「やっぱり君は優しいね」と言われたので、優しい婚約者はやめることにしました
玄関の鐘が鳴ったとき、私は花束を抱えて広間を出たところだった。
白い薔薇を二十五本。結婚して二十五年になる今夜、私の両親へ二人で渡すことになっている。
「フィオナ、ごめん。少し話があって」
しかし、扉の向こうのルシアンは、晩餐用の上着を着ていなかった。
「実家に急なお客様がいらしてね。父上の古いご友人なんだ。母上から、僕にも同席してほしいと頼まれて」
「……今夜は、うちの晩餐の日です」
「うん、分かってる。だから先に伝えに来たんだ」
「お兄様は、ご不在なのですか」
「いや、兄上もいるよ。ただ、僕にも顔を出してほしいそうでね。フィオナなら分かってくれると思って、もうお受けしてきたんだ」
ルシアンは困ったように笑った。声はいつもと同じく穏やかだった。
「埋め合わせは必ずするよ。来月、君の好きな湖畔の店を予約しよう」
先月、彼はこの屋敷の応接間に座っていた。父と暦を広げ、この日を指で示して言ったのだ。
「今年は必ず二人で祝わせてください」と。
母は嬉しそうに、今年は彼の席を父の隣にしようと言った。
その席は、今夜も用意されている。
「ルシアン」
私は彼を見る。
「お伝えしましたよね。私が欲しいのは、お詫びの言葉でも、別の日の食事でもありません。今夜、あなたと一緒に、あの席に座りたいんです」
「うん、覚えてるよ」
彼はうなずき、じっとこちらを見やる。
どうやら嘘をついている顔ではない。
「だから次は必ず。本当はご両親にもご挨拶すべきなんだけど、お客様を待たせているから。ご両親への説明だけ、お願いできるかな」
まただ。
去年も、一昨年も、私は一人で席に着いた。
お忙しいのね、と寂しそうに笑う母に、急なお仕事でと答える。そして、来年はきっと、と父に言った。
それを言うのは、いつも私だ。
ルシアンは返事を聞く前に、もう半歩、扉の方へ身体を向けていた。
二人で渡そうと選んだ花束が、私の手の中でじんわりと柔らかくなった。
「……そうですか」
それだけ言うと、ルシアンはほっとしたように笑う。
「ありがとう。やっぱりフィオナは優しいね」
そう彼が出ていった扉が閉まる時、私は花束を抱え直した。
自分の願いを来年へ送り続けるのは、もうやめよう。
扉を開けると、父と母はもう席に着いていた。
燭台の灯りが、磨かれた銀器の上で揺れている。父の隣の椅子だけが、引かれないまま静かに待っていた。
私は二人の前まで進み、花束を差し出す。
「お父様、お母様。結婚二十五年、おめでとうございます」
「まあ、白い薔薇」
母が両手で受け取り、花の数を目で追った。
「二十五本ね」
「はい。一年に一本です」
父の視線は、空いた席に向けられ、そのまま私の後ろの扉へ。
...去年までなら、ここで私が先に口を開いていた。急なお仕事で、どうしても抜けられなくて。直前までご一緒するつもりだったのですけれど――。と
だが今夜は、その言葉を用意していない。
「ルシアンは来ません」
自分の声は、思っていたより落ち着いていた。
「ご実家にお客様がいらして、同席することになったそうです。先ほど、玄関でそう伝えに来ました」
母の手の中で、花束の包み紙がかすかに鳴った。
「……そう。お客様が」
「お兄様もいらっしゃるそうですけれど」
付け加えたのは、それだけだった。
父が何か言おうとして、口を開いた。私はそれを押さえ込むように言った。
「このことは、私からルシアンに話します。ですから今夜は、お父様とお母様のお祝いをさせてください」
父はしばらく私の顔を見ていた。それから、ゆっくりとうなずく。
「分かった。お前に任せよう」
給仕が、空いた席の皿をどうするか目で尋ねてきた。
「そのままにしておいてください」
前菜が運ばれてくると、母が二十五年前の婚礼の話をはじめた。式の朝、父が緊張のあまり花束を逆さに持って現れた話だ。何度も何度も聞いた話だった。父は毎年同じところで咳払いをして、母は毎年同じところで笑う。
今年は、私も同じところで笑った。
