春の息吹
「麻耶。留学どうすんの?」
「私はやっぱりオーストリアかな。裕子は?」
「私はフランス。ずっと行きたかったんだ。」
「旅行じゃないんよ……」
「麻耶ってば。分かってるって。」
笑いながらそう言う裕子の目は、初めて目にするものにワクワクしている少年のようだった。
私は、音大ピアノコース二年生の名取麻耶。私たちの学校では、三年生にあたる学年で一年間海外に留学する。これは、ピアノコースだけじゃなくて全部のコース統一らしい。
ピアノコースの人は、ピアノがヨーロッパで盛んに作られていたことや、偉大なピアノ曲の作曲家たちがヨーロッパ出身であることもあって、その方面に留学する人が多い。
「そういや、悠太くんはどうするって?」
「聞いてない。最近忙しいみたいで、全然連絡取ってないんだ。」
「そっか。でも、ギターコースだったらヨーロッパかアメリカじゃない?」
「だよね……」
「もーそんな顔しない!」
そう言いながら、裕子は私の頬を横に伸ばす。
何だか、笑えなかった。
悠太は私の彼氏で、付き合って二年になる。同い年で同じ音大のギターコースに居るので、彼も留学になる。
悠太には自由奔放な所があるので、今何をしているのか検討もつかない。
留学のことは、二年になってから知った。遠距離恋愛になることに、戸惑いがなかった訳ではない。でも、もしかしたら同じ地域に留学するかもしれない、きっと大丈夫。
そう思って今日まで過ごしていた。
二月十六日、今日は留学の締め切りの日。
私は予定通り、音楽の都と呼ばれるオーストリアのウィーンに留学する書類を提出した。
一人暮らしのアパートに帰ろうとバスを待っている時、携帯が着信を知らせてくれた。画面に目をやると、悠太からの電話だった。
「麻耶。今どこ?」
「バス停に居るよ。」
「駅前のカフェに来て。話したいことがある。」
言われるがまま、カフェに向かう。途中、乗るはずだったバスとすれ違う。
話ってなんだろう。留学のことかな。そんなことを考えながら、十五分ほど歩いた。
「お待たせ。」
向かいに座っている悠太は、疲れた顔をしていた。やはり忙しかったのだろうと思う。
「今日、新幹線で実家から帰ってきた。」
「え? どういうこと?」
「俺、留学はしない。親にそう言ってきた。」
「ちょっと待って。それじゃ……三年はどうなるの? 留年?」
「そうなるのかな。どっちにしろ、大学はもう行かない。辞めるんだ。」
頭が混乱してくる。悠太が何を言ってるのか分からない。悠太は高校時代ずっと音楽が好きだったし、この音大に入るのを夢見ていたのだ。
そんな悠太があっさり辞めるなんて言い出すから、すぐにその言葉を飲み込むことは出来なかった。
「悠太。何言ってるの。」
「お前もそう言うのか。俺はもう、決めたんだ。お袋や親父にも、同じことを言われたよ。誰がお金出してると思ってんだって。」
悠太は、今まで見たことが無いほど真剣な眼差しで私を見つめる。
「でもな。一秒でも早く実戦に出たいんだ。試したいんだよ。こんなところや留学先で、無駄に時間を浪費したくはないんだ。」
うろたえるしかなかった。
自由奔放、そのものだとは分かっていた。だけど、ここまで本気な悠太を止める権利なんかないのだと思う。
「じゃあ……遠距離だね。」
深呼吸するみたいに、大きく深く、ゆっくり発した言葉は、二人の間の空気にさらに重力をかけた。
「まあな。でも俺は、麻耶が向こうで男を作っても、いいけどな。」
「何言ってるの。本気?」
「ああ、どうせ俺は俺でやりたいことがある。距離は離れるわ、時間は合わないわ、忙しいわ。足引っ張り合うよりかはいいだろ。」
「……いや…だ……」
言葉につまりながら、自分のバックをひったくるようにしてカフェを出た。
陽が沈んでいたのは幸運なことだ。止まらない涙が、闇に溶けていく。
