第1話 ジュマペル琴音
「私はパリのラデュレの本店で、ピスタシオ味のマカロンを死ぬほど食べたいです」
十八歳になったばかりのわたし、桜琴音は自信を持って言い切った。
「それと、この学校に来たい理由が、どこに関係あるの?」
福岡ファッション専門学校の坂本校長の真っ赤なメガネの向こうに見える目は困惑を隠せない。
「疑問、疑問、この子何考えてるの? もしかしてバカ?」という眼つきをしている。
「ラデュレのマカロンはメッチャたかいから、ちゃんと仕事をしてないと無理でしょう」
「わかった! 桜さんは、パリのメゾンで仕事をしたいのね! そんな大きな夢を持って、この学校に来ようと思ったのね。そんな生徒は、うちでは大歓迎です」
坂本校長は嬉しそうな顔をわたしに向ける。
「じゃあ、どのメゾンが好きなの?」
校長は続ける。
「メゾン?」
わたしは何の話か全くわからない。
坂本先生はわたしの答えが聞きたそうに耳を立てて待っている。
「メゾンと言われても、色々とありますから……」
曖昧に答えた。
「確かに沢山あるわよね。それを決めるには、この学校でちゃんと勉強してからでも遅くないわね」
「そうですよね……」
面接は終わった。
知らないうちに先生たちの間では、
「桜琴音はパリのメゾンで仕事をしたい」という話になってしまった。
「メゾンって一体なんだろう?」
わたしは帰りの電車の中で思い続ける。
家に帰って、まずは母さんに聞いた。
「かあちゃん、今日、専門学校に面接に行ったらね、『桜さんはパリのメゾンで働きたいのね』って言われたけど、『メゾン』って何んね?」
「メゾン?」
母さんは少し考えていたが、全くわかっていない。
「オゾンは聞いた事あるけど、メゾンはないなあ。オゾンは北極の上にある何んかやろ?」
「うち英語は苦手やから、父さんに聞いてみ?」
かあさんはテレビの方に顔を戻した。
父さんに聞いても、「わかるはずない」と思いながら、新聞を読んでいる父さんに聞いた。
「とおちゃん、メゾンってどういう意味?」
「メゾンか?」
父さんはあまり興味が無さそうに答えた。
「やっぱりダメだ」と思いながら、期待せずに父さんの返事を待つ。
「メゾンはフランス語で『家』という意味」
父さんから返事がしっかりと返ってきた。
「何でフランス語知っとうと?」
わたしの開いた口が塞がらない。
「マドモアゼル、ボンソワール、ジュマペル玉男。コマタレヴ?」
父さんはわたしを見る。
「凄い、父ちゃん!」「なんでフランス語喋れるん?」
「昔、大学でフランス文学部に入っとったけん」
「鉄工所の親父がフランス文学部?」
どう考えてもわたしの頭の中では、鉄工所とフランス文学が結びつかない。
父ちゃんがベレー帽を被って、シルクのスカーフを首に巻いて、モンマルトルの丘の上で、クロワッサンを食べているのを想像する。
「無理! 絶対ありえない!」
首を大きく横に振る。
「父ちゃんは北九州の町工場の横で、焼きうどん食べとった方が絶対に似合う」と思った。
父さんの隠された過去を垣間見た驚きは、長い間わたしの胸の奥に残った。
もし父さんの説明が正しければ、坂本校長の質問は、「どの家が好きなの?」になる。
まだパリに行った経験のないわたしには、「どの家」と言われても選びようがない。
「坂本校長も、変な質問をする人だ」と思いながら、メゾンの話は次の日には忘れてしまった。
後でわかったことだが、正確に言うとファッションでメゾンとはブラントのことを指す。
「どのブランドで働きたいの?」と坂本校長は尋ねていただけだった。
わたしは福岡から五十キロほど東に行った、北九州で生まれ育った。
北九州は野暮ったい街で、福岡は洗練された都会だとよく言われる。
その理由は各々の歴史の違いにあるようだ。福岡は商業都市として、中国や韓国などの外国貿易で栄えた街だ。
北九州は明治時代から八幡製鉄所を中心として、工業で栄えた街だ。
今では鉄の産業も廃れ、人口は九十六万人に減っているが、福岡は九州全域から人口の流入が激しく、百五十万都市に膨れ上がっている。
「北九州の不幸は、福岡という美人の姉さんを持ったブスの妹だ」
わたしはいつもそう思っている。
器量の悪さを、愛嬌の良さでカバーしているつもりだ。
男にとって、いくら美人でも、長い間一緒にいると飽きてしまうが、ブスでも愛嬌があれば、知らず知らずと綺麗に見えてくるものだと願っている。
北九州は九十六万都市、全国で言えば十三番目に大きな市だが、知名度がすこぶる低い。
以前、わたしが東京に住むおばさんの家に遊びに行った時だった。
おばさんの友達と話していると、どこから来たのか聞かれた。
「北九州です」と答えると、
「???」のマークがおばさんの顔に浮かび上がり、
「それ、九州の北?」という質問が戻ってきた。
「バカ、九州の北は山口やろ!」と言いたいのをこらえて、
「福岡の東です」と答えた。
「福岡は良い街よね! 素敵な所ね!」と返事が戻ってきた。
一度ではなく、何度かそういう機会があったのは事実だ。
北九州を知っている人に会うと、ホッとするが、次に出てくる言葉が頭にくる。
「あんな危ない所に、よく住めるね」と度々返事が返ってきた。
実際、生まれてこのかた、危ない目にあった経験は一度もない。
わたしには理解できないが、外部の人は北九州では、至る所でヤクザが銃を撃ち合っていて、殺人事件が毎日のように起こっている、と思っている人が多いようだ。
「大丈夫ですよ、わたし、いつも防弾ベスト着てますから」
最近こう答えることにして、相手の口の塞がらない反応を楽しんでいる馬鹿なわたしだ。
みんなは北九州が、中東のシリアにでもあると思っているのだろうか?
この平和な日本で、そんなことは絶対に有るはずがない。
色々とボロクソに言われても自分の生まれた北九州が大好きだ。
日本全国から誤解されているこの街で、わたしは生まれ育った。