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正しき人生



「アイキくんに会う気ある?」


 支配人の言葉で、朝と同じく時が止まった。

 体の内側から困惑が溢れて、思考に至るまでにかなりのラグがある。

「……アイキに、会うって?」

「どうやら近江さんが話を付けたみたいでね」

「近江さん」

 またあの人か。

 支配人が俺の顔色を読んで、ふっと笑う。

「あの人はとにかく顔が広くてね。どんなコネがあるのかは誰も知らないんだ。なにかとんでもない裏稼業をしてるんじゃないかって俺は疑ってるんだけどね」

 冗談でもない口振りに、以前支配人が近江さんに向けた、形容し難い表情を思い出す。

「この話っていつ?」

「話が来たのは昨日。でもあの人のことだから、うちに来た後すぐに動いてたんじゃないかな」

「じゃあ、今朝のって……」

「アイキくんの投稿は分からない。ああいう匂わせは、普通はしないことだと思うけどね」

 相変わらずよく会話を繋がれる。信号が青に変わって、車が動き出した。

「もう一度言うけどね、これは相談。嫌なら断っていい。君はアルバイトだし、未成年だ」

「……」

 相談? 本当にそうだろうか。

 大人同士が話を付けて来たっていうのに、下っ端の俺がどうして断れるっていうんだろう。

「会って、何をするんですか?」

「うん。うちの広報誌と、映画の公式サイトに載せるインタビューって聞いてる。ほとんどは彼自身と映画の話だよ。その締めに、ちょこっと君と絡みがあるって感じ」

「締めに、ちょこっと」

 なら簡単なことかも。そう思うのに、ならやりますとは出てこない。

 ああ、どうして俺はみんなみたいになれないんだろう。芸能人に会わせてやるって言うんだから、喜んでやります! って言えばいいのに。たかがアルバイトに、大層な役目があるわけないんだから。

「森口くん、今の片思いパラドックスのサイトのトップ、知ってる?」

 俺の沈黙を待って、支配人が言った。

「いいえ」

「律くんの謝罪文。ご迷惑をおかけしてすみませんっていう。それをさ、うちとの記事で更新したいんだって。応援を続けてくれたファンと、ファンを喜ばせてくれたアイキの真心に感謝って形で」