誰とも顔を合わせないように、アパートまでの道のりを歩いて帰った。果てしなく遠く、ゴールの見えない道のりのように感じた。
それから一ヵ月半。ピアノにのめりこんだ。取り憑かれたように弾きまくった。久しぶりに作曲もした。タイトルは、"Love is Sweet Poison"(恋は甘い毒)。
そして、悠太と話すこともなく日本を出る日になった。
悠太の連絡先は消した。それに、一年も向こうに居るのだから思い切って携帯を解約することにした。
大丈夫。大丈夫。私は私の道を歩く。
悠太は悠太の道を歩けばいい。
桜に見送られながら、オーストリアでの生活に期待を込める。
長いフライトの末、オーストリアの地に降り立った。
ウィーン国際空港を出た扉の先で、春の風を感じる。
そうだ、しばらく時間がある。パンフレットに載っているような山岳地帯を訪れてみるのもいい。
思い立ったらすぐ行動。
「ひゃっほー!」
緑のあふれる素敵な山岳地帯。目の前に広がるのどかな風景は、私の心を洗い流してくれる。
「昔の作曲家たちは、こんな素敵な風景を見て曲を作ったんだろうな。いいなぁ……」
物思いにふけっていると、突拍子もなくド田舎に来てしまった自分が恥ずかしくなる。悠太と同じだ。
「あれ……」
また泣いている。もう泣かないって決めたのに。もう忘れたのに。
まだ私の中に生きている悠太が、時々芽を出す。この瞬間、たまらなく自分が嫌いになる。
「行動。行動。こうど……」
声がかすれて、上手く言葉にならない。
立ち止まってばかりでは、前に進めない。だから、行動するしかない。そう言い聞かせてやってきたのだ。
陽が暮れるまで、見渡す限り人影のない緑だけのこの場所で泣き続けた。止まらなかった。
「大丈夫ですか?」
「えっ……」
誰かに話しかけられたことも、そして日本語で話しかけられたことにも驚いた。
「はい、これ。」
その青年と思しき人は、ハンカチを差し出す。
「ありがとう……ございます。」
「今日もう遅いよ? 泊まるとこは?」
「留学に来て。ホテルあるんですけど、もう交通手段とかないですかね……」
「そうだね。無理かも。……うち来る? ばあさん居るし、何とかなると思うから」
「そんな。見ず知らずの人を……」
「ああ、ごめん。怖いよね、急にこんなこと言われて。」
「いや、そういう訳では……」
「放っておけないんだよね。しかも、こんなド田舎だし。」
「じゃあ……」
「決まり! おいで」
そういって、その青年は私に手を差し出してくれた。
手を重ねて、立ち上がる。
オーストリアのお家は、まるで教会のように感じた。
その青年はオーストリアと日本のハーフで、休暇を利用しておばあさまのお家にホームステイしているらしい。
二年前におじいさまを亡くし、ずっと一人暮らしのおばあさまのことを気にかけているようだ。
それだけで何だかとても、温かく感じた。フライトの疲れもあって、すぐに寝てしまった。
朝起きると、朝食のいい匂いがした。
「麻耶。ご飯食べよう。」
「はい。」
朝食を食べた後、青年と外に出る。
「うーん。」
背伸びをしながら、新しい空気を全身に取り込む。
春の風が心地いい。
きっとここなら、上手くやっていける。大丈夫。
荷物をまとめて、都市部に行こう。待ち焦がれた留学なのだから。
家に入ろうとした時、隣にいた青年に呼び止められた。
「麻耶。もうちょっとここに居ないか。」
突然の提案に、私は驚きを隠せない。
「え、どうして?」
「もっと麻耶のことを知りたい。昨日のこととか。僕が麻耶のことを笑顔にしてあげたいって思った。」
「また、来るね。」
笑顔でそう言うしかなかった。留学は留学だから。
青年がエーデルワイスの芽が出たことに気付いたのは、麻耶が出て行った後だった。




