吾輩は偉大と思われている 番外編
朝の森は静かでよい。
鳥は鳴く。風は葉を撫でる。誰も答えを求めてこない。
毎日こうならよいのだが、そうもいかぬ。
「世界樹さま」
村の男が、根元で深く頭を下げた。
「今年はどうにも実りが少のうございます」
「少ない、とは」
「畑も森の恵みも、去年ほどでは」
「去年はどうであった」
「豊作でございました。皆、腹いっぱい食えました」
「ならば今年は蓄える年だ」
男が顔を上げる。
「蓄える、でございますか」
「実る年があれば、痩せる年もある。木も土も獣も、ずっと同じようには働かぬ」
「ですが、このままでは冬が」
「だからこそ、取り尽くすな」
吾輩は枝をひとつ鳴らした。
「今年を無理にむしれば、来年はもっと痩せる。待つこともまた生きる術だ」
「ははあ……さすが世界樹さま」
男は何度も頷いた。
よろしい。今日は知っている話だ。
だが、男は帰らなかった。
「あの」
「まだあるのか」
「世界樹さまほどのお力があれば、永遠の豊作も叶えられるのでは」
森が少し静かになった気がした。
「永遠の豊作を願うか」
「は、はい。そうなれば村は栄えます」
「ならば問おう」
男の肩がぴくりと揺れた。
「おぬしは何を差し出す」
「え」
「願うだけか。頼るだけか」
「そ、それは……」
「仮に永遠の豊作をくれてやったとしよう」
吾輩は低く言った。
「滅びるのは森ではない。人間ぞ」
男の顔が青ざめる。
「な、なぜでございます」
「わからぬか」
葉先がわずかに鳴る。
「育み、我慢し、時を待つ。それがいちばん苦手だからだ」
「……」
「花は咲き続ければ枯れる。実はなり続ければ枝を折る。巡りを失った豊かさは、豊かさではない」
男は口を開き、閉じた。
「それを踏まえて考え直すがよい」
しばらく待ってから、吾輩は続けた。
「もし考えが変わらなければ、また来るがよい」
「……また、ですか」
「なぜそうなりたいか、聞いてやる」
男は深く頭を下げた。
「申し訳、ございませんでした」
「謝る前に考えよ」
「は、はい」
男は今度こそ帰っていった。来た時より、ずっと重い足で。
少しして、別の足音がした。硬い。うるさい。鎧である。
「賢木よ」
「騒がしいのが来たな」
旅人は一礼した。
「この先を抜けたところで戦が起きている。どちらに付くべきか、助言を願いたい」
知らぬ。
森の外のことなど、吾輩の根は一本も届かぬ。
「ふむ」
間を置く。
間は大事だ。知らぬ時ほど。
「森と共に生きる吾輩には、人の戦そのものはどうでもよい」
「どうでも」
「最後まで聞け」
旅人は口をつぐんだ。
「だが一つ言おう。この世に不必要なことなど何もない」
「ほう」
「どちらに付くかを先に決めるな。おぬしが何を持ち帰りたいのかを見よ」
「持ち帰りたいもの」
「名か。命か。悔いの少ない夜か。答えはそれで変わろう」
旅人は腕を組んで黙った。
「胸に刻もう」
「そうか。落とすでないぞ」
旅人が去ろうとした、その時だった。
「うわあっ」 「へんなのがいるーっ」
子どもの叫びに続いて、村の者たちが駆けてくる。
「世界樹さま、森の奥から妙な獣が」 「見たこともありませぬ」 「不吉なものでは」
旅人まで剣の柄に手をかけた。
「討つべきか」
茂みの向こうから、のそりと現れた。
鹿に似ている。だが角は枝のように広く、背には苔が薄く張りついている。
知らぬ。
これも知らぬ。
そんな目で見るでない。吾輩は知っていることしか知らない。
「世界樹さま、あれは何でございましょう」
「騒ぐでない」
低く言うと、場が止まった。
こういう時、声は低いに限る。
「牙を剥いておるか」
「い、いえ」
「襲いかかっておるか」
「それも、まだ」
「腹を空かせておる顔だ」
村人たちが顔を見合わせる。
「腹、でございますか」
「去年は豊かであった。今年は少ない。森の奥も同じであろう」
旅人が眉をひそめた。
「では放っておけと」
「追えば荒れる。傷つければ、なお荒れる」
「しかし村に入れば」
「先に満たせ」
「満たす」
「食えるものを少し奥へ置け。道をあけよ。腹が満ちれば帰るものは多い」
村人の一人が恐る恐る言う。
「芋なら余りがあります」
「果物の落ちたのもあるぞ」
「ならば早く持ってこい」
旅人が剣から手を離した。
「剣ではなく餌、か」
「腹の減ったものに、まず見せるべきは刃ではない」
皆が動き出した。
芋と果物が森の縁に置かれる。
獣はしばらくこちらを見ていたが、やがてのそのそと歩き、静かに食べ、それから森の奥へ帰っていった。
誰も追わなかった。
「さすが世界樹さま」 「争わずに治めるとは」 「深いですなあ」
旅人まで頷いている。
「戦も同じかもしれぬな」 「満たされぬから争う」
そういう話になったのか。
まあよい。勝手に良い解釈をして帰るのは、むしろ助かる。
「世界樹さまは、やはりすべてを見通しておられる」
「見えるものもあれば、見えぬものもある」
少しだけ本当のことを混ぜる。
「だからこそ、見えるものを見誤るでない」
「ありがたや」 「ありがたや」
やめてくれ。揃うと少し気恥ずかしい。
やがて人々は帰っていった。
森に静けさが戻る。
吾輩はゆっくり枝を鳴らした。ため息の代わりである。
「今日もどうにか乗り切った」
実りの相談はまだよい。知っておるからな。
だが、永遠の豊作に戦の助言、不審な獣まで持ち込まれると、さすがに根が浮く思いがする。
それでも悪くはない。
皆が勝手に深く受け取り、勝手に救われて帰る。そのたびに、吾輩まで少しだけ偉くなった気がする。
「こうやって大人になるのだよ」
しみじみ言ってから、吾輩は少し考えた。
「大人になるということは、トラブル解決能力が高くなるということだな」
うむ。実に深い。さすが吾輩である。
「数万年生きてる吾輩が思ってるのだ。間違いではないだろう」
その時、風が吹いた。
葉がざわりと鳴る。
吾輩は満足げに枝を揺らした。
「うむ。やはりそうか」
たぶん今のは、森も頷いたのだ。
「……吾輩は昨日より、少しだけ立派に見えるだろうか」