父は照れ隠しのように、母の好物の鴨を自分の皿から一切れ分け、母は「毎年それね」と言いながら、当たり前のように受け取る。二十五年分の、相談も言葉もいらない往復だった。けれど、きっと最初からそうだったわけではないのだろう。
食後、母は薔薇を食卓の真ん中に飾らせた。燭台の灯りの中で、白い花びらがやわらかく光っている。
「きれいね。あなたが選んだの?」
「はい」
答えてから、それが嘘ではないことに気づいた。二人で、と思いながら選んだ花だった。それでも、選んだのは私だ。
結局、空いた椅子には、最後まで誰も座ることはなかった。
◇
ルシアンが再び屋敷を訪れたのは、晩餐から五日後のことだった。
応接間には父と私、そして窓際の小卓に、もう一人。騎士団の制服を着た人が座っている。
婚約を見直す話し合いには、両家に縁のない立会人を置く。父が旧友の騎士団長に頼んだところ、団長の代わりに副長が来ることになのだ。グレン・ハーゲンベルクと名乗ったその人は、私たちに一礼すると、記録用の帳面を開いたまま、ほとんど動かない。
私とルシアンの婚約は、まだ両家が正式な契約を交わす前の段階にある。本人の意思があり、父から先方へ申し入れれば、解消できる。父は最初にそのことだけを確かめると、話す順番を私に譲った。
ルシアンは席に着くなり、申し訳なさそうに眉を下げた。
「この前は本当にごめん。ご両親にも、改めてお詫びしたくて」
父が短くうなずく。ルシアンは私に向き直った。
「それでね、湖畔の店、来月の最初の休みに予約が取れたんだ。その次の週は丸一日空けてある。フィオナの行きたいところに、どこでも付き合うよ」
少年がはしゃいでる様な楽しそうな声だった。
「ルシアン。今日は、婚約のことをお話ししたくて、来ていただきました」
彼は眉をひそめる。
「私は、この婚約を解消したいと考えています」
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……そこまで怒らせてしまったんだね」
ルシアンは困ったように笑い、膝の上で手を組んだ。
「でも、たった一度の――いや、ごめん。一度じゃないのは分かってる。だから、ちゃんと埋め合わせを」
「埋め合わせていただきたいのではないんです」
私は首を横に振った。
「別の日にどれだけ素敵な場所へ連れて行っていただいても、あの夜は戻りません。私が欲しかったのは、あの夜、あなたと一緒にあの席に座ることでした」
もう未練は無かった。あの夜にもう燃えていた火は消えた。
「私はこれまで、自分の願いを次の機会へ送って、この関係を続けてきました。それを、もうやめたいんです」
窓際で、ペンの音が止まった。
「失礼します」
低い声だった。この部屋で、初めて聞く声だった。
「今のお言葉は、『自分の願いを次の機会へ送って関係を続けることを、やめたい』。この表現で記録してよろしいですか」
私は少し驚いて、それからうなずいた。
「はい。そのままで」
彼は一礼して、またペンを走らせた。それきり、何も言わなかった。
ルシアンは長いあいだ黙っていた。やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。優しい君がそこまで言うなら、本気なんだね。今は君の気持ちを尊重するよ」
「では、私から改めて、先方へ申し入れをする」
父の言葉に、彼は素直にうなずいた。
立ち上がりながら、ルシアンは私に、いつもの穏やかな笑みを向けた。
「でも、少し時間を置いたら、きっと気持ちも落ち着くと思うんだ。そのときにまた話そう。湖畔の店の予約は、取り消さないでおくから」
扉が閉まる。
取り消さないでおく。その言葉だけが、応接間に残った。
窓際で、帳面の閉じる小さな音がした。
婚約解消の書面が両家で取り交わされてから、半月ほどが過ぎた。
父の書斎へ記録の写しを届けに来たグレン様と、廊下で顔を合わせた。挨拶を交わしたとき、彼が抱えていた薄い冊子から、一枚の紙が滑り落ちた。
拾い上げると、枝と葉の絵が描かれていた。余白には細かな字が並び、日付の下に「変化なし」と三度続いている。
「ありがとうございます。そちらは仕事のものではなくて」
「薔薇ですか」
「ええ。挿し木の記録です」
「お育てになっているのですね」
