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4か月ぶりの自由

 水島駅で僕がすみれと別れた後、図書館に30分ほど滞在してから帰っていたことを、すみれはもう知っていた。僕にとってはたまたま、大学へと向かう国道の途中に区立図書館があるというだけであり、僕の足がそれ以上大学に近づいたことは、この4月から1度もない。


「でも、お兄さんがどんな本を読んでいるのかまでは、私は知りません」

 僕を観察していたことを明かしたあと、すみれはそう締めくくった。それが明らかに「教えてください」という意味だったから、僕はかばんから本を3冊取り出した。どれもハードカバー。大きな文字と色鉛筆で描いたような表紙絵。

「とっても……、意外なチョイスです」

 僕が卓袱台(ちゃぶだい)サイズのテーブルに並べた児童書を見て、すみれは珍しく目を丸くした。

「そのうち2冊は、私も読んだことがありますよ」

「定番のものばかり、読んでるからね」

 対象年齢は、小学校4~6年生。僕と同世代であれば、タイトルを知っている人は多いだろう。事実、僕はここにある児童書のすべてを、小学校のときに一度読んだことがあった。

「お兄さんは、児童書が好きなんですね」

「……そう、かな」

「懐かしいです。読んでもいいですか?」

 

 その日から、すみれは僕の家に通うようになり、僕は朝の地下鉄に乗らなくなった。

 朝食と軽い掃除をして、すみれがチャイムを鳴らすのを待つ。僕はいつもカーテンを閉め切って生活していたけど、すみれは日光のない部屋を嫌がった。だから彼女が来る前にもう、僕はカーテンを開ける。

 僕とすみれは毎日、陽の当たる部屋で一緒に児童書を読むようになった。文字が大きくて、内容も優しい。人間の汚点を隠して書かれた、無駄な官能描写もない、そして、必ずハッピーエンドで終わる、子供に夢を見せるための本を。

 夕方、すみれが制服で外を歩いても不自然じゃない時間になると、僕とすみれは地下鉄に乗って、図書館で本を返し、また借りた。すみれの希望が2冊。僕の希望が1冊。1日合計3冊を、僕たちは読む。

 僕はそれまで、自分が過去に聞いたことのある本しか選んでいなかったけど、すみれが選ぶようになって、少しジャンルが広がった。児童書とはいえ、女の子と男の子では、やっぱり趣味は違った。

 図書館からの帰りの電車で、僕たちは別れる。僕が先に降り、すみれは数駅先まで乗り続ける。


 僕は、すみれに保健室登校の理由も、歩けない理由も聞かなかったし、僕が大学に通っていない理由をすみれは僕に聞かなかった。想像できるというわけではない。ただ、聞かれたくないし言いたくない気持ちだけを、お互いが共有していた。僕たちは僕たちについての会話をほとんどせず、話題の中心は児童書とテレビだった。


 あれから1か月弱、7月も中旬に入り、せみがまばらに鳴きはじめ、扇風機の音と混じる季節になった。朝、すみれの額には前髪が数本張り付いていて、玄関で迎えるときのシャンプーのにおいに汗が混ざった。松葉杖で初めての夏は、彼女にとってハードそうだ。


 はじめのうち、すみれは近くのスーパーで弁当を買って昼食にしていたけれど、いつしか一緒に料理を作るようになった。カップラーメンとレトルトパスタを主食にしていた僕は、フライパンを使うのも数か月ぶりだった。でもこの数週間で、僕とすみれはカレーライスをマスターしつつある。

 すみれはキッチンでの作業に不利だから、テーブルで野菜を切る。僕はその間に鶏肉を炒め、コンロ周りの準備をした。すみれが切ってくれた野菜を炒め、玉ねぎが透けたら水を入れて煮込む。僕がコンロを使っている間に、すみれは食器を拭いてくれる。その役割分担も、僕たちの間で当たり前になった。

「お兄さん」

 今日もおいしくできたカレーを一口食べてから、すみれはスプーンを持ったまま、言った。

「なに?」


「結婚しそうですね。私たち」


 そのとき、僕は口の中にまだカレーが残っていて、けれど、飲み込むことも、もちろん吐き出すこともできなくなった。顔を通っている神経のすべてが目に集中して、すみれの表情を見つめることに全力だった。そんな言葉を口にしてなお、すみれの表情はいつも通りだった。

「いえ、なんというか」

 すみれは言葉を選ぶとき、斜め上を向く。

 その時間が、いつもより長い。

「私は、お兄さんのことが、好き、ではないです。ラブな意味では。けど、そんなことは関係なく。……これは、私の感情とは別のところにある、ただの予感ですけど」

 すみれの言葉に筋道がないのは、珍しい。

「ただ単に、結婚しそうだな、私たち。と、そう思ったのです。いえ、これ、言ったの失敗でしたね。忘れてください。思わず口に出ちゃいました。」

 僕はやっとの思いで、口の中のものを飲み込んだ。

「僕は――」

「忘れてください。私にとって……」

「――」

 僕は、すみれが好きだよと、そう言うタイミングは今だと思った。でも、どうやらすみれは、僕がそう言うことさえ嫌がって、僕の言葉を遮ったのだろう。僕はすみれの次の言葉を待ったけど、すみれはそのあと何も言わず、言いかけた僕の言葉は喉の奥からまた心の中に戻っていった。

 すみれの「私にとって」という言葉に、本来どんな言葉が続いていたのか、僕は数日気になっていたけれど、それも、時間の流れとともに薄ぼけていった。


 そして、夏の本番になった。

 不登校の僕たちにとって、高校が夏休みになろうと、大学が夏休みになろうと、何も変わらないはずだった。でも、僕たちには大きな変化が訪れる。それは8月1日に、目に見える形となってすみれに現れた。


「お兄さん! 見てください!」

 僕がカレーを炒めていたとき、すみれが引き戸を開けてキッチンの方に来た。僕はそのすみれに違和感を覚える。その正体はすぐにわかった。

「治りました! 私!」

 すみれの腕に松葉杖はなく、彼女はまるで昨日までもそうだったように、2本の足でそこに立っていた。


二人が読んでいる児童書ですが、『ハリー・ポッター』や『ダレン・シャン』未満のものです。『かいけつゾロリ』~『ズッコケ三人組』くらいだと考えていただければと思います。

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