前夜祭
目が覚めて、エアコンに温風を吹いてもらうクリスマスイブ。
今日と明日、学校に行けば冬休み。「一年って早いな~」なんて会話を家族でしながら、クロワッサンと温かいクラムチャウダーを食べて、バスに乗って学校に向かう。
外は寒いが、冬のバスの車内は暑い。ぼーっとしながら窓の向こうを眺めていると、映画館が見えてきた。
社員の駐車場は裏手にあって見えないけど、みんなもう出勤している時間だ。
朝一番の上映は九時台。ヒューマンドラマ、リアルタイムサスペンス、それからリバイバル上映の作品が一本と、ハチワレパンダもやっている。
ふいにポップコーンのいい匂いが鼻腔に漂った気がして、あたたかい気持ちになった。とろけて目を瞑ると、開演十分前に館内に流れる入場案内まで聞こえてくる。
言われるまで気がつかなかったけど、あれは支配人が録音しているそうだ。忙しいのに何でと訊ねたら、一度、音声データにトラブルがあって、支配人が直接放送で案内を流した日があったらしく、たった一日のことだったのに、「あの人の声がいい」とのご意見が複数届いたらしい。
確かに支配人の声は落ち着いていて聞き取りやすい。いつもくたびれた姿ばかり見ている俺たちは、上司のよそ行きの声に、ちょっと笑ってしまうんだけど。
信号でバスが止まり、すぐ先に学校が見えた。
ずっと、家とあそこだけが俺のテリトリーだった。でも今は映画館も居場所のひとつだ。
始めのうちは個性的な美大生ばかりで、凡人仲間を求めていた俺は、「失敗したかも」なんて思ったけど、慣れてしまえば気楽なものだ。
とは言え、結局場所が変わっても、俺は何も変わらない。ただの凡人。でも労働で対価を得たことで、なんとか社会に混ざって生きていけそうな気になれた。それがわかっただけでも、十分な収穫と言えるんじゃないかと思う。
教室に着くと、昨日の荒木の忠告は杞憂だとわかった。
上の学年の有名な美男美女カップルが別れただとか、俳優とアイドルグループのなんだかいう子が結婚を発表しただとか、E組の担任と副担任がラブホテルから出てきたのを誰かが見たとかで、みんなの注意は散り散りになり、会うかどうかも分からない俺とアイキのことなど、誰の記憶からも消えてしまったかのようだった。
等の荒木でさえ、「あの俳優がアイドルを選ぶなんて……」と驚愕していた。一番に食いつくのそこなのかよ。
「で、先生二人はデキてたの?」
「ただの見回りだったみたい」
「なーんだ」
アイナさんがあからさまに興味を無くして、俺は現代の平和さを切に感じる。
「そーちゃん。支配人が呼んでる」
「はーい!」
事務所から顔を出した佐伯さんが丸眼鏡を押し上げて、またすぐに奥へと引っ込む。それを見たアイナさんが、ちょっと声を落とし、
「佐伯さんってとっつき難い人だけど、そーちゃんには感じいいよね」
と、耳打ちしてきた。
「え、とっつき難いですか?」
「まあ悪い人じゃないけど、ちょっと話し掛け難いって言うかさー」
アイナさんにもそんな感覚があるのかと驚きつつ、まあ確かに、佐伯さんは無表情だし、口数も多くない。女性が話しかけやすいタイプの男性ではないのかもなあと思う。
「戦隊ものが好きみたいですよ。デスクに俺の世代の敵ボスのフィギュアがあったんで、話振ったら普通に会話が進みました」
「あー! あれ戦隊ものだったんだ!」
なるほどと頷いているアイナさんを置いて、俺は支配人のところへ向かった。
「これが当日の流れね」
「はあ」
支配人に書類を渡されて、ページをめくる。両親への説明で聞いていた通り、二十八日の早朝。他のバイトメンバーが来る前に、劇場で俺とアイキの撮影を済ませ、それからアイキはホテルに移動するとある。
「ちゃんと後ろ姿って書いてある」
「俺が話を付けたからね」
ちょっと胸を張る支配人を笑って、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「わざわざここに来てくれるんですね」
「うん。アイキくん側が君に特典を手渡される画が欲しいって言うもんで。うちはもちろん来てくれるなら大歓迎だし」
「ファンの聖地になりますもんね」
「そうそう」
深く頷く支配人に、また笑いが出る。
「森口くんの出番はうちでの撮影だけだから、その後は何食わぬ顔でバイトをしていて下さい」
「はーい」
構えるほどのやりとりはないと確認ができて、俺は揚々とバイトにいそしんだ。そのうちに、片想いパラドックスの一回目の上映時間が近付いた。
俺は相変わらず『もぎり』の仕事を免除されていて、今日は物販のレジに立っている。
