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青恋

作者: 水野 蛍

1.詩人の資質

 5月ばれの空にぽっかりと一葉の積雲が浮かんでいる。それは一人で悠々自適に楽しんでいる元気ある青年のようにも見えた。

 だが、青年は仲間が欲しい。いつまでも一人ではいられない。青年はそれで仲間を見つけた。もくもくと雲が広がっていく。そして、最後にザーザー降りの雨が来た。それは、青年の激しい感情の爆発のように見えなくもなかった。


 蒼井雄太はずっと空を眺めている。雨の日も風の日も、晴れの日も雪の日も。いつだって空は表情豊かで、見飽きることがなかった。それは雄太の通う、雲間第一高校での退屈な毎日とは全く異なる世界だった。

雄太はいつだって教室の一番端の席で、授業を耳で受け流しながら、空ばかりを見詰めていた。ずっと美しく、ずっと高尚で、気高いように見えていた。もしかしたら僕は空に恋しているのかもしれない、そんなことを考えることすらあった。


雄太にとって空は、亡くなった母親の世界でもあった。雄太がまだ12歳の時に肝臓病で亡くなったのだが、あの優しかった母なら絶対に天国にいると、信じていたからだ。

 あの白い雲を一段一段昇っていけば、いつか母の住む虹の果てにたどりつけるのではないかと雄太はどこかで信じていた。雄太は世界の不思議というものを、すんなりと受けいれることのできる深い懐の持ち主でもあった。もちろん、死後の世界というものの存在も信じていた。

 ただ特定の宗教を信じていたわけではない。自分の心の中に、自分だけの神が住んでいるというように考えていた。そして、いつもその神様に恥ずかしくない言動をとらなければ、と固く心に決めていた。

 だから、いつでも心と体を清潔にしておくことを考えた。余計なガラクタはいらない。何事も簡潔に、というのが雄太のポリシーだった。


 ただなあ、と彼は時々思うのだった。空に恋しているなんて、17歳の少年としては、少々恥ずかしい話かもしれない。現実の人間が好きになれないなんて、僕はどうにかしている。でも、雄太は人間が苦手だった。人間はねばねばしているから。下手に触るととんでもないことになる。女の子なんてさらに苦手だった。おしゃべりで感情の起伏が激しく、すぐに笑ったり泣いたりする。おまけに嫉妬深かったりする。よく分らない謎で面倒くさい存在だとしか思えなかった。


 そんな雄太は、みんなから「詩人」と呼ばれていた。彼が毎日短いポエムを書いてブログにUPしていたからだ。とても静かな起伏のない作品なので、派手さはないが、心にしんみりと伝わってくるものがある。そんな独自の世界をもった作品が多く、割合に人気があった。


 ただ雄太の詩人らしさは、単に詩を書いているという事実から来ているだけではない。その無垢な心と澄んだ瞳が、何よりもその資質を証拠立てるものだった。彼には愛する母を失うという最大の不幸の経験があったので、目の色にはいつも哀しみのセピア色が入り混じっていた。その哀しみの目から見える世界は、どうしようもなくやるせなくて、切ないものだった。彼の感傷的とはいえ、深い認識に支えられた作品は、読者の心をひどくかき乱すのだった。

しかし、雄太自身はみんなからまるで空気のように扱われた。友達でも敵でもなく、ただその場にいる自然の一部とでもいうように、必要だと認めつつも、若干敬遠されている節があった。そんなみんなの対応が寂しくなかったわけではない。もちろん、物足りなかった。でも、雄太には自分を変えることはできなかった。人間に興味がなく、反対に人間から興味を持ってもらうことにもそれほどは興味がない、薄い空気のような存在、それが17歳の蒼井雄太という人間だった。


 実は雄太のことを意識している同級生の女の子たちも若干いた。雄太は上品で、とても優しくて、ミステリアスなオーラを放っていたから。そして、書くものは心の奥まで届くような温かい作品で、その愛情に満ちた人となりが思い浮かべられるものだったから。

 でも、現実の雄太は、ある意味でとっても厄介な人間だった。何事にも関心を示さないのだった。だから女の子たちが話しかけても、まるで空気と一緒にいるかのように、反応がなくてつまらなかった。それで、女の子たちも結局は諦めて、「変わってるのよね」と陰でボソボソとこぼすのが落ちだった。それっきり特定の誰かと深く付き合う機会を逃したまま、いつまでも一人ぽつねんと空を眺めているのが、雄太という少年の基本だった。

 