紙を返しながら尋ねると、彼は少しためらってから、家の温室で何鉢か、と答えた。絵のそばには、根の長さまで書き込んであった。私がそのことに触れると、彼は紙をもう一度開いた。
「測った翌日に枯れました。抜いて確かめなければよかったのですが」
「待ちきれなかったのですか」
「どうしても、根が出たか知りたくなりまして」
私は笑いかけて、彼の顔を見た。彼も口元をわずかに緩めていた。
「温室の薔薇を、見せていただけませんか」
言ってから、自分でも少し驚いた。
グレン様は冊子を持ち直し、私に都合のよい日を尋ねた。
翌週、侍女と訪ねた温室は、思っていたより小さかった。
棚には鉢が間隔を空けて並び、どれにも木の札が挿してある。咲いている花に交じって、葉ばかりの株や、枝を短く切り詰めた鉢もあった。グレン様はそれらを隠すことなく、入口に近い鉢から順に見せてくれた。
私が足を止めたのは、淡い杏色の薔薇の前だった。花びらの縁だけが薄く、日を透かしていた。
「きれいですね」
「お好きなら、これを育ててみませんか」
「私にも育てられるでしょうか。切った花を飾るくらいしかしたことがないのですが」
「手は掛かります。水が多いと根を傷めますし、風が通らないと病気にもなる。私は二株、枯らしました」
私は花から彼へ目を移した。
「それを、最初に勧めてくださるのですか」
「……勧め方を間違えましたね」
彼は困ったように額を押さえた。それから棚の下に置かれた帳面を取り出し、折り目のついた頁を開く。
「ですが、何をして枯らしたかは残してあります。一株目は、元気がないからと水を増やしました。二株目は、それを怖がって乾かしすぎた」
「両方なのですね」
「両方です」
彼の指が、細かな文字の上を滑った。
いつ水を与えたか、葉がどちらから黄色くなったか。私が尋ねるたび、彼は帳面を開いて答えてくれた。立会人として窓際に座っていた人と同じ声なのに、話が途切れない。
「ずいぶん、詳しく覚えていらっしゃるのですね」
「剣より書類仕事の方が得意でして。ただ、薔薇は記録を読んでくれません」
「読んでくれたら、同じところを間違えたと叱られそうです」
「まず、水差しを置けと言われるでしょうね」
思わず声を立てて笑った。
彼も笑い、それから、自分が長く話していたことに気づいたように帳面を閉じかけた。
「申し訳ありません。こんな話ばかり」
「まだ、こちらの赤い印の意味を聞いていません」
「それは、ようやく蕾がついた日です」
私は帳面を押さえる彼の指のそばへ、少し身を寄せた。赤い印の下には、花が開くまでの日数が小さく書かれていた。
「私も、この薔薇を育ててみたいです。難しくても、咲いたところを見たいので」
「では、若い株があります」
グレン様は、毎日ご自分で様子を見られる場所がよいと言った。私は自分の部屋の窓辺に決めた。
彼は小さな株を選び、持ち帰るための籠に収めた。私は空いていた木札に、今日の日付を書かせてもらった。
「そういえば、解消の話し合いのときの記録も、ありがとうございました。私の言葉を、そのまま残していただけたことが心強かったです」
「あの時は、立会人でしたから。記録の確認以外、何も言えませんでした」
鉢を包みながら、彼がふと口にした。
私は筆を止めた。グレン様もこちらを見たが、あの日の誰かを評する言葉は続かなかった。
「今日は、ずいぶんお話を聞けました」
「薔薇のことになると、つい」
「次も、続きを聞かせてください」
彼はうなずき、閉じかけていた帳面をもう一度開いた。
それから、窓辺の鉢を見るのが朝の日課になった。
葉の数を数え、水をやった日を小さな手帳に書く。変化がない日にも書くことがあるのだと、あの三行を思い出した。次に温室へ伺う日は、手帳を持っていく約束をしていた。
その四日前、グレン様が屋敷を訪ねてきた。
応接間へ入ると、彼は腰を下ろす前に、遠征の日程が決まったと告げた。出発は、私たちが会うはずだった日の朝だった。
手帳を持っていた指に、少し力が入った。
「遠征は動かせませんが、お会いする予定をどうするか、ご相談に来ました。帰還後まで延ばすか、出発前の朝に短くお会いするか。フィオナ様は、どちらがよいですか」
