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救世主?



 どれくらい後ずさっただろう。

 正体を明かしたヒナとの距離は、詰まってもいないが開いてもいない。兄たちと同様、俺の話を聞く気はないようだし、このままでは凍えてしまう。

 ええい、ひとまず走って逃げよう!

 そう決めた俺は、彼女の走り難そうなブーツに目をやった。その時だった。

「!」

 トンと背後に壁が現れた。

 無限にあると思っていた退路が唐突に断たれ、車にでも激突したかと衝撃が心臓を襲う。と同時に、後ろから腕が伸びてきて、怯えた身体がそっと捕まった。


「この子に近付くな」


 あれ、この声は。


「誰?」

 ヒナが不審な視線を俺の後ろへやる。ところが、声の主が、「彼の上司」と正体を明かすや否や、まるで道が開けたというような晴れやかな表情に変わった。

「ねえ! この人アイキに会うんでしょ!? MARSのアイキ!」

 瞳がこぼれそうなほど目が見開かれ、頬が血色を帯びていく。変わらず荒唐無稽な期待に満ちた彼女に、支配人はきっぱりと言った。

「いや、会わない」

 にべもない口調に、ヒナの顔が再び歪む。

「嘘!!」

 嘘、と腕の中で俺も思った。ところが支配人は、俺の頭上で恐らく首を左右に振った。

「昨日うちに電話をしてきたのは君だな?」

 電話?

 首を傾げる俺の先で、ヒナの眉が反応を見せた。

「アイキが来る予定はあるかと聞かれて、俺はないと返したはずだ」

「だってそんなの嘘かもしれないもん!」

「それで今度は彼の家に押しかけたのか」

 ちょっと。電話があったなんて聞いてないんだけど。

 支配人を振り返ろうと首を回すと、「じっとして」と囁かれ、仕方なく前を向く。

「アイキが真心に会いたいとSNSに書き込んだのは知ってる。だからって彼はアイキに会わないし、会わせない」

「なんであなたがそんなこと決めるのよ!」

 そうだ。会うじゃんか。しかも話を持ち掛けたのは近江さんだし。

「そもそも真心なんてのは、ファンが勝手に言い出したことだ」

 乗っかって特典配布させたくせに?

「だからなに? アイキにも認知されてる! 二人が会えばみんな喜ぶんだからいいじゃない!」

 いや、俺は喜んで会うわけじゃない。支配人は聖地になるって期待してたけど。

 さっき心臓が飛び跳ねるほど追い詰められていた俺は、大人の腕に守られて、すっかり安心を取り戻していた。それで、シリアスな二人に突っ込みが止まらない。

「みんな。そうだな、もちろんアイキのファンからも連絡があったよ」

「え、そうなの?」

 ついに声に出した俺を支配人は黙殺した。

「内容はどれも、うちが上映回数を増やしたことと、もぎりに立ち続けた彼に対してのお礼だ」

 だから、聞いてないんですけど。

「書き込みの後、アイキが来るかという問い合わせもあった。でも、彼に接触してきたファンはいない。そうだよね?」

 突然同意を求められ、慌てて頷く。

「アイキは自分のファンを()()()()から、会いたいなんて言えたのかもな」

 含みを持たせた支配人の口ぶりに、ヒナの視線が左右に揺れる。俺も、支配人がなにを言いたいか分かった。

「君がこんなことをしたせいで、彼とアイキが会うことは完全になくなった。わかるよね? アイドルは、一般の人に絶対に迷惑を掛けない。律くんはどう思うだろうな。こうして彼に迷惑をかけた自分のファンのことを。もしもこれが公になったら――」


 ああいう人がファンなのかーってなっちゃう。


 不意に、アイナさんの声が聞こえた気がした。

 ヒナがついに俯いて、俺は安堵した。けれど、次いで湧いてきた疑惑に、別の感情が生まれる。

 さてはこの人、結構前から様子を見てたな?

 俺がじりじり後ずさっていくのを何メートル観察してたんだ。

 にわかに腹を立てだした俺をよそに、ヒナの肩が震え始めた。鼻を啜る音もする。

「でも私、どうしても本当のことが知りたいのっ!」

 駄々を捏ねるような唸り声が響き、ブーツが地面を踏みつける。

 ああ、どうしたらこの子は納得できるんだ。ダメもとで俺が訊いてみるしかないのかな。

 俺がそんなことを思っていると、頭頂部から深いため息が振ってきた。

「君に出来るのは、出された情報を信じるか信じないかだけだ。今までだってずっとそうだっただろ。ファンにもたらされるのは、いつも彼らのブランディングされた姿なんだから」

 支配人の無慈悲な言葉に、ヒナの目が恨めしそうに持ち上がる。みるみる顔に力が籠もり、ギリッと歯がむき出しになった。


「そんなことない!! 律の笑顔は作り物なんかじゃないもん!!」


「じゃあ信じてやったらいいだろ!! 彼を巻き込むな!!」


 ねじ伏せるように声を荒げた支配人に、思わず身体がビクッと震えた。真正面から怒気を浴びせられたヒナも、言葉を出せず鯉のように口を動かしている。まるで何かを請うように。

 俺は少し、ヒナを可哀想に思った。

 きっと彼女だってわかっているんだ。諦めるしかないんだって。それが、俺がアイキに声を掛けられたみたいになって、もしかしたらって思ってしまったんじゃないかな。

 実際、律は女性と密着してた。それはもうべったり。あの釈明が事実だったにせよ、あれだけ間が空いたということは、プライベートのことですら、律一人では決められないということだ。

