10分間で2回の笑顔、2回の嘘
「この足での尾行が結構大変なこと、わかってくださいね」
僕はアパートの1階に住んでいる。101号室。僕に2通の郵便物を渡しながら、すみれはそう言った。僕の住所を知っている理由と、学校を休んでいる理由を、同時に説明する一言だった。僕の名前を知っていたのは、この郵便物を見たからだろう。
「今日、それをバラしたのはなぜ?」
「高校に向かう振りをして、コンビニの中からお兄さんを伺っていましたから。今日も」
「……納得」
つまり、僕と八坂さんが話すのを、すみれは見ていたのだ。
「いつ、このチャイムを鳴らそうか迷っていましたが」
すみれは松葉杖に脇を預け、101号室のインターホンを指した。
「さくらちゃんが、いいきっかけを作ってくれました」
八坂さんが僕と話す内容など、すみれの欠席以外にない。声が聞こえなかったとしても、僕と八坂さんの様子を見れば、会話の内容は察しがついただろう。
「そもそも、僕を尾行しようとしたのは?」
僕はすみれに好意さえ抱いていた。そんな僕でも、駅から立ち去る振りをして、すみれを尾行しようと考えたことはない。
「私の知る限り大学というのは、毎朝決まった時間に行く場所ではありません」
いつものすみれの、涼しげで感情が読み取れない表情だ。けれど、
「では、お兄さんはなぜ、毎朝決まった時間に電車に乗るのでしょうか。そんな好奇心が働いたわけです」
すみれはそう言って、珍しく微笑みを見せた。
その微笑みにあてられてしまった僕は、すみれの言う「好奇心」が、見ず知らずの男子大学生を尾行する理由として弱すぎることに、ずっと後になるまで気づかなかった。
後になって考えてみれば、僕を煙に巻くことまで計算した微笑みだったかもしれない。
「ところでお兄さん。松葉杖の女の子を、ずっと立たせたままお話しするつもりですか?」
「松葉杖の女の子が、男の部屋に入ろうとするつもり?」
「お兄さんは、私に何もしない約束ですからね」
すみれの返答を聞いて、僕は諦めてドアに鍵を差し込んだ。
「でも、約束はしてない気がするな」
「では、今約束しましょう」
すみれの足は、まったく動かないというわけでもないらしい。僕が先に入って見ていると、すみれは松葉杖に体重を預けて膝を少し曲げ、かかとを使って器用に靴を脱いだ。
「聞いたことがなかったけど、どっちの足を怪我してるんだ?」
靴はよく見る黒いローファーだ。学校指定のものだろう。どちらの足も、黒いタイツをはいているが、不自然に太くなっている様子はない。軽くテーピングくらいはしているかもしれないが。
膝の方も、タイツが地肌を隠してスカートまで続いていて、やはり包帯は見えない。もし松葉杖がなかったら、彼女が足を怪我しているとは思わないくらい、その見た目は健康的だった。どちらを怪我しているのかも不明だ。
「お兄さん、これでフローリングが少し傷ついてしまうかもしれません。どうしましょう」
僕の質問には答えず、すみれは松葉杖を指でトントンと叩いてそう言った。
「いいよ、そのまま入れば」
「感謝します」
玄関を入ってすぐ右手にコンロとシンク、左手にトイレとバスルームへ続く扉があり、正面に少し進んで引き戸を開けると、僕が寝起きしている部屋になる。すみれはコッ、コッ、と、松葉杖の独特の音とともに、ゆっくりと僕に着いて入ってきた。
「綺麗ですね」
すみれの第一声はそれだった。
「何もないと言った方が、正しい」
「散らかっているよりは私の好みです。お兄さん、失礼なのはわかっていますが、ベッドに座らせていただいてもいいですか?」
「いいよ。気にしない」
「ありがとうございます」
すみれはベッドの縁まで行き、限界まで腰を下ろしてから、最後に一瞬だけ両足に全体重を乗せ、ポスっと音を立ててベッドに腰かけた。
「どっちの足を怪我しているか、というお話でしたね。お兄さん」
この部屋に唯一の座椅子に腰を下ろした僕を見て、すみれは今更言った。
「ん、ああ、うん」
すみれはベッド、僕は座椅子なので、僕が見上げる形になる。
「端的に言うと、両方です」
「あ、そうなの?」
僕は思わず、すみれの足に視線を落とした。しかし改めて見ても、すみれの足に包帯の気配は感じない。
「そして、怪我ではありません。だから、包帯もしていません」
「え?」
「ただ単に、使えないのです。体重をかけても痛くはありませんが、自分の意志では、膝から先が軽く動かせる程度。でも、足だけで体重を支えることは、到底無理ですね」
「……なぜ?」
それは反射的に口から出た言葉だった。もしかしたら、彼女に対して無遠慮な質問だったかもしれない。言ってしまってから僕は後悔したが、彼女は笑顔を見せて、こう言った。
「生まれつきです」
さすがの僕にも、それが嘘だということはわかった。