第6話 琴音の神業スケジュール
わたしの新しい日々が始まった。
二週間ほど通学していると、分刻みのタイミングでスケジュールを立てれるようになった。
毎朝六時に携帯の目覚ましは鳴るが、直ぐには起きれない。
六時七分に、もう一度目覚ましが鳴るようにセットしている。
二度目の目覚ましの後、眠い目を擦りながら、昨晩用意しておいたアウト・フィットに、三分で着替える。
六時十分には、お母さんが前の晩に作ってくれた味噌汁に火を付ける。汁が熱くなるまでに、冷蔵庫から生卵と漬物を取り出し、炊飯器を開けてご飯をお茶碗につぐ。
六時十五分には、朝食の用意が全て完了して、「いただきます」と手を合わせて食べ始めると同時に、携帯で今朝の天気を確かめる。
何故なら、家から近くの駅までは自転車で通学する。
雨の時は、レインコートと長靴を履くので二分はロスする。
天気の日のように自転車を速く漕げないので、そこでも三分ロスする。
合計五分のロスは果てしなく大きい。
雨の日は、二十分ある朝食時間を十五分に切り上げる。
「一口食べたら、最低三十回はちゃんと噛まんといけんよ。出来れば、五十回噛んだら最高やけどね」
小さい時から、母さんにうるさく言われて育った。
雨の日は、噛む回数を二十五回に減らす。
食べ終わった後、歯磨きに三分。
女の子にとって一番大事な、メークに十分必要だ。
実際、十分で完璧なメークは不可能だが、列車の中で周り構わず、リタッチをするのが普通だ。
JR鹿児島本線の折尾から博多間で、大きな鏡を見ながら、所構わずメークをやり直している、十八歳前後の女の子を見れば、多分わたしである可能性が高い。
次に大切なトイレの時間を五分取ると、家のドアを出るのは六時五十分になる。
朝のトイレの時間はとても大切だ。
特に自転車を漕ぐのに、どうしても腹に力が入ってしまう。
駅に行く途中で、便意が来て引き返せば百パーセント遅刻する。
途中にコンビニが一つあるが、そこにはトイレがない。
どうにか折尾駅まで着けたとしても、多くの人が出勤する時間帯なので、トイレが空いている可能性は非常に低い。
わたしはトイレに座ると、最初にトイレットペーパーのロールから、三枚切り出して四つに折る。
なぜならば、四枚切るよりも二十五パーセントの紙を節減できるからだ。
二十五パーセントの努力で、アマゾンの熱帯雨林の伐採を軽減出来ると、小さいころ何かの本で読んだ。
日本のトイレットペーパーが、アマゾンで伐採された木で作られているのは、ほとんど不可能だと思いながらも、毎日続けている習慣になってしまった。
六時五十分に家のドアを閉めて、自転車を小屋から出すのに二分。
ペダルを漕ぎ始めて、折尾駅までは十五分かかるので、七時七分に駅前の自転車置き場に入る。
鍵をかけるのに一分。
北口の改札口まで急いで二分。
三番プラットホームまで駆け上がるのに二分。
快速荒尾行きが到着する二分前に、五番車両の黄色い線の前に到着する。
これがこの二週間で身につけた、わたしの神業スケジュールだった。
今日も七時十四分の快速荒尾行きに乗った。
いつもよりも乗客が多く感じたのは、気の性だろうか?
どちらにしても、折尾は北九州から乗る最後の駅なので、ほとんど博多駅までの五十三分間は立ちっぱなしだ。
いつものようにメークのリタッチを終わらせた頃、赤間駅から乗客は多くなった。博多駅に近くなればなるほど、乗客は増えていく一方だ。
パミュから入学式の時に、「ヤンキーだ」と言われてからは、なるべくスエットパンツの代わりに、スカートを履くように心がけている。
普通は身なりを気にしないわたしだったが、あの言葉はかなりショックだった。
今日は、上は赤のスカジャンだが、下は黒のスリムのペンシルスカートを履いている。
左手で手すりを掴んで、右手で携帯のメッセージをチェックしていると、
「ジワーッ」と誰かにお尻を触られた気がした。
今日はいつもよりも乗客が多いので、誰かのカバンが当たったのだろうと、後ろを振り向かずに携帯に目を戻した。
忘れてしまった頃に、また誰かから
「ジワーッ」とお尻を触られた。
「あれっ」と呟いて、後ろを見回すが、それらしき卑猥そうなおっさんは誰もいない。
「なんだったんだろう?」と思ったが、痴漢というほどではなかった。
「まあ、気の所為か?」と思い直して、そろそろ降りる用意を始めた。
列車は数分後に博多駅に到着した。
ドアがまだ開かないうちから、乗客は待ちきれずに後ろから押してくる。
ドアが開いたすぐさま、乗客は車両から出ようと急ぐ。
わたしが一歩足をプラットホームに乗り出した時、誰かから尻を鷲掴みされた。
「キャッ!」と悲鳴をあげたが、みんなから押されて後ろを振り向く余裕もない。
ホームの真ん中に立ち止まって、あたりを見回すが、誰が痴漢なのか解るはずもない。
乗客たちは叫び声にも反応せずに、中央改札口の方向に雪崩のように下りていった。
痴漢にあったのは、これが生まれて初めてだった。