 それで、それらを飲み込むということは、支配人の言う通り、自分の推しがアイドルを生業にしているただの男だと認めることになる。

 やっと自由な推し活が始まったばかりだったのに。ま、俺には関係ないんだけど。

「引き下がらないなら警察を呼ぶ。家族にも連絡が行くぞ」

 支配人の最後通牒に、手袋で顔を覆うヒナの泣き声が大きくなった。

 なんだかドラマのエンディングみたい。でも感動はない。救世主みたいに現れた支配人が、タイミングを見計らって出てきたんだと確信しているからだ。なのに、抱かれる腕にぐっと力が籠るたび、不可抗力できゅんとする。

 俺は再び支配人の顔を見ようと首を捩った。くたびれた顔を見れば、きゅんが収まるかもしれない。なのに、

「まだだめだよ」

 囁かれた吐息が額に掛かって、またきゅんときた。まじ俺のくそったれ。



「おいおいおいおい!!! そこのお前えぇ!!!」



「!?」



「その手を離せええええええ!!!!」



 いきなり歌舞伎でも始まったのかと思ったら、ヒナの後方から猛然と走ってくる人影があった。後ろにも複数いる。

「あれは?」

「兄です」

「俺に言ってる?」

「多分」

「だよな」

 俺たちが呑気なやり取りをしている間に、バタバタと駆けつけてきた兄たちは、ヒナに並ぶように集合した。

「お前!! 聡太郎から手を離せ!!」

 凄い形相の兄ちゃんが支配人に指を突きつける。泣き顔のヒナを見つけた男たちも、険しい顔に変わった。

「ふむ」

 これは面白いことになった。今度はまるで支配人が悪役だ。

「さ、森口くん。説明してあげて」

「えーどうしよっかな」

「えっ!?」

 ぎょっとする支配人に、「ふふっ」と笑いが零れた。

 

 兄ちゃん、朔くん、トオルくん。ミツルくんに、沢木くんに、リョーキくん。他の男たちは見当たらない。家で待機しているのかな。俺が居ないのに気付いて、みんなで探しに来てくれたんだ。

 自分で逃げ出したくせに、みんなの注意が向けられると、やっぱり嬉しい。支配人の腕にホッとした事実も相まって、自分の精神的な未熟さが際立ってクソ恥ずい。

 都合のいいことを言う支配人に散々突っ込みを入れたけど、俺だって同じようなもんだ。もうずっと。


「兄ちゃん、勘違いしないで。この人は俺を守ってくれただけ」

「守る?」

「うん。俺さ――」


 なんでこのタイミングだったのか、きっとこの時に聞かれても答えられなかったと思う。


「俺、ゲイなんだよね」


 みんなの目が一様に丸くなっていくのを、俺は大切に眺めた。

「だから、この子とはなんでもない。俺がアイキに会ったら、律の熱愛報道の真実を聞いてきてくれって頼みに来たんだ。むちゃ言うよね」

「な、なんだって?」

 勘違いが是正され、男たちがヒナから距離を取る。ただ、朔くんとトオルくんは俺を見たまま動かない。そして、兄ちゃんも。

「その人は、彼氏なのか?」

「うん」

「えっ!?」

 素っ頓狂な声を上げた支配人に、俺は笑いを堪えられなかった。

「うそ。うちの映画館の支配人」

「あっ、そうなんですか?」

「ええ、まあ」

 まだ少し疑うように支配人を見る兄ちゃんに、俺はようやく申し訳ない気持ちが生まれた。


「あなた、ゲイなの?」


 静かだったヒナが口を開いた。俺はドラマめいた緩慢さで頷く。

「そう。どうする? それでもアイキに会わせたい?」

 ヒナの視線が俺の顔面を這う。ここにいる誰よりも『想定外』という顔をしているのは面白い。

「なんでアイキの()()()が俺だったんだろ? もしかして、アイキもゲイなのかな。メッセージ送ってみようかな。律儀な人らしいし、会ってくれるかも。そしたら()()()()写真撮ってもらって、SNSで自慢したら、俺も有名になれちゃうかもね」

 律のスキャンダルが、女性側の売名行為と疑う書き込みを荒木が読み上げていたのを思い出し、タチの悪い口調で思ってもいないことを並べると、彼女の顔色がみるみる暗くなっていく。

「あ、会わなくていい」

 ヒナの触覚が、たゆたゆと左右に揺れる。

「いいの? 事実がわからないままで」

「アイキが、あなたに本当のことを話すか分からないし」

 それ、俺も言ったんだけど。

「それに、律のこと……やっぱり好きだから」

「あっそ」

 彼女が納得したのかはわからなかったけど、都合よく流れてきたタクシーを見つけた俺は、支配人の腕を掴んで大きく掲げた。

 大人しく乗り込んだヒナを乗せたタクシーが、赤いテールライトを光らせ、澄んだ空気の聖夜へと消えて行った。



「目がヤバかったな、あの子」

 支配人が俺の肩に手を置いて、深く息を吐く。

「もっと早く助けてくれたらよかったのに」

「君が連絡をくれないから、彼女が誰なのか分からなかったんだよ」

 それは、まあそうか。

「あのー……」

 振り返ると、我が兄と御一行が所在無げに並んでいる。

「あ、ごめん兄ちゃん! 問題は解決した!」

「そう、なんですか?」

 窺うようにする兄ちゃんに、「ええ、恐らくは」と支配人が頷く。

「あの、挨拶が遅れました。聡太郎の兄です。先ほどは失礼しました。いつも弟がお世話になってます」

「こちらこそ、彼にはよく働いていただいて」

「あ、ありがとうございます。弟は本当に気の付くやつで」

「やめてよ兄ちゃん!」

 突然始まった定番のやり取りに、みんなが笑いだす。俺も笑っていたけど、朔くんとトオルくんだけが、そんな俺をじっと見つめていた。



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