足音
アイキに会うと決めた夜、俺は発熱した。
朝にはすっかり下がり、一応病院に掛かるも感染症は陰性。学校はそのまま休んで、バイトはどうすればいいんだろうと事務所に電話を掛けたら、わざわざ支配人が出て、「疲れが出たのかもしれないから、今日はゆっくり休んで」と丁寧に対応された。
そういう訳で、体調はいいけど出掛けるわけにもいかず、リビングに下りてきて今に至る。
「ふあ」
あくびを一つ。室内はすっかりクリスマス――というよりは、さながら美大生の展覧会だ。
星の散る水面を翻る黒い鯉は、沢木くんの日本画。相変わらず緻密で綺麗。
天井から吊るされた鯨の一団はミツルくんの作品だろう。色の組み合わせがポップで、とにかく可愛い。その鯨の向かう先にはトオルくんの油彩画がある。ひと目でそうと分かるのに、今までよりもずっと受ける印象がいい。何か心境に変化でもあったのかな。
テレビの横に置いてあるのは朔くんの作品だ。豊かな髪に櫛を通す女性は、穏やかな場面だけど生命力を感じる。
兄ちゃんの作品は頻繁に増えたり減ったりするからどれか分からないけど、最近はよく木の枝を削って花のようにしたものを作っている。
他にも幾つか作品が飾られて、どれもちっともクリスマス感がない。彼らの個性があるだけだ。クリスマスツリーだって、よく見れば関係のないものばかりぶら下がっている。
つくづく贅沢な空間だと思う。家具だって全てじいちゃんのところの職人さんの手作り。なのに、俺はどうして何かを創り出したいと思わないんだろう。
性懲りも無くそんなことを思ったら寂しくなって、音が欲しくてテレビを付けた。
『――それでは、今日のゲストをお呼びしましょう。映画、片想いパラドックスが絶賛公開中! アイドルグループMARSの、アイキさんでーす!』
明るいアナウンサーの声に、俺は自分が呼ばれたかというほど心臓が飛び跳ねた。
沸き上がる拍手と歓声に迎えられたのは、もちろんテレビの向こうのアイキ。
金色の髪色に額を出したヘアセット、そして隙のないメイクが、映画のCMで見た少し奥手な高校生とは、人生の全てが違うように見える。
「アイドル」
目を奪われたまま呟く。
五日後にこの人に会うなんて。後ろ姿だけと交渉してよかった。一般人と並んでいいビジュアルじゃない。
画面はすぐに映画のプロモーション映像に切り替わり、アイキの顔が左上の小窓に収まる。律くんのスキャンダルや、それが誤報だとわかってからの来場者数の増え方が『前代未聞』と、褒めているんだかなんだかわからない大仰な紹介が続き、再び画面がスタジオに戻ると、アイキが来観者に手を振っている。
俺は予行練習のつもりで、生放送のテレビに手を振り返してみた。すると、映画についてのコメントを求められたアイキが、再びカメラ目線でアップになった。
俺はなにがしかの期待に、グッと身を構えた。ところがアイキは簡潔に映画の宣伝文句を述べただけで、すぐにアナウンサーが次のコーナーの説明に入ってしまった。
「みじかっ」
俺は拍子抜けしてしまった。だって、出てきてから一分もない。
困惑している間に、テレビの向こうではクイズの題材の美味しそうな料理が運び込まれ、引きになった画面の端っこにアイキが映る。レギュラーメンバーの芸人とアイドルの女の子が、大げさにリアクションしているのをにこにこと手を叩いて盛り上げているようだ。
「……」
俺は今までに見た『番宣ゲスト』という人たちの扱いを思い出そうとしたけど、上手くいかなかった。俺には推しがいたことがないから、注目して見たことがなかったのだ。まあアイキのことだって推しているわけじゃないんだけど。
それにしても、テレビってこんなに素っ気ないものだったっけ?
もしかして意地悪されてる? ケチのついた映画だから? でもアイキは悪くないし。
口を尖らせ、拗らせたファンみたいな妄想をし始めた自分に気が付いて、はっと我に返った。そしたら画面いっぱいにラーメンが映って、急激にお腹が空いてきた。
「……母さんになにか作ってもらおう」
俺はアナウンサーの笑顔が映ったテレビを消した。
「さむぅ」
うちの玄関は東向きなため、正午を過ぎた今は日陰になってひどく寒い。風も強く、ドアに掛けられたリースが背後でバタバタと揺れている。こんなに天気はいいのにと、空を見上げようとしたその時だった。
「あ」
駐車スペースを挟んで向こうを女の子が通り過ぎて行く。見覚えがある姿に、後を追うように歩道へ出ると、カランとベルの音がして、後ろ姿が店へと消えた。
「あの子……」
青いネイルは見えなかった。でも間違いない。前にバス停で話し掛けられた、アイキのファンの子だ。
「なんであの子がうちに……」
上着を着ていない身体に、寒風が吹きつけてきた。俺はなぜか迷いが生まれて、家へと引き返した。
閉じた玄関のドアにもたれて、今見たことについて考える。
見間違いかも。服装に青色が無かったし。でも、ほとんど毎日見ていた顔を忘れたりしない。それに、彼女だったとして、別に問題はない。だってうちは客商売。知り合いが来ることはめちゃくちゃある。支配人だって何度か来たことがあるって言ってたし、劇場からも気合を入れれば歩ける距離だ。
「うん。何も問題はない」
口に出して言ってみたけど、やっぱり違和感を覚えた俺は、自分でサンドイッチを作って食べた。
意味もなく物音を立てないように過ごしていたが、三時になって荒木と透馬がやって来くると、クラス中で、俺がアイキに会う会わないでやかましくなっていると聞いて、俺は彼女のことをすっかり忘れてしまった。
「会えるわけねーだろって言ったらさ、会うとしたって言えるわけないじゃんとか言われてさあ、じゃあ俺に聞くなよって」
「なんかみんな勝手にわくわくしちゃってんだよねー」
荒木と透馬がやれやれと息を吐く。
「へ、へー……」
俺と友人だったために二人が質問攻めにされているらしく、大変申し訳ない。沢木くんやミツルくんには簡単に口を滑らせたくせに、二人には黙っていようと決めた自分は、なんて友達甲斐のないやつなんだと思いつつ、二人は絶対に顔に出るという確信もある。
「明日も明後日も休んだらいいよ。うるせえよあいつら」
「そう言うわけにはいかないでしょー。まあすぐ冬休みだし、みんなも飽きると思うよ」
「そうだよね……」
なーんて。記事が公開されたら、二人も向こう側にまわってしまうかな。どうして教えてくれなかったんだって怒るかな。言えるわけないよなって納得してくれるかな。
「今年もクリスマスパーティーやるの?」
賑やかなリビングを見回して透馬が言う。
「うん。明日と明後日の二日間。暇ならきてよ。俺はバイトあるけど」
「いつ来ればいるんだよ」
「夜の十時過ぎ?」
「おそ!!」




