記憶
雪の中を、彼女は何かから逃げていた。
どこに逃げればいいか分からない。ただ、追いつかれるのが怖かった。
闇雲に走っていると足を踏み外す感覚があった。
そして意識が暗転し……。
(ここはどこ?)
目を覚ました彼女は困惑した。
知らない部屋にいる。
いや、よく知っている部屋のような気もするが、思い出せない。
ぼんやりと辺りを見回していると、ふいに声をかけられた。
「リィ!」
声のした方を向くと、男が一人立っていた。
男は、彼女の所まで来ると、そっと手を伸ばした。
その手が触れようとした時、彼女がビクッとしたので男は手を引っ込めた。
「僕が怖い?」
彼女はその言葉を心に問い掛けた。
自分はこの男のことが怖いのだろうか?
そう思い、男の顔を見て愕然とした。
(この人は誰だった?)
思い出せない。よく知っている人のはずなのに、彼が誰だか分からない。
そして気付く。
(私は……誰?)
彼は彼女を“リィ”と呼んだ。それが自分のことなのは分かっているのに、自分の名前が思い出せない。
それだけではない。
自分のことも、男のことも、その他の何もかもが思い出せない。
そのことに気付いて血の気が引いた。
(どういうこと……?)
「リィ……?」
気遣うように、男が声をかけてくる。
しかし、それに応える余裕は彼女にはなかった。
(なぜ分からないの? 分からないはずないのに……!)
自分のことが何一つ分からない。それは耐え難い恐怖だった。
「リィ!」
自分を呼ぶ声に気付いて、彼女は顔を上げた。
男が心配そうに見ている。
「……あなたは、誰?」
彼女がそう言うと、男は茫然とした表情で問い掛けた。
「リィ? ……僕が、分からないのかい?」
男の不安そうな声に、彼女は申し訳ない気持ちになってきた。
「ごめんなさい。何も、分からないの」
何も分からない。自分のことも、男のことも。
それを言うと、男は震える声で問い掛けた。
「本当に、何も、思い出せないのかい……?」
彼女がうなずくと、男はそっと彼女の身体を抱き締めた。
「心配しなくていい。僕がいるから」
その言葉と温もりに、彼女の目から涙が零れた。
そしてそのまま、彼女はゆるやかに眠りに落ちていった。
「……だから、何も思い出さなくていいんだよ」
男が呟くのを、眠りに落ちた彼女は聞くことができなかった……。