヒナに悪感情を抱いているみたいだ。それが彼女に対してなのか、それとも、『善きも悪しきも』推しに左右される人間に対してなのかは分からない。
「前向きになれてよかったですね。独りよがりにも、思えますけど」
感じ取った支配人の心情に共感する言葉を付け足してみると、また支配人の口角に皺が寄る。
「どういう人生なんだろうな。アイドル側の心情も気になるところだ。幸せにもするけど、不幸にもする。そんなつもりはなくても、さっきの森口くんみたいに、罪悪感は生まれるだろう。もしも夕べ、彼女が君に危害を加えていたら」
「えっ」
唐突に、針先に似た眼差しが俺を射貫いて、心臓が驚く。
「彼女はね、嘘は言っていないと言った。君を訪ねて行ったら、家の人が勘違いして上げてくれたんだって。でも、後はつけたと認めた」
「……そう、ですか」
また香水が香ってくる。どうも、この人は怒っているようだ。自ら電話を掛けてきておきながら、謝罪に終始できず、自分を擁護したうえ、律のことを語り出した彼女を軽蔑している。
「俺に出来るのは、うちを出禁にすることくらいだけど、どうしたい?」
「それ、俺が決めるんですか?」
「俺の判断で出禁にしたら、君が罪悪感を感じそうだから」
確かに、感じるだろう。
「いいです。それは」
「そう」
一変、はっきりと案じる眼差しを向けられて、俺は落ち着かない気持ちになった。
いや、これはいつもの立場上必要な確認だ。ちゃんとした対応をしてもらったと俺に納得させるための。
そう言い聞かせるのに、身体の変なところからよくわからない感情が芽吹きだしそうで怖い。
どうしたんだろう、兄ちゃんが恋人なんて言ったから――あ、しまった。
余計なことを思い出した俺は、半分ほど残ったお弁当に蓋をして、そそくさと事務所を後にした。
「そーちゃんこんち!」
「エリさんこんにちは」
「早ない? 支配人に呼ばれてたんでしょう?」
「もう終わりました」
「ちゃんとお昼食べたの?」
「はい」
ヒトミさんに頷いて見せる。
「てか今日の支配人、いつもより疲れてたよねー」
「あー、顔色がどんよりしてましたね」
「ねー! 透明感皆無!」
「アハハ!」
みんないつも通りだ。アルバイトのみんなは、俺がアイキに会うことも、律のファンに絡まれたせいで会わなくなったことも知らない。
そのうち支配人がアイキと並んで広報に載ってるのを見つけたら、さぞ大笑いするだろう。「なんでそーちゃんじゃないの!」ってツッコミが入って、「未成年だから」とかなんとか、支配人は言うはずだ。
支配人は、俺にも来るように言った。写らないとしても、会って挨拶くらいはしたらいいと。
そりゃあ俺だって、自分が表に出ないのならアイドルには会ってみたい。テレビ越しであんなに眩しいんだから、実物はどれほどなのか気になる。
芸能人のオーラに取り込まれて、俺も推しになっちゃうかな。隣に立つ支配人を見たら後悔するだろうか。ツーショットを残せばよかったって。
そんなことを考えて手を動かしていると、また香水の香りを思い出して心がざわつき始める。
「ああもう……」
「なあに?」
「いえ!」
香りが脳内を漂っている。振り払おうと頭を振ると、ますますごちゃごちゃと複雑に混ざり合った。
ジャック・オ・ランタン、兄の体温、母さんのピアノの音色。それらが俺を落ち着かせたかと思うと、くたびれた支配人の顔が、怒りや蔑みに変わる。俺に降りかかった運命のせいでそんな顔をしているんだと思うと、やるせない気持ちと一緒に、やっぱりここにも安堵感が生まれた。
支配人は夕べ、あれから事務所に戻って、近江さんに連絡を取って、俺に起こったことを話したんだろう。近江さんはすぐに了承してくれたかな。きっと日を跨いで家に帰って、まだ暗いうちに目を覚ましたんだろうな。
クリスマスの日付を見て、一番に何を思ったんだろう。どんな気持ちで普段付けない香水なんか手に取ったのかな。
止める気もなく思考を走らせて、後頭部がむずむずする。
そういえば、今日は夕方で上がりだって書いてあった。明日は午後出だって。
「…………」
もしかして、デートなのかな。
「ヒトミさん、支配人って彼女とかいるんです?」
「興味ないから知らない」
「ですよねー!」
クリスマスに合わせて投稿する予定だったのに。ハァ。




