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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

桜のような人

作者: 水綺はく

 春風が吹いて桜の花びらが一枚一枚、丁寧に地面へと落ちていく。

 校舎に向かう途中の桜並木を無数の女生徒たちがセーラー服を着て歩いていた。その様子を一人で静観しながら歩いていると真鍋美広がはしゃいだ声を上げながら私の側を横切った。

 視線を彼女の笑い声へと辿ると、ボブカットの頭を揺らしながら数名の友達と楽しそうに喋る彼女の笑顔が横を向く度にチラチラと目に映った。

 二回目の高校生活の春。生徒たちはほぼ皆、中学からエスカレーター式でこの女子高へと進学している為、顔馴染みばかりだ。

 私にも友達がいる。美広のように沢山の友達とはしゃぐことはないが、大人しくて、一人になるのが嫌で仕方なしに固まっている友達みたいな存在が数名ほどいる。

 美広みたいに大きな口を開けて、声を上げて笑う友達はいないけれど、そう言った子たちを嫌悪して冷めた目で見ながら、身を潜めているつまらない存在の付属品が僅かにいる。

 でも正直に言うとその子達といるくらいなら一人の方が楽なんじゃないかって思う時がある。

 私は春から美広と同じクラスになった。だけど私達が目を合わせて笑い合うことはもう二度とない。

 たった一回の出来事に固執した私の過ちで私達が心を通じ合わせることはもう二度とないのだ。

 校舎に入って下駄箱に靴を入れていると、すぐ隣で美広も靴を入れて乱暴に蓋を閉めながら側にいる友達と笑い声を上げて離れていく。彼女が私を見ることはない。

 教室内の席は美広が一番前で私が後ろの方だ。これは担任の先生が、うるさくて真面目に授業を受けない生徒を一番前にすると言って美広を前の席に指名した。

 美広は、最悪〜!と声を上げながらも躊躇いなく机と椅子を教卓の前に置いていた。

 私は授業を受けている時、時折、彼女の後ろ姿を見つめている。彼女は集中力がなくて授業中は周りをキョロキョロしたり、窓の景色をボーっと眺めていた。すると私はシャープペンシルの手を止めてその横顔の輪郭を視線でなぞりながら彼女に見惚れるのだった。

 こんなに綺麗で私よりも優れているのに彼女には何が足りなくて穴が空いているのだろう…

 彼女のポッカリと空いた大きな穴をいつか誰かが埋める時が来るのだろうか。

 私も同じように穴が空いている。私はその穴を誰かが埋めてくれるなど期待していない。

 でも本当は期待していた。美広なら穴を埋めてくれると期待していた。

 去年の夏、中間テストを終えて採点結果が返って来た。

 私が書いた答案用紙には無数の赤丸が咲き乱れてどの教科も95,98,99点と90点台が並ぶ。私の友達みたいな子たちは皆んな勉強が出来ないわけではないけれど、私よりも高い点数を持つ子はいなかった。でも誰も私の点数を見て羨んだり褒めたりする子は一人もいなくて、皆んな私の点数をチラチラと見ながら気づいていないふりをするのだった。

 答案用紙を持って家に帰るとテストの時だけ私の帰りを待ち侘びる母が玄関に(そび)え立っていて、扉を開けた私と目が合うと無言で手を差し出す。私はそれに呼応するように鞄から答案用紙を取り出して母に渡した。

 母は常に息苦しい存在で私は家にいるとたまにこのまま窒息死してしまうのではないかと思う時がある。この家にいる時だけ、酸素濃度が低くなっているような感覚になって呼吸をするのがやっとなのだ。

 厳格でいつでも正しい私のお母さん。美広のお母さんは一体、どんな人なのだろう。

 母はリビングで私の答案用紙に目を通すと、まるで自分を納得させるように、まぁまぁね…と小さな声で呟いた。

 母は常に私を通して自分の存在を納得させようとしている。きっと母の中の空間も酸素濃度が低くて息苦しいのだろう。

 私達は小さな核家族で孤独を埋め合うように生きている。幸せはいつになったらもたらされるのだろう。

 母は答案用紙に目を通し終えると役目を終えたようにそれを私に返して夕飯の支度へと取り掛かる。

 私は誰も褒めてくれない答案用紙を持って自分の部屋に戻る。

 カーテンを開けて車が無数に走る道路を眺めると、いつも心の中で呟いている言葉を呟いた。

 (誰かここから出して)