映画のお客さんは随分と落ち着いて、それでも二十人程いる似通った服装の女の子たちを眺めていると、ふと昨日うちの喫茶店に来たアイキファンのことを思い出した。
後で両親に聞いてみようと思っていたのに、すっかり忘れていた。
列に視線を走らせるも、彼女は見当たらない。さすがに満足したのかな。それか、これ以降の上映にくるのかも。まあ彼女を見つけたとして、なんでうちの店に来たか、なんてのはわからないんだけど。
「あの、すみません」
「はい!」
俺は答えのない考え事を止め、やって来た親子連れに笑顔を向けて、頼まれた前売りチケットと特典を手渡した。
「そーちゃん家って、今日クリパなんだ?」
ICカードをかざしてタイムカードを切っていると、デスクにいた社員の高橋さんに声を掛けられた。
「え、はい。そうですけど」
どこもそうなんじゃないのかなと思いつつ、高橋さんの艶やかなリップがにんまりと笑うのを見て、なんだか居心地が悪い。
「さっき、お兄ちゃんから電話が来てたよ」
「えっ、なんてですか!?」
俺はびっくりして、飛び上がりそうになった。
「弟は今日、何時に終わるんですかーって」
「ええ~っ!?」
バイトの時間はちゃんとカレンダーに書いてあるのに。
「……もしかして、けっこう酔ってました?」
俺が恐る恐る訊ねると、高橋さんはくすくすと笑い出し、茶色いボブヘアーが柔らかく揺れる。
「後ろはかなりにぎやかだったけど、ちゃんと会話にはなってたよ」
「兄ちゃん……」
眉を顰める俺を高橋さんがますます笑う。
「なんかねえ、ふふっ」
高橋さんが堪えられない様子で口を押え、そうしたら、ずっと静かだった佐伯さんまで肩を揺らし始めた。
「なんですか二人して。怖い……」
俺は身を引いて、二人を交互に見やる。
「弟に会いに、女の子が来てるんですけどーって言ってたんだってさ」
突然向こうから声がして、見ると、奥の戸口に支配人が立っていた。
「……女の子?」
呟く俺を、三人の大人が微笑ましい顔で見ている。そんな彼らの視線を受けながら、俺の頭頂部からはするすると血の気が引いていった。
あの子だ。
それはかなり直感的な断定だった。それに、もしもあの子だとして、どうしてこんなに恐ろしい気持ちになるのかは分からない。
いや……もしもあの子が、アイキの書き込みを見たうちのクラスメイトたちのように、俺がアイキに会うと思ったんだとしたら……。
「彼女いるなら、今日か明日のどっちか休みにすればよかったのにー」
咎めるように唇を尖らせる高橋さんの言葉を耳に入れながら、俺は真っすぐに支配人を見た。
無意識にではあったけど、俺の思考をよく読むこの人なら、俺の元へ女の子が来るはずがないと分かってくれるような気がした。そして、俺が今感じている怖さも。
期待通り、俺の視線を受けた支配人の表情がはっと変わった。ほのぼのとした空気を放つ高橋さんと佐伯さんを置いて、身体から抜け出た血だまりに立っているような俺を、真顔でまじまじと見つめ返してくる。
「森口くん。ちょっとおいで」
呼ばれて、眩暈がしそうな頭を何とか縦に振る。
「えー! 支配人、早く帰してあげないと!」
「わかってる」
やり取りを聞きながら、棚とデスクの間をのめって歩く。
俺に仲のいい女子はいない。過去をさらっても見当たらない。思いつくのはやっぱりあの子。でも、なんの確証もない。ただ昨日、うちの店に来たってだけ。
「彼女じゃないんだ?」
ドアが閉められて、始めからシリアスなトーンの支配人に、俺はむしろホッとした。
「はい。違います」
「君のことが好きな子とか?」
「全然、そんな相手は思いつきません」
「なら誰か、思い当たる人が居る?」
俺は一つ、唾液を飲み込んだ。
「……昨日、うちの店に来てたんです」
「ご両親の喫茶店に?」
「はい」
「誰が?」
「アイキの、ファンの子です。俺にアイキの真心って呼ばれてることを教えてくれた」
「前に、バス停で声を掛けられたって言ってた子?」
「そうです」
はっきりと頷くと、室内にしばしの沈黙が訪れた。
だからなんだと言われるだろうか。両親も何も言っていなかった。彼女が俺のことを話題に上げれば、今朝何か言ったはずだ。だから、ただのお客だったって可能性の方が高い。
「家に連絡して」
「……え?」
不安な気持ちで顔を上げると、支配人はまだ真面目な顔だった。
「知らない人だから、すぐに帰ってもらうようにって」
「はい」
俺が頷いている間に、支配人はパソコンに向かい、幾つかクリックをして、それからドアの壊れたロッカーまで行くと、ハンガーからコートを外した。
「送って行くよ」