「か、感謝? あれで集客を狙ったうちに?」

 支配人の眉間に皺が寄って、くすっと笑う。

「向こうにとっても客が来るのはいい事なんだよ?」

「それはそうでしょうけど……」

 なんだか全部が演出みたいだ。でも、あの現象だってファンが作り出した演出だ。真心が、あるかのように。

「それ、俺は本当に断れるんですか」

「もちろん。インタビューが無くなることはない」

「……」

 俯く俺に、エアコンがあったかい空気を吹きかけてくる。なのに、身体の真ん中が冷たい。

 アイキの投稿を見た時、広大なコンサートホールで名前を呼ばれたような、針の筵に立たされた気持ちがして、とても怖かった。

 でも、あれもなにかの演出なのかも。凡人の俺には知らされないだけで。

 ブレーキが踏まれて車がゆっくりと停車した。頭を下げた支配人が、運転席から俺の左側の窓を覗く。

「君って、この喫茶店の息子なんだもんな」

 見るとすでにうちの前。店の窓に、いつの間にか電飾が飾られている。

「うちの店、知ってるんですか?」

「もちろん。有名だろ。何度か来たこともある。俺あれが好きなんだよな、オレンジ味のクレープ?」

「えっ」

 冷えた心に、俺のお気に入りのデザートと、好きという言葉がセットでぽこっとぶつかった。とたん、気持ちがふわっと軽くなる。

「俺も好きです。クレープシュゼット」

「あーそれそれ」

 メガネの奥、細められた目じりに笑い皺ができて、この人はこんな風に笑うのかと、新しい発見に目が奪われる。

「それで、どうしたい?」

「はぁ……」

 ひどく優しく訊ねられて、思わずため息が漏れた。

 唐突に自分がゲイだと思い知らされて、お菓子につられて騙される子どもみたいな気持ちがする。

「それ、写真もありますか? 俺が写ったりとか」

「そうだね。安直だけど、アイキと握手する写真とか、そういう感じになるんじゃないかな」

「握手……」

 むうっと口がとんがって、眉間に力が籠っていく。

 歪んでいく俺の顔を見た支配人が噴き出して、ハンドルに伏せった。

「そんなに嫌なんだ!」

「嫌って言うか、やりたいって気持ちになれないんです」

「他の子なら喜ぶのに」

「俺は、凡人なので」

「凡人?」

「俺だけ後ろ姿とかじゃだめですか?」

 必死に食い下がる俺に、不思議そうな顔をしていた支配人が、「いーよ」と頷いた。

「本当に? 近江さんは駄目って言うんじゃ――」

「そこは俺が話をつけるよ」

「出来るんですか?」

 俺が訝ると、車内に笑い声が響いた。

「……すみません。失礼なこと言って」

「いいよ。笑えた。ちゃんと出来るよ。俺はあの人に弱味を握られてないからね」

 多分だけど、と細めた目に見つめられて、俺はようやく頷くことに決めた。

「わかりました。後ろ姿だけなら」

「ありがとう!」

 大人の男に笑顔を向けられ、お礼まで言われると、どうしたって気分がいい。初めから喜んでやるって言えばよかったのに。ほんっとうに面倒くさい俺。

「ね、ここ駐車スペースってある?」

「え? あ、そっちに」

 俺が示すと、動き出した車が歩道に乗り上がって、自宅前の駐車スペースに収まった。エンジンが止まって、支配人がシートベルトを外す。

「店に寄るんですか?」

「そ、君は未成年だから、なにするにも親の許可がいるんだ。えーと、これとこれにサインをもらってー」

 クリアファイルの書類を確認する支配人に、俺の眉間はかつてないほど深い皺を刻んだ。

「本当に俺に断る選択肢ってありました!?」

「あったよ」

「それにしたって準備が良すぎるじゃないですか!! それさっき印刷してたやつですよね!?」

「俺は忙しいのでね、できるだけ一度で済ませたい」

「はぁー!?」 



 支配人の説明を聞いて、両親は案の定、「いいじゃない」と快諾した。

 常に子どもの意志を尊重する二人の教育方針にブレはない。

「なにか不明な点は?」と聞かれてとぼけた顔をした二人を心の中で睨みつけたけど、俺がどれくらい思い切った気持ちでやることにしたのかなんて、この人たちには思いつかない。

 書類にサインを貰った支配人は、さっさとそれを鞄にしまった。俺の気が変わらないようにだろう。

 大人たちは世間話を始め、ほどなくして支配人の前にクレープシュゼットが、俺の前にはプリン・ア・ラモードが置かれた。

 支配人が不思議そうに俺の前に置かれたデザートを見るから、「今は甘いものが食べたい気分なので」と思考を読んで返すと、支配人は「ふうん」と首を揺らした。




「で、アイキに会うのはいつ?」

「28日」

「えっ? すぐじゃん!」

 支配人が帰って自宅に戻ると、兄ちゃんとミツルくんと沢木くんが居た。二日後のパーティーの準備に来たらしい。

 二人は揃って紅白の毛糸を細長いマフラーのように編んでいる。ツリーに巻き付けるらしい。

 相変わらず多彩な才能を見せる二人を俺は兄ちゃんにひっつきながら眺めている。今日のストレスの緩和を図っているのだ。

「口外しないでね」

「りょうかーい」

 ミツルくんの口調は軽かったけど、大人たちに反抗心があった俺は、そんなことで少しだけスッキリした気持ちになった。

「アイドルと記事にねえ。あ、そういや二人って前に雑誌に載ったことあんだっけ」

 沢木くんが言って、俺はギクッと身が締まった。

「え? なんでなんで?」

 ミツルくんが食いついて、背中がぞくぞくする。

 思い出される、かつて自分だけが平凡だと後ろ指をさされた日々。

 そうか、あのことあったから俺はずっと気が乗らなかったんだ。アイドルと一緒になんて、自分の凡人さがますます際立つ。俺はこの期に及んで、まだ何も持たない自分を恥じているんだ。

「あれはー、あんまり良い思い出じゃないんだよなあ」

 身体を伝って兄ちゃんの声が響いてきた。

「……そうなの?」

 見上げると、背中をポンポンと叩かれる。

「色々言われたからな」

「……」

 俺には嫌な思い出だった。でもまさか、兄ちゃんにもそうだったなんて。

「色々って?」

 沢木くんが手元を見ながら問いかける。

「俺のこととか家族のこと。いじられてからかわれた。じいちゃんの作った家具を、あんな高いの誰が買うの? とか言われたりさ。金持ちだと思われて集られたり。両親は道楽で喫茶店やってると思われて……まあこれは大体当たってるけど。とにかく、注目されて煩わしかった」

 俺の額に、ため息を吐いた兄ちゃんの頬が寄り掛かる。

「聡太郎にも迷惑かけたよな。嫌なこと言われてただろ?」

 知ってたんだ。

「色々あるからさ、無理に表に出ることはないからな。ちゃんと働いて、それだけで本当に偉いんだから」

「……うん。大丈夫だよ」



 結局、俺を気遣う兄ちゃんの言葉が一番の後押しになった。

 待望の推しの映画がコケそうになって、きっとファンはやりきれなかっただろう。それでも足繁く劇場へ通い、そしたら特典からアイキばかりが出てきて、きっと凄く嬉しかったに違いない。ありがとうって言われたような気がしたんじゃないかな。アイキの真心だって、信じたくなるくらいに。

 嬉しそうなお客さんを見て、偶然でもいいじゃないかと思った。俺にそんな力は無いけど、そんなのみんな分かってる。そういう体で盛り上がってるだけだ。

 頑張っている人も順風満帆にはいかない。それなら凡人の俺は、ファンの演出の一つになって、アイドルの添え物になって、大人たちの思惑のなにがしかに貢献して、存在を許されようじゃないか。




ミツルくんがタクミくんになっていました。すみません。

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