 そんな雄太が心を分かち合いたいと思うのは、従妹の優花だけだった。優花は孤独な車いすの少女だった。けっして人間的にとりたてて善良というわけではなく、適度にわがままで、適度に無神経だったが、なぜか雄太は、そんな優花にだけは、自分のありのままを見せることができた。そして、いつでも「ばーか」と軽蔑されてしまうのだが、そこにも愛情はこもっていて、それを知っている雄太は、やはり「ばーか」とやり返しつつ、心のつながりを感じるのだった。


 雄太は一週間に一度だけ、優花の家を訪ねた。彼は彼女の家庭教師をさせられていた。優花は決して優秀な生徒ではなかったし、態度が悪いので、閉口することもあったが、それでも彼女と一緒にいるのが、一週間の中で一番楽しい時間だった。いつだってお互いを罵しるセリフが飛び交っていた。でも、そこには心からの笑いと、本物の涙があった。雄太は、自分の感情に素直な優花が気に入っていた。そして、優花こそが自分の一番の理解者であり、詩を楽しみにしてくれている人間であることを知っていたので、有難いとさえ思っていた。だから言った。

「もし僕が将来本を出すことになったら、一番先に君に見せるよ」

「いいよ、どうせ彼女が先でしょう」

「いないよ、そんなもん。これから先もずっとだ」

 そして、二人はいつも顔を見合せて笑った。

 そう。詩人なんぞと大層なあだ名を頂戴していても、所詮はその程度の才能でしかなかったのだ。雄太は一番自分でそのことをよく知っていた。しかし、優花にはいつか詩人になることを約束していた。だから、たとえ二流であろうと構わない、職業として成り立てばそれでいいと思っていた。でも、それすらがどんなに困難な道であるかを知らないからこそできた約束だった。雄太ののんびりした性格はそんな未来の困難を予想することは全く出来なかった。

 未来なんて雨の日の水たまりにいるアメンボのように頼りないものだから、僕には分からない。分からないでいいじゃないか、と雄太は空に向かってつぶやいている自分に、われ知らず笑みを浮かべていた。


2.遠雷

 二学期がやってきた。雄太は真面目な生徒だったので、始業式の日は朝一番に登校した。教室に入るとすぐに、知らない人物がいることに気がついた。

「誰だろう」と思ったが、別に怪しいそぶりも見せないし、関係のないことには極力関わりを持たないという主義から、敢えて何も聞きだそうとは思わなかった。そして、そのうちその明るい茶色のパーマの女の子は、どこかに消えたので、すっかり忘れてしまった。

 始業式が終わり、各クラス別でホームルームの時間になったとき、担任の鍋島が例の女の子をみんなの前で紹介した。うすうす思っていた通り、転入生だった。

 名前は春野天海はるのあまみといい、静岡県からの転入だった。

「みんなはまだ知らないだろうが、春野はお父さんが亡くなったばかりだ。決して意地悪をしたりしないで、親切にしてあげなさい。今はとても心細いと思うから」

 鍋島の言葉にみんなはぷっと吹き出した。

「幼稚園児じゃあるまいし…」

そんなクラスの意地悪にわれ関せずとばかりに、つんと澄ましている天海は鍋島の指示で、一番端の雄太の隣に座らされた。

「蒼井君って言ったわね、よろしく」

「ああ」

 気のない返事を雄太は返した。でも、なんとなくその強がっている子が内心ひどく傷ついているのではないかと思って、少し気になった。ただ、それを口に出すことはしない雄太だった。

 天海は最初のころは陰気で沈黙がちな近寄りがたい雰囲気だったが、次第にメークや服装が派手になっていき、クラスの複数の男子とも噂されるようになった。

「春野さんてさ、大人しそうに見えて、あれで相当乱れてるらしいよ。前の学校では妊娠騒ぎになっていられなくなって、こっちに移ってきたらしいよ」

「へええ」

 噂の渦中の人はしかし、いつだって冷静だった。見かけは派手でも、氷のような鋭さと冷静さがいつも感じられた。だが、と雄太は思った。自分にはあの子が本当はとても心の優しい、か弱い女の子であるようにみえる、と。根拠はない。でも、雄太が近くにいる時の天海は、いつもよりもの柔らかな雰囲気を身にまとうようだった。