私はすぐには答えず、手帳の角を撫でた。
グレン様は椅子に座り、私の返事を待っていた。
「朝に、お会いしたいです」
「分かりました。温室にはご案内できませんが、こちらに伺っても?」
「はい。何時なら、慌ただしくなりませんか」
「七時でしたら、半刻ほど」
「では、その時間に。手帳も見ていただけますか」
「それを楽しみにしていました」
約束の朝、私は手帳と、小さな包みを持って広間へ下りた。
グレン様は遠征用の外套を椅子に掛け、窓辺で待っていた。差し出した手帳を開くと、葉の絵のところで目を止める。
「新しい葉ですね」
「昨日、開きました。前の葉より色が薄いので、心配で」
「これから濃くなります。よく見ていらっしゃる」
私は彼の指さす場所へ、小さく書き足した。
もっと聞きたいことはあったけれど、時計の針が進んでいた。手帳を閉じ、持ってきた包みを渡す。
「道中で召し上がってください。甘いものは、お好きですか」
「好きです」
「よかった。次は、用意する前に伺いますね」
彼は包みを受け取り、少し笑った。
「では、先に申し上げておきます。胡桃の入ったものが、特に」
「覚えておきます」
玄関まで一緒に歩いた。
外套を羽織った彼に、私は行ってらっしゃいませ、と声を掛けた。戻ったら必ず、と約束を重ねてもらう必要はなかった。
馬車が動き出すまで見送り、私は手帳を開いた。
新しい葉の絵の下に書いた一行を読み返す。帰ってきたら、葉の色を見てもらいたかった。それから、胡桃の菓子を用意する前に、遠征の話も聞いてみようと思った。
◇
ルシアンから面会を願う手紙が届いたのは、それから十日ほど後だった。
食事への誘いではなかった。婚約を解消したことは承知している、そのうえで一度だけ話を聞いてほしいと、短く書かれていた。私は返事を書き、会う日を決めた。
応接間に入ってきた彼は、以前のように微笑んではいなかった。私が向かいに座るまで立って待ち、腰を下ろしてからも、しばらく膝の上の手を見ていた。
「湖畔の店の予約は、取り消したよ」
私はうなずく。卓上のお茶には、まだ互いに手をつけていなかった。
「君が来るとは言っていないのに、残しておけば、いつか一緒に行けると思っていた。婚約を解消すると言われたあとも」
「はい」
「少し待てば、君が許してくれると思っていたんだ」
ルシアンはそこで言葉を切り、顔を上げた。
「この前は、君の話を聞きに来たつもりで、僕の用意した埋め合わせばかり話した。ごめん」
今度は、謝ったあとに食事の提案が続かなかった。
私は彼を見たまま、次の言葉を待った。
「もう一度、僕とやり直してもらえないだろうか」
声は低かった。彼は組んでいた手をほどき、膝の上に置いた。
「これからは、予定を変える前に必ず君に相談する。別の頼みを引き受けてから、君なら分かってくれると決めつけたりしない。二人で決めた大切な日には、一緒にいる。避けられない公務が入ったときも、僕だけで決めて、君に伝えるだけにはしない」
私は息を吸った。
あの夜、玄関でこの言葉を聞けていたら、どれほど嬉しかっただろう。彼が外套を取りに戻るのを待って、花束を一緒に運び、母の昔話を隣で聞けたかもしれない。思い浮かべた食卓は、まだはっきりと見えた。
「それを、あの夜に聞きたかったです」
彼が小さくうなずいた。
「分かっている。遅かった。でも、今度こそ――」
「ルシアン」
呼びかけると、彼は口を閉じた。
私は膝の上の手に目を落とし、それからもう一度、彼に向き直った。
「お話ししてくださったことは、受け取りました。けれど、あの夜は戻ってきません。だから、婚約を結び直すつもりはありません」
彼の唇が少し開いた。
返事はすぐにはなかった。廊下を通る足音が近づき、そのまま遠ざかっていった。
「僕が変われるかどうか、見てから決めてもらうこともできないかな」
穏やかな声だった。私の返事を待っていることも分かった。
以前なら、その頼みにうなずく理由を探していたと思う。これだけ言ってくれたのだから。今回は聞いてくれたのだから。もう少しだけなら、と。
「これからのあなたが変わることまで、否定したいのではありません」
「それなら」
「でも、私は、あなたとの結婚を望んでいません」
声が震えないようにするより、最後まで言葉を届けることを考えた。
「あなたを待つと約束して、またこの関係を始めることはできません」
ルシアンは視線を下げた。
カップへ手を伸ばしかけ、触れずに戻した。その指が膝の布地をつまんで、ゆっくり離した。
「来年は、ご両親のお祝いを、僕から準備しようと思っていたんだ」
私は黙って聞いた。
「花も、君に任せずに。何を選べばいいか、一緒に店へ行って……」
そこで彼の声が止まった。
私は、二十五本の白い薔薇を思い出した。あの晩、母の腕に渡した重さまで覚えていた。
「来年のお祝いは、家族で考えます」
彼はしばらく私を見ていた。
「本当に...君を愛しているんだ...」
「そうですか、私も愛していました。」
その言葉をルシアンはゆっくり立ち上がった。
私も立つと、彼は何かを確かめるように一度こちらを見た。いつもなら、次の休みの日を話しながら玄関へ向かっていた。
「...時間を取ってくれて、ありがとう」
彼は頭を下げた。
私も礼を返し、扉の前まで見送った。扉が閉じる間際まで、彼は次の約束を求めなかった。
席へ戻ると、お茶はもう冷めていた。
私は自分のカップを持ち上げ、残っていたお茶をひと口飲んだ。
◇
玄関の鐘が鳴ったとき、私はリボンを結んだばかりの花束を抱えて広間を出たところだった。
扉が開くと、晩餐用の上着を整えたグレン様が立っていた。手には小さな包みを携えている。
「お待たせしました。……花は、昨日決めた通りの数で足りましたか」
「はい。今朝、もう一輪開きましたので、ちょうど二十六本になりました」
結婚して二十六年になる両親へ渡す薔薇は、彼の温室で咲いた白い花と、私の部屋の窓辺で咲いた淡い杏色の花を合わせたものだった。
本当はすべて白い薔薇で揃える予定だったのだが、二日前の夕方にグレン様が屋敷を訪ねてきた。冷え込みのせいで温室の蕾がいくつか開きそうにないと言い、花屋で買い足すか、私の鉢で咲いた杏色の花を混ぜるか、どうしましょうかと尋ねてきた。私たちは中庭のベンチに鉢を並べて見比べ、今年は二色の花束にしようと決めていた。
廊下を歩きながら、グレン様が小さな包みを掲げる。
「お父様への胡桃の焼き菓子です。食後に皆様で、と給仕の方へ預けておきますね」
「母も胡桃は好きですから、きっと喜びます」
私たちは並んで食堂の扉へ向かった。
扉を開けると、燭台の灯りが磨かれた銀器を照らしていた。
席に着いていた父と母が顔を上げ、私と、私の隣に立つグレン様を交互に見る。
私たちは二人でテーブルの前へ進んだ。私が花束を差し出し、グレン様が一歩添うように礼をする。
「お父様、お母様。結婚二十六年、おめでとうございます」
「おめでとうございます。この杏色の花は、フィオナ様がご自分で咲かせたものです」
「まあ、あなたが? なんて優しい色かしら」
母が両手で花束を受け取り、ほころんだ花びらに目を細める。父は少し照れたように咳払いをすると、用意されていた椅子へ手で促した。
今年は四つの席すべてに、白い皿が並んでいる。
グレン様が私の隣の椅子を引き、私が腰を下ろすのを待ってから、ご自分も隣の席に着く。
前菜が運ばれてくると、母がまた婚礼の朝の話をはじめた。父が花束を逆さに持って現れたところで母が笑い、グレン様が真面目な顔で「記録に残したくなるお話ですね」と応じたので、父まで声を上げて笑い
食卓の真ん中には、白い薔薇に交じって、淡い杏色の花が燭台の灯りを受けている。
隣を見れば、グレン様が私のグラスの水が減っているのに気づき、水差しに手を伸ばすと、目が合う。すると、彼は口元を緩めて小さくうなずいた。
「来年も、こうして隣に座ってくださいね」
私がそう言うと、グレン様は静かに笑ってうなずいた。それを今夜言えたことが、何よりも嬉しかった。
誰かに連れ出してもらったのではない。あの夜、一人で席に着き、自分の足で歩いてきたから、今この場所にいる。
私の願いはもう、来年の暦へ送られてはいなかった。今夜、私が選んだ人の隣で、温かいスープを口へ運んだ。




