1分20秒に1回の命令
「お兄さん。その足、怪我なんかしてないでしょう」
彼女が僕にそう言ったのは、エレベータから降りてすぐのことだった。いつものように彼女を追い抜こうとしたそのときだ。僕は、何の言葉も準備せずに振り向き、彼女と視線を合わせてしまった。抑え込めなかった狼狽が口から洩れて、その指摘が図星ということだけを伝えてしまった。
「えっ……いや…………」
そんなことはないけど、と続けようとしたが、口ごもるだけになってしまう。
「もしそうならば、なぜエレベータを使うのですか? 毎日、いつも」
「エスカレータに並ぶのが、嫌いで」
ひねり出した言い訳だったが、無理があるのが自分でもわかる。それは彼女にも伝わり、僕の後ろめたい本音の存在さえ悟らせてしまうだろう。
「なるほど、納得しました。そのお気持ちはわかります、すごく」
「え?」
「でも、エレベータを使うのはみんなの自由です。わざわざ足を引きずる演技などしなくても、誰も咎めたりはしないと思いますよ。それでは」
彼女は澄ました表情のままそう言って、僕を見上げるのをやめた。松葉杖を握り直し、改札へと進み始める。どう追及されるかとビクついていた僕は、突然の解放に呆然とした。とても、いつものように彼女を追い抜いていくことなどできなかった。
彼女の背中が見えなくなってから5分して、ようやく僕は歩き出し、改札を抜けた。
明日からはもう、エレベータは使えないな。少しだけ香るシャンプーの匂いと、1分足らずの(たぶん、敵意のある)上目遣いという毎朝の楽しみが、無くなってしまった。それなら、この駅に来る意味もない。僕は肩を落として、駅を出てすぐのコンビニに入ろうとした、そのとき。
「お兄さん」
さっきと同じ声で、不意に呼ばれた。気づかなかったが、すぐそこに彼女が立っている。
「言い忘れたわけではないのですが、念のため。お兄さんは、明日からもエレベータを使っていいと思います」
「……そのつもりだけど」
プライドが、心にもないことを僕に言わせた。
「使ってください。私が、そうして欲しいのです」
のべつ幕なく、淡々と彼女は言葉を続ける。表情は終始変わらない。無表情ではないが、笑顔でもない。
「あ。いえ、そういう意味ではなく」
そこで、彼女は少し声のトーンを落とした。
「お兄さんがエレベータを使わなくなったら、残りはおじさんが2人と、おじいさんが1人。いつ、何をされてもおかしくない室内になってしまいます」
「僕も男だけど」
あまりにも気を置かず話す彼女につられて、そう言った。
「いえ、お兄さんは、……そうですね。私が睨んでさえいれば、何もしなさそうです。きっと」
「……」
「そして、その何もしないお兄さんが、おじさん達との壁になってくれることで、私の安全も保障されるでしょう。ですから」
松葉杖の横木に脇を預けて、彼女は髪を触る。
「1分弱、私の髪の匂いを楽しむことだけは、許してあげます。交換条件ですね」
そこで、彼女は初めて表情を崩し、惹かれるほど恐ろしい笑顔を見せた。