 ある日の放課後、雄太は隣の席なので天海と日直で一緒に掃除をする羽目になった。雄太は何も言わずに天海に箒を手渡し、自分はぬれ雑巾で机を拭きだした。

「ねえ、蒼井君。面倒だから、適当にやってよ。そんなに真面目にやることないでしょう?」

「僕は別に普通だよ」

「君、変わってるのに、自覚症状がないのね」

「僕が変わってる?そう言っている連中がいることはよく知っている。でも、僕はこういうことに関しては普通だと思っているよ」

「ふうん、そうなんだ。でも、私と真面目に話をしようとする男の子って君ぐらいだからね」

「そうか?別に僕はあんたが変な奴だとも思ってないからな」

「そう。でも、私にはいろいろと変な噂がついて回っているでしょう」

「噂は本当なのか?」

「さあね。でも、まあ結構いろいろな目にはあったわね。みんな自分がバカだったのが悪かったんだけどね」

「なあ、別に関係のない話だろう。どうでもいいよ、そんなこと」

「そう?君が始めた話なのに」

「ああ」

 二人はしばらく無意識にお互いを見つめていたが、はっと気付いて黙々と掃除を続けた。

 

 ふと気がつくと、空が厚い雲に覆われ、あっという間にザーザーと雨が降り出した。おまけに雷が遠くに響きだした。ちょっとした嵐だった。

「私どうしよう。傘を忘れちゃった」

 天海が困ったという顔をして、雄太に言った。

「傘?ああ、そうか。この天気じゃな。なら僕が傘を貸すよ」

「でも、君はどうするの?」

「家は近いから、走って帰れば大丈夫だよ」

「それじゃあ、悪いよ」

「まあいい。あんたは女の子なんだから、自分を大切ににしなくちゃ」

 そう言って、雄太はカバンの中から黒い折り畳み傘をとり出した。

「男くさくて悪いけど」

「とんでもない。ありがとう」

 天海は顔を崩して笑いながら、雄太に礼を言った。雄太は初めて見るその笑顔がいいなと思ったが、何も言わなかった。

「それじゃあな」

 雄太はカバンを頭にかざして、昇降口から飛び出した。そして、まっすぐに走って家に帰った。


 結構雨がしんまで染みとおっていて、寒かった。雄太は家に着くや否やシャワーを浴びた。熱い湯の洪水を体全体で受け止めながら、雄太は考えた。あの子はきっと見かけよりも気の小さな優しい子なのかもしれない。相手の気持ちばかり考えて従ってきた結果、つらい結末にたどりついてしまった。それで今でも血の涙を流しているのに、毅然としてそれを分からせないようにしている。プライドが高いのだろうか。それとも、そうでもしなければ自分が崩壊してしまうかもしれないからだろうか?

 いや、でも、そんなことは誰にも分からないことだ。自分はあの子に興味を持っているのは確かだが、それは普通の意味の色恋とは違っているように思えた。どこか何か通じるところがあるような気がする。今更ながら気づいた雄太は、だからといって何をしたらいいのか、さっぱり分からなかったが、背中がかゆくてたまらなくなった。それは生まれて初めての感覚だった。

 その晩は、その日でもないのに優花の家を訪ねた。優花が怪訝な顔をするほど、はしゃぎまくった。そして、それで疲れたのか、優花の枕元で子守唄を歌いながら、いつの間にか自分が寝てしまっていた。

 優花はそんな雄太を遠回しに見ながら、ほほえましく思っていた。年齢は自分より上だけれど、そうは思えない。いつまでも子供のような…思わず笑いそうになったが、思い返した。雄太兄ちゃんにはいつまでもそういう人でいてもらいたい。そして、優花のすぐ側にいてほしい。優花はずっと優しい気持で雄太のことを見守っていた。

 嵐はいつの間にか止み、空には大きな満月がかかっていた。誰がこの月のことを知っているだろうか。都会の喧騒はそうした静かな手掛かりを打ち消してしまう。見果てぬ夢を見続ける若者たちがここにいることを、月は独りで静かに指し示していた。


3.りんご

 少しだけ相手を意識したせいか、最近の雄太はどうもうまく心のバランスが取れないのだった。

あの後、天海は丁寧に礼を言って傘を返してきたのだが、それ以降はまったく反応がない。雄太から話しかけても適当に答えるだけで、相変わらずほかの男子たちとばかり関わり合っているようだった。

