第8話 消えた幻の中年オッさん
次の日、琴音は滑り込みセーフで快速に乗った。
日が経つに連れて、一分でも長く寝たい為に、起きるのが六時七分から八分に、八分が九分と遅くなる。その間、眠い頭の中では、普通ではまかり通らない計算が成り立つのだった。
今日も眠たい目を一生懸命に開いて、マスカラのリタッチをするが、慣れというのは怖いもので、電車が動くのに合わせて、巧妙にブラシを持っている指が揺れに順応している。
その風景に慣れてしまったのか、他の乗客は全然反応を示さない。
回りのほとんどの人は目を瞑って、眉間に皺をよせている朝の通勤ラッシュ客だった。
いつものように赤間駅を過ぎた頃に、メークのリタッチを終えた。
そろそろメッセージをチェックしようと思って、携帯をオンにすると、パミュからのメッセージが入ってきた。
「琴音、イラストの宿題やった?」
「もちろん」
「いま、ギャーン急いで描いとるところ」
「あと何枚描かんといけんの?」
「あと五枚」
「それ、不可能やろ?」
「やるしかないやん。カールの朝礼、うちの分、カバーしとって」
「わかった。頑張れ!」
「マカロン」
パミュとたわしはどちらかが遅刻すると、先生から名前を呼ばれた時に、代わりに返事をして助け合う。
先生たちも朝礼は毎日のことなので、いちいちと一人ひとりの顔を見ながらチェックはしない。
声の質と聞こえた場所で判断しているようだ。幸運にも二人は隣同士の席だった。
思ったよりもパミュはよく遅刻する。
わたしのように遠くから通っていれば理解も出来るが、学校の裏にある学生寮に住んでいた。
たとえ這っても、教室まで五分しかかからない距離だ。朝は十分に八時まではゆっくりと眠れるはずだ。
ここでカールという人物が登場してくるが、説明するのが面倒くさいので次の章で説明しよう。
もう一つは、「マカロン」はパミュがよく使う言葉だ。
色々な場面で使われるが、特に「わからん」という時と、「かわいい」、又は「じゃあね」という時に使う。
わたしはその時の状況によって、意味を判断している。
マカロンという名詞を使う理由は、今でも定かでない。
これも一般的なことだが、ロリータはマカロンが大好きなのは確かだ。多分、フランスのデザートなのと、丸くて色が綺麗なのが一番の理由のようだ。
最後のメッセージを送った時、
「じわっ」とお尻を触られる感覚を感じとった。
「来た来た、ヤバッ!」と思いながら、急いで携帯でパミュに連絡する。
「また、来た!」
「なんが来た?」
「痴漢、今、『じわっ』と触られたみたい」
「『みたい』ってどげんか意味ね?」
「多分」
「もうちょっと、ガバッて掴まれるまで待っとかんね」
「そんな〜?」
「そげんせんと証拠にならんやろ?」
「ガバッと掴まれたら、後ろ振り向いてスケッチブックで、思いっきり叩け!」
「わかった」
「マカロン」
パミュに言われたように待ってみる。
わたしは全神経をお尻に集中させる。
再び一分ほどして、じわじわと手が尻に触る。
実を言えば、触るというよりも添えると言ったほうが正確だ。
リアクションを起こさず辛抱強く待った。
しばらくしてわたしのお尻も手の感触に慣れてしまい、本当に触られているのかわからなくなった。
わたしの惑いを感じたように、おやじの手はもう少し圧力を加えてくる。
「こいつは痴漢だ」
自分の判断に自信を持ち始める。
もう一度、尻を掴む手に力が入れば、振り向こうと決断したが手は容易に動かない。
わたしの決断を知っているのか?
それともお尻の感触を楽しんでいるのか?
我慢強く待つこと、数分が過ぎた。
列車が博多駅に近づいて来た時に、おっさんの手は動いた。
待ってましたと言わんばかりにスケッチブックを掲げて振り向いた。
期待とは裏腹に、そこには恐怖で怯える着物姿のおばあさんと、外の景色を眺めている制服姿の小学生だけがいた。
わたしは狐につままれたように二人を見るが、待っていた中年男の姿はどこにも見当たらない。
「えっ、ちょっと思った場面とは違うけど」と思いながら、あの幻の中年おっさんは、どこかに消え去ってしまった。