 誰にも届かない声を胸の奥で囁いて息苦しい部屋で無理矢理、呼吸する。私は今日も生きている。


 その翌日、私は放課後ひとりでに残って鞄を片手に学校の最上階に上がった。

 廊下の窓を開けて校庭を見下ろすと遠近法で駒のように小さくなった運動部の生徒たちが走り込みをしていた。

 私は鞄から答案用紙を取り出すとその様子を眺めながら、そっと紙を外に放った。

 点数の書かれたいくつもの紙が風に吹かれて宙を舞っていく。白く揺らめく紙たちは努力した割りには儚くて虚しかった。白い紙たちが校庭の地面に着地したのを見届けると私は何一つ満足感を得ることもなく、下に降りて、靴を履き替えて、落ちた答案用紙を無視して家に帰った。

 帰宅後、一度目を通した答案用紙を母が再び見たがることはなかった。

 息苦しい家でいつものように味のない食事をして浅い眠りに就く。私の生活はいつになったら満たされるのだろう。

 思春期を過ぎたら、こんなに苦しまないで済むのだろうか。

 翌朝、私は眠りから覚めるといつも通り母の作った朝食を食べて家を出た。

 父は仕事が忙しいため朝食も夕飯も一緒に摂ることはない。いつも私が寝ている間に姿を現して消える為、家族なのに存在自体が薄くてボヤッとしている。

 夏の桜並木は緑色で春のような可愛らしい色合いは見せず、暑いのにどこか涼しげだ。

 その道を無数の女生徒たちが同じ制服を着て歩く。

 セーラー服。白地に紺色の襟がついて赤色のリボンがついた学生の象徴。

 みんな同じものを着て同じ方向へと進む。学生らしくて人間社会らしくて私にはちょっと居心地が悪い。

 校舎に入って下駄箱で靴を履き替えている時だった。

 突然、隣から声を掛けられた。

 「はい、これ!」

 声のする方へ顔を向けると美広が私の横に立って笑顔で紙を差し出して来た。

 紙を見るとそれは私が昨日、校舎の最上階で捨てたはずの答案用紙だった。美広はそれを全て拾って回収したのだ。

 きっと自主的に回収したのだろうけれど、なぜそれをしたのか私には分からなかった。

 答案用紙を手元に戻したくなかった私は美広に冷たく、いらない。と返して顔を背けた。

 すると美広は私の答案用紙を鞄に仕舞って新たに別の紙を取り出すと再び私に差し出した。

 「じゃあ、これあげる!」

 美広に言われて再び彼女に顔を向ける。二つ折りにされた紙の束を恐る恐る受け取って中を開けると、それは彼女のテストの答案用紙だった。

 点数はどれも5点、8点、11点、28点…私だったら顔を真っ青にして二度と立ち直れないような点数だった。

 丸くて可愛らしい字で真鍋美広と書かれた名前と彼女を交互に眺める。

 彼女はそんな私を笑顔で見つめていた。

 美広に声を掛けられたのも、真面に目を合わせられたのも、それが初めてのことだった。

 丸い瞳に長いまつ毛、白い肌、笑うと小さな八重歯が顔を出す。彼女はあの日から私の光になった。

 あの日から私は彼女ばかりを目で追うようになった。

 彼女はあの日以来、私と接触することはなくて私達はクラスが二つ離れている為、元通りの喋らない二人のままだった。

 だけどあの日の煌めいた出来事は今でも私の脳裏に昨日の出来事のように残っている。

 彼女のくれた答案用紙は鍵付きの棚に大切に保管して、時折そこを開けて彼女の書いた文字を眺めると不思議と息苦しさを感じないで済んだ。

 真鍋美広は私の大切な尊い存在だった。

 尊くて遠くから大切に愛でなければいけなかったのに、欲が出た。だから私は彼女の救世主になれなかった。


 11月、桜並木は緑とオレンジが混合する紅葉へと色づいていた。

 その日は大粒の雨が降っていて校舎から出た私は帰路につくために水色の傘を差して歩いていた。

 地面には無数の紅葉が雨に濡れて落ちていて、水溜りに浸水していた。それらを何気なしに踏み歩きながらふと顔を上げると、すぐ先で赤い傘を差した美広と思われる背中が見えた。

 彼女の後ろ姿が見えた途端、私は思わず昂って彼女の姿に釘付けになった。

 いつも友達に囲まれている彼女が一人で歩いている姿は珍しく、いつの間にか私は彼女の背中を無意識に追いかけていた。

 私の帰り道とは真逆の方向へと進む彼女を私は追いかける。水溜りを踏んで足元がびちゃびちゃになっても気にも留めないくらい夢中になって追いかけていた。

 どれくらい追いかけただろうか。学校から離れた道路で美広が急に足を止めて片手を上げた。

 思わず私も足を止めて一定の距離を保ったままその様子を眺める。

 すると彼女の前に一台の黒い車が停まってフロントドアガラスが開くと中から知らないおじさんが顔を出した。

 四十代くらいのおじさんは美広を見ると笑顔になって数枚の万札を彼女に差し出した。傘を差したままの彼女がそれを何の躊躇いもなく受け取る。

 その様子を呆然と眺めていると、ふとおじさんが私の方を見て目と目が合った。おじさんの視線を辿るように彼女が後ろを振り向く。

 片手に赤い傘を差して、もう片手に数枚の万札を手にする美広が私を見つめる。

 私は居ても立っても居られなくなって傘を投げ出すと土砂降りの雨の中、走って逃げ出した。すると私の後を赤い傘と万札を投げ出した美広が追いかけて来た。

 私は美広から逃げるように息を切らして走る。高架線を辿るように走ると上から電車の走る音が聞こえて私を追い越した。

 私よりも運動神経が良くて走るのが速い美広があっという間に辿り着いて私の腕を掴んで引っ張る。引き寄せられて振り向くと顔を平手打ちされた。鈍い衝撃が私の頬を伝って鈍痛する。

 突然の衝撃に呆然としながら美広を見ると彼女は雨で綺麗な髪も顔も濡らしながら私を憎むように顔を歪めて見つめていた。

 「何?あんた、いつから私を追いかけてたの?ストーカー⁇まさか、このこと、教師に言うつもりじゃないでしょうね?」

 強い口調で責め立てる美広に私は慌てて首を横に振る。すると美広は取り乱したように私を押しのけて、嘘つかないでよ!と叫んだ。彼女の力強さに私は体勢を崩して地面に倒れる。私の髪や顔も彼女と同じくらいびしょびしょになっているだろう。すでに身体は雨に浸っているに等しいくらいに濡れていたため、地面につくのなんてどうってことなかった。それよりも私は取り乱した彼女を救いたい気持ちで必死だった。必死なのにどうすることも出来ない。

 気持ちだけが必死でなんの言葉も掛けることが出来ない。

 びしょびしょになって立っている美広は顔を歪めたまま私を見下ろしている。

 「私の気持ちなんて何一つ知らないくせに…もう二度と私に関わらないで!」

 美広はそう叫ぶと私から背を向けて足早に歩き出した。

 私は彼女を追いかけようと膝をついて立ちあがろうとしたがそれ以上、体が動かなかった。

 遠のいていく彼女の背中を見つめながら私は必死に手を伸ばす。彼女の背中はどんどんと小さくなっていって私の元へは帰ってこない。伸ばしても伸ばしても届かない光。

 私は無力で弱くて彼女を助けることが出来ない。

 手を伸ばしながら嗚咽する。伸ばした手を地面に落として土砂降りの雨の中、声を上げて泣いた。

 私は彼女に救われたのに私は彼女を救えない。

 どうすることも出来ない。

 涙が雨に混じって地面に落ちる。冷え切った体を冷たい雨粒がお構いなしに濡らし続ける。

 希望だったの。美広は私の希望だったの。

 でも私が希望だと思っていても私が美広の影を照らすことは出来ない。

 私には美広があまりにも遠くて届かない。



 教卓の前に座る美広はつまらなそうに小首を傾げて授業を受けている。

 後ろの席から彼女の柔らかいボブカットの髪を眺めていると、セーラー服の襟に桜の花びらが複数枚ついているのに気がついた。

 彼女が動くと花びらが一枚、はらりと床に落ちる。

 この教室で桜の花びらをつけているのはきっと彼女だけだろう。



今、次の作品のシナリオを制作中でーす!

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― 新着の感想 ―
[良い点]  主人公と美広の複雑な関係と心理が丁寧に描写されておりました。ボタンの掛け違いなのかもしれませんが、いつかまた歩め寄れればいいですね。互いの何かが壊れてしまう前に [気になる点]  特にご…
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