 雄太はこのことを優花に話そうと思いながら迷っていた。だが、あるときついに言った。

「優花、もし僕が君以外の女の子を好きになったらどう思う?」

 優花ははっとした表情で答えた。

「それは本当の話?」

「いや、そうじゃないよ。でも、可能性としてありえるだろう?」

 優花はすぐに顔を曇らせた。

「思い当たる節があるんでしょう」

「いや、ないない」

「嘘だあ」

 そう言って、優花はまだ14歳の女の子とは見えない鋭い目線で、雄太の顔を穴が開くほど見つめた。

「まあ、雄太にはそれも必要悪だと思うけどね」次の瞬間、ため息をつきながら優花は言った。

「それ、どういう意味?」

「普通の人間になんなさいってこと」

「僕、普通じゃない?」

「うん。あんたの心はただ空の方に向いているだけ。きっと雄太のお母さんが亡くなる時に持っていってしまったのだわ。だから、取り戻してほしい。その上で優花と一緒にいてくれたらなあ。これ本当よ」

「優花、僕は…」

「まあ、それ以上今は何も言わないで。優花はこんな顔を誰にも見られたくないから。今日は帰って」

「ごめん、悪かったよ」

 こうして雄太は、頼りにしていた優花の心からの信頼を失った。そして、もう一方の女の子との仲も相変わらずだったので、何か損をしたような気になっていた。


 そんなある日、父が家に自分よりかなり若い女性を連れてきた。きつい香水の匂いをあたりに発散している、ゴージャスな毛皮の美女だった。話を聞いたら37歳のファッション・デザイナーで独身とのことだった。父は職場で知り合ったのだという。でも、雄太には父さんの気持ちが手にとるようによく分かった。要するに恋しているのだ。父さんは母さんを失ってから赤ん坊のような人になった。でも、長続きする人はいなかった。雄太は今度の人もまたそうであることを願った。

 その真木園子さんという女性は、とても平凡なサラリーマンの父親に似合うような人ではなかった。いわば高嶺の花だ。美しくて強くて頭もよかった。そしてお金持ち。これが雄太には許せなかった。

 ただ、園子さんは雄太を可愛がってくれた。必要以上に。

「雄太君はお母さんが好きなのね」

 園子さんは繰り返し言った。

「別に普通です」雄太は眉間にしわを寄せて、大事な母さんを守ろうとした。

「そんなに邪険にしなくたっていいのに」

園子さんは口を尖らせていった。尖っているのは口だけではなかった。形のよい乳房が突き出ていることに、雄太は突然気づくことがあった。

 僕は色気づいてきたのだろうか?詩人としてあるまじきこと。雄太は慌てた。

 

どうしてそういう気になったのか知らないが、雄太はそのことを天海に打ち明けた。

「君も男の子なんだよ。普通だよ」

 天海はけろっとして言った。

「でも、僕はいつまでも無垢な子供でいたい」

「ピーターパンじゃあるまいし。いいことなんだよ。人間がりんごを食べてなきゃ、歴史も始まらなかったんだから」

「あんた、難しいこと知ってるね」

「父さんから教わっただけ」

「ふうん。そうなんだ」

「それじゃ、ちょっと付き合おうか?」

「は?」

「りんごを食べたお祝いだよ」

「そんな」

 二人は近くの公園でよく冷えた缶コーヒーを飲んだ。雨がしとしとと降っていた。9月だというのに、じわっと汗がにじみ出てくるような、真夏の陽気だった。

「あんたといるときは、いつも雨だなあ」

「私が雨女なのかもしれないね」

「困ったね。僕は空が好きなのに」

「でも、泣いてるときだって、空は空だよ。晴れてる時だけが好きだっていうのは、本当に好きだということじゃないんじゃないの?」

「また難しいことをいう」

 雄太はそっと天海の手に触れた。

「あったかいね。あんたの手」

「君のもね。普通の人間でよかったよ」

「そんなに僕って変?」

「普通、この年で女の子に興味ないっておかしいよ」

「別に興味がないわけじゃないんだけど」

「じゃあ、どういうこと?」

「僕には亡くなった母さんの存在が大きすぎるらしいんだ」

「ふうん。マザコンなんだ」

「そういう俗な言い方やめてくれる?」

「私はとことん俗な人間だよ、君と違ってね」

 そのまま天海は言葉を発しなくなってしまった。

「僕は普通になりたくないんだ。そうなるぐらいだったら、いっそ死んだ方がいい。死んだように生きていきたいのさ」

 天海がなおも黙っているので、雄太はさらに続けて言った。

「君もどこかが死んでいる人なんだと思う。きっと君のお父さんと関係あるんだろうなあ」

「父の話はやめて!」途端に天海は表情をガラッと変えて、叫ぶように言った。

「ごめん、悪かったよ」雄太は慌てて謝った。


 雨が少しずつ晴れて来た。雄太と天海は相合傘を閉じて、別々に歩き出した。

「ありがとうな」雄太は天海の後ろ姿に呼びかけた。

「いいよ、別に」

 天海の後ろ姿は凛々しくて、神々しくて、とてもまともに拝めたものではない。雄太は覚悟を決めて、クルッと後ろを向いて反対方向に歩きだした。


4.アイスクリーム

 優花が風邪をひいた。軽い夏風邪だった。だが、雄太はすぐに見舞いに行った。優花の体は、たとえ軽い風邪であっても耐えきれないほど、弱くなっていたからだ。

 しかし、優花は元気そうにしゃべっていた。

「本当に肺炎になりかかったんだよ。危なかったんだから」

 優花は口を尖らして言った。胸はまだ尖っていなかった。雄太はほっとした。

「優花なら病気の方から逃げ出すさ」雄太は冗談めかして言った。

「どういうこと?」

「だって、恐いんだもの」

「バカ雄太、私を怒らせると本当に怖いよ」優花は拳を振り上げる真似をした。

「分かってるよ。だから、今日は貢物を持ってやってきたよ」雄太は優花の全身を両手で受け止めるような格好をしながら言った。

「何だろう?」

「バンホーテンのアイスクリーム。味はラムレーズン」雄太は誇らしげに言いきった。

「やったー。雄太、たまにはいいこともするじゃない」

「うるさいねえ。君は本当に病気なの?」

「そうよ。美人薄命って言うでしょう。私は本当に体が弱いんだから」

 それは本当だった。優花の体は難病のためにどんどん委縮しているのだった。ふと雄太は優花がいなくなってしまった後の世界について考えて、慌てて悪念を追い払った。

「いけないよ、優花。それは悪い冗談だからね。さあ、早くアイスクリームを食べてごらんよ。ほっぺたが落ちるよ」

「優花、食べてもいいかな?」優花は隣りに控えているお母さんに声をかけた。

「ちょっとだけよ」

「本当?わあい。バンホーテンだあ」

 優花は眼の色を変えて、本当においしそうにアイスクリームを頬張った。

 優花の眼は少しだけ潤んでいた。雄太は気付かないふりをした。


 あとで叔母さんに聞いた。優花の体の調子は本当によくないのだった。先天性の障害がついに内臓も侵し始めたのだった。優花はもはや、一人で立つことも起きることもできないどころか、自分の手で物をつかむことさえできなくなってきているのだった。

 雄太は内心ショックを隠せなかったが、優花の前では何も聴かなかったふりをした。

「優花、うまかったか?」

「うん、うまかった、うまかった」

「それじゃあ、君が大人しくしていたら、拙者がまた持ってきて進ぜよう」

「頼みまする、雄太の君」

 二人はちょっと真面目に見つめあった。

「雄太が彼氏だったらよかったのに。役に立たない男ねえ」優花は力の入らない手で、雄太のほっぺたをつねった。

「痛いよ、優花。僕は従兄で済んでよかったよ。いつ殺されるか分かったもんじゃない」

「ひどいわね」

「本当にひどいよ」

 またしても、二人は悪口を言い合いながら笑っていた。


 その一週間後に優花はついに調子を崩して、ICUに移された。雄太は今回もすぐに見舞いに行ったが、今度は会わせてもらえなかった。

「優花へ。早く元気になって、また一緒にバカ話でもしよう。今度はハーゲンダッツを持っていくつもり。待っています。 雄太」

 その手紙を、優花は繰り返し、繰り返し病室で読み返したのだった。特にいつまで待っても、元の状態には戻れないような気になるとき、優花はその手紙をしっかりと胸に押し当てた。優花の胸は弱い鼓動を繰り返していたが、そうすると、胸が高鳴って、また元気になれたような気がするのだった。

 優花が入院している一か月の間に、季節は完全に夏から秋へと変わってしまった。

 

 秋になって優花の病気がひとまず小康状態を得たので、久しぶりに優花は自宅に戻ってきた。雄太はすぐに駆け付けた。

「優花、約束のハーゲンダッツだよ。よかったね。アイスクリームを食べられるようになって」

「うん。余り食欲はないんだけど、アイスだけはいつでも食べられるよ。優花、大好きなんだ」

「いつでも持ってくるからな。僕は君のアイスクリーム大使だ」

「何それ?」

 優花はおかしそうに笑って言った。

 雄太はそれ以上何を言っていいか分からず、ずっとアイスクリームを胃に流し込む優花の健康な咀嚼運動を眺めていた。

 完全に手に力が入らなくなってきているのが明らかだったので、雄太はなおさら切なくなったが、何も言わなかった。

「雄太は最近どう?」

「どうって一体?」

「ほら、例の女の子のこととか」

「ああ、別に何もないよ。普通だよ。相変わらず下手な詩だけは書いているけどね」

「どんな詩?」

「思春期の男の子がいかにも書きそうな詩だよ」

「ふうん。今度また優花にも読ませてよ」

「うん。今度ね」

 優花は少々退屈そうだった。

「ねえ、何か面白いことないかなあ。優花は病院でつまらなかったからさあ」

「そうだなあ。花火でもする?」

「するする。花火やりたあい」

「でも、もう季節的には遅いけど」

「いいよ、夏を取り戻すんだよ、これから」

「優花は夏が好きなの?」

「ううん。春や秋のほうが好きだけど、夏って若者っぽいじゃない」

「なんだそれ。君はおばあさんみたいなことを言うなあ」

「実年齢と精神年齢のギャップが大きいんだよ、私の場合」

「自分で言うなよ」

 雄太は真面目ぶっている優花を見ておかしくなった。この分ならきっと大丈夫だろう。雄太は自分で自分を励ました。優花のために、夏の思い出を作ってやらねば。

後で本当に花火をやった。優花は車いすのまま外に出て、涼しい夜風を浴びた。

 優花のお母さんは心配していた。風邪をひくんじゃないかと、上着を持ってずっと優花の脇でスタンバイしていた。でも、心配は無用だった。優花は始終御機嫌で、自分でも花火を持ってみて、ぱちぱちと火花が散る様子をずっと笑顔で見つめていた。雄太は涙が出そうになったが、何とかこらえた。

「今年ももう秋だねえ」

「ああ、すぐに日が暮れるようになった。暗くなるとあっという間だよ」

「優花は全然学校に行っていないから、一日が長くて仕方がなかったんだけど、最近は気付くと夜で、寝てばかりだ。生きてるって言えないね」

「僕は毎日学校に行っているけれど、ぼーっとしてるだけだよ。僕だって特に生きてるって感覚はないよ」

「何をもったいないことを言ってるの。優花の分までしっかり人生味わってよ」

「優花には優花の人生があるだろう?」

「でも、きっと人に比べるとずっと活動している時間が短いんだよ」

「でも、君はその分深く考えているじゃないか。長さは関係ないよ」

「優花は別に哲学者になりたいわけじゃない。普通の女の子でいられれば、それでいいの」

「僕は普通は嫌だけどね」

「それは贅沢だよ。健康な人間のセリフだね。嫌な感じ」

「悪かったよ。でも、嫌な大人になりたくないんだよ。父さんみたいに頼りのないのも嫌だけど」

「伯父さん、可哀そう。実の息子にそんな風に見られているなんて。伯父さんはとってもいい人だよ。ただ、伯母さんが早く亡くなったのがいけなかったんだよ」

「そりゃあ、僕だって母さんには長生きしてもらいたかったさ」

「うん。でも、二人とも早くそのトラウマから抜け出なくちゃ。いつまでたっても人生が始まらないよ」

「君は余計な御世話を焼くおばさんみたいだ」

「考え事をする時間だけは人一倍あるからね」

「あまり思い詰めるなよ」

「分かってる」

 雄太が花火の残骸を片付けていると、優花は熱心に耳をそばだてた。遠くでかすかにチャルメラの音がしていた。

「懐かしいな」

「昭和の響きだね」

「ああ。僕たちの知らないね」

「優花はもっと早く生まれたかったよ。平成生まれなんて、人間に深みがないよ」

「君は十分だよ。僕こそ平板な人間だ。人間に核がない」

「自分を責めても仕方がないよ。平成生まれには平成生まれなりの宿命があるんでしょう」

「そうだといいな」

 二人の会話にはきりがなかった。

「もういい加減にしなさい。風邪をひきますよ」叔母さんが心配して、二人の話を止めにきた。

「すみませんでした」

 

その晩、雄太は優花の家に泊めてもらい、遅くまでずっと語り合った。優花は翌日には病院に戻らなければならない。もしかしたら、これが最後の家での夜かもしれない。そう思うと、名残惜しくて、いつまでも語っていたくなるのだった。もちろん、今までと変わらないただのバカ話だった。でも、そういう変わらない日常にこそ、大事なものが潜んでいるに違いない、と、雄太は気付いたのだった。雄太は泣けてくる自分を抑えながら、最後まで笑顔を絶やさなかった。優花も始終、満面の笑みだった。こうして、この日は神様だけが知っている、二人の秘密の夜となった。


5.ダブル・デート

 学校は相変わらずつまらなかった。

「ああ、退屈だなあ」

 思わず空に向かって呟いている自分に気がついて、苦笑いをする雄太だった。家では優花とのことがあったが、しばらく学校では誰ともコミュニケーションを取っていなかったので、本当に退屈だった。

 そんな雄太を傍目で見ていた天海は、気のなさそうな表情だったが、珍しく自分から声をかけてきた。

「でも、君自身は面白いよ。見ていて飽きないくらい」

「僕のことを見てるの?気がつかなかった」

「しょうがないよ。この席順だと、嫌でも目に入る」

「なんだ、そういうことか」

「それ以外に何があるっていうの?」天海は珍しく、手を叩いて笑った。

「そんなに笑わなくてもいいのに」

「いいや、君はやっぱりおかしい。笑えるよ」

「そう?なら、もっと優しくしてよ」

「優しく?気持ち悪い」

「そんなこと言わなくてもいいのに」

「これが私の地なんです」そう言って、天海はまた笑った。雄太はどうしていいか分からなかった。でも、悪い気はしなかった。


その晩、父さんが珍しく早く会社から帰ってきた。

「今度、園子さんと一緒に食事をしよう。園子さんもお前と会うのを楽しみにしている」

「楽しみにしているって、もう何遍も会っているじゃないか」

「園子さんはお前が気に入っているんだよ。お前はどうなんだ?」

「僕はあんな派手な人は嫌だな」

「華やかでいいじゃないか。うちは男しかいないから、ちょうどいい」

「僕は父さんがいてくれれば、それで十分なのに」

「17歳の健全な男子がそんなことを言っていてどうする。もっと欲を出さなければ」

「僕は将来詩人になるのだから、欲なんかなくてもいいんだよ。でも、そうだなあ、園子さんが来るんなら、僕も友達を呼んでもいいかなあ」

「何だそれは?」

「僕にだって、気の合う同世代の友達がいるってことを、あのオバサンに見せてやりたいんだ」

「そんな当てが本当にあるのか?本当なら、父さんは嬉しい。園子さんに失礼な言い方をしたのは悲しいが」

「まだ分からないけど、多分大丈夫だと思うよ」

「じゃあ、頑張ってみなさい」


 雄太は翌日、思い切って天海に声をかけた。

「今度、父さんがガールフレンドと食事するのに僕も誘われているんだけど、僕はその人が苦手で一人では嫌なんだよね。あんた、応援に来てくれない?」

「何、デートのお誘い?」

「いや、デートじゃなくて、父親同伴だけどさ」

「また面白いことを考えたわねえ。お父さんには私のことを何て言ってあるの?」

「気の合う友達」

「よし。本当のことだわね。なら、話に乗ってあげてもいいわ」

「本当に?助かるよ。父さんの恋人は化粧が濃くて、僕にまでちょっかいを出してくるから、僕は苦手なんだよね。例のりんごの人さ」

「ふうん。それは興味深いわね。お母さんになるかもしれない人なんでしょう」

「そんな恐ろしいことを言わないでよ」

「まあ、いいじゃない。その話乗ったわ。君のお父さんにも興味があるしね」

「どういうこと?」

「きっととっても面白い人なんだろうなあって思えるから」

「ええ?父さんは気が弱くて頼りない人だよ。別に面白いとも思えないけど」

「まあ、それは私が実際に見て判断することだから、身内の意見は差し挟まないの」

「分かりました」


 その夜、雄太は勇んで父親に天海のことを話した。

「OKだったよ。僕の方は大丈夫さ」

「園子さんが何ていうかなあ」

「僕だって、言いたいことはいっぱいあるのに我慢しているんだから、彼女も少しぐらい遠慮してほしいよ」

「かわいくない奴だなあ」

「そりゃあ、そうだよ。家を乗っ取られたくないからね」

「そんなんじゃないんだよ。俺と園子さんは本当にいい関係なんだから」

「いいよ、別に。弁解なんかしなくたって」

「お前にはそういうことを言われたくなかったな」

「仕方がないよ。多感なお年頃だからね」


 その日曜日、雄太と父さんは大分年の離れたダブル・デートをやってのけた。

 園子さんは天海を見るなり、眼をぱちくりさせた。

「誰、この子?」

「僕の友達の天海。天の海と書いて、あまみって読むんだ。いい名前だろ?」

「へえ。雄太君にもガールフレンドがいたのね。意外だなあ」

 園子さんはすぐにサングラスをかけて、目線を隠したが、雄太には分かっていた。園子さんは天海を値踏みしていたのだ。でも、ありがたいことに、天海は申し分のない女の子だった。いわゆるオシャレではないが、しっかりとした自分と個性を持っていて、その辺の女の子とは違っていた。

 天海はまず父さんに挨拶した。

「雄太君にはいつもお世話になっています。春野天海と申します。よろしくお願いします」 

「ああいえいえ、こちらこそ、うちの雄太がお世話になっています。変わった子だから、いろいろご迷惑をおかけしているんじゃないかと思いますが」

「とんでもありません。とても親切で、楽しい男の子ですよ」

「ありがとうございます。そう言っていただけて安心しました」

 父さんの方が始終恐縮して、頭を下げっぱなしだった。天海は堂々としたものだったので、決して派手な園子さんに引けを取っていなかった。

 園子さんは始終無口だった。ただひたすら、ナイフとフォークで料理を小さく切り刻んでいたが、まるで天海のことをそうしてやりたいと思っているようにも見えた。

「園子さんは最近お忙しいんですか?」

 雄太は意地悪く、わざと園子さんに話題をふった。園子さんは、

「まあまあね。だから、お父さんと食事をするのは久しぶりなのよ。雄太君に会うのもだけどね」と話に乗ってきた。

「いつもかわいがってくださってありがとうございます」

 雄太は思い切り皮肉のつもりで言った。

「あら、たまにはかわいいことも言うのね」園子さんは本気で嬉しそうな顔をした。

「僕にはまだ早すぎるし、刺激が強すぎますけどね」雄太は誤解されてはたまらないとばかりに、強引に方向を修正した。

「何を言っているのかしら、この子は」園子さんは急に困ったという声になった。

「僕には天海のような友達もいるし、優花のような妹もいるしね、女友達に困ってはいませんよ」

「何、おませなことを言っちゃって」園子さんは思わず笑った。感じのいい笑顔だったので、雄太は思わず気を緩めた。しかし、雄太は間違っていた。

「雄太君にはまだまだ女のことなんか分かりはしないわよ、ね、和繁さん」

「ああ、そりゃあ、私だって分からないんだもの」

 天海がプッと吹き出した。

「お父さんもやっぱり面白い方ですね」

「え、そんなことないよ。天海ちゃん、大人をからかっちゃいけない」

「すみません。出すぎたことを申しました」

 とは言いつつ、天海はやはり笑っていた。

「あなたねえ、どう言うつもりか分からないけれど、失礼よ。勝手に割り込んできたくせに」ついに園子さんが怒りだした。

「すみません。雄太君にあなたのことが嫌いだから、是非応援に来てくれって頼まれたもので」天海はシャーシャーと言ってのけた。

 園子さんは青い顔になった。

「その年でそれだけのことを言えるのなら、相当なものね。どんな生活を送ってきたのか、教えてほしいものね」

「私は高校生ですから、高校生らしい生活を送っているだけです。雄太君ともいいお友達ですし。大人だからって、子どもをからかっていいわけじゃないんですよ」真面目な顔で天海が言った。

「どういうこと?」

「年頃の男の子を刺激するようなことを言ったり、なさったりしないでください。ルール違反です」

「私はいつでも女でいたいだけ。それ以上でも以下でもないの」

「あまり女くさいと、早く老けますよ」

「あなた、言っていいことと悪いことがあるでしょう」

「すみません。口だけは母に似て、悪いものですから。でも、たかが女子高生に言われたくらいで、激高するのも大人気ないんじゃないですか?」

「あなたは高校生じゃないわ。心は私よりずっと大年増よ」

「そうだよ、天海ちゃん。ちょっと言いすぎじゃないかい」和繁も言った。

「すみませんでした。でも、嘘は言っていませんから。私は友達である雄太君を守りたいと思っただけですし、人のいいおじさんが騙されるのを見ているのは耐えられなかったものですから」

「私と和繁さんは本当に仲がいいのよ。あなたには分からないわ」

「いいんです、分からなくて。少なくとも雄太君には分からないでしょうね。それだけでも安心です」

「もういいわ」

 そのまま園子さんは黙ってしまった。天海も口を閉じた。雄太の父親はすっかり困ってしまった。

「ねえ、仲直りしようよ。園子さんも天海ちゃんも。私が悪かった。二人を会わせるんじゃなかったね。大失敗だった」

「でも、父さん。僕は嬉しかったよ。父さんