1週間と3日の自己紹介
その内容はともかくとして、こうして僕は彼女と初めて言葉を交わし、数秒間の笑顔に触れることになった。それだけで、僕は彼女との距離がとても縮まったように感じた。恋愛対象として意識するようになった、とまで言ってもいい。その日の彼女との会話は、僕にとってそれほど大きな意味があった。
翌日、彼女の命令に従うという口実も得た僕は、内心嬉々として、でも外面はいつも通りを装って、水島駅のエレベータに並んだ。いつも通りの風景だ。すぐに彼女が近づいてきた。
「名前、聞いてもいい?」
エレベータに乗って彼女が僕を見上げたとき、僕は彼女と目を合わせて、小声でそう聞いた。昨日、家に帰ってからずっと気になっていたことだ。想像の中で彼女を呼ぶとき、名前を知らないのは虚しい。しかし、彼女は澄ました表情のままこう言った。
「聞いてはだめです」
「は?」
「昨日お伝えした通り、私にとってのお兄さんの価値は『何もしないこと』にあります。ですから、お兄さんは私に名前を聞いてはいけません」
「……」
恥ずかしさとショックが同時に襲ってきて、僕は首の付け根あたりがどうしようもなく熱くなった。自分の顔が赤くなっているのか、青くなっているのかもわからないまま、僕は何も言えずに彼女から目を逸らした。けれど、すぐに。
「すみれです。白峰すみれ」
彼女はいつもの表情のまま、続けた。
「お兄さんは私に何もしてはいけませんが、私が自己紹介するのは、自由ですからね」
それから1週間あまり、僕とすみれはこんな調子で、会話とは言えない会話を交わす毎朝を送った。とはいえ、すみれが僕の質問に答えてくれることは稀だった。僕が彼女から聞き出せたのは、白峰すみれというフルネームと、現在高校2年生であること、スミレの花はそう好きではないこと、毎朝シャワーを欠かしていないこと、一人っ子であること、それくらいだった。
そして、すみれは僕の情報を一切聞こうとしなかった。一度自分から名乗ろうとしたのだが、珍しく彼女が必死で僕を制した。それが、すみれなりの距離感なのだと考えると、少し悲しい。
とはいえ、僕とすみれはエレベータを降りるまでの仲ではなく、駅を出るまでの仲になった。僕はすみれの松葉杖の速度に合わせて歩を緩め、すみれに先に改札を通らせるのが日課になった。そして、駅の出口ですみれは右に、僕は左に曲がる。とくに挨拶もなく、僕たちは毎朝出会い、別れる。
6月も下旬に入り、梅雨の湿気と夏の前触れが背中を汗ばませる時期になった頃のことだ。僕がいつものようにすみれと別れ、籍を置く大学への道を歩き始めたとき。
「あの」
後ろから声をかけられた。すみれではない声だ。
振り返ると、すみれと同じ制服を着た女の子が、学生カバンを両手で持って立っていた。彼女は僕の顔を直視したとき、なぜか目を丸くし、驚いた表情を見せた。しかし、僕はその学生カバンが気になった。無性に、気になった。
「あなたは、すみれの知り合いなんですか?」
「知り合い……うん、まぁ。そうかな」
女の子のカバンに意識を奪われながら、僕は上の空で答える。すみれの制服姿と彼女を比べてみる。すみれは両手で松葉杖をついている。改札を通る定期はいつも胸ポケットの中だ。そして、すみれは目の前の女の子と違い、学生カバンを持っていない。そのことに、今気づいた。
「あの、すみれは最近、どうして学校を休んでいるんでしょうか?」
女の子は必死の目で訴えかけて、僕にそう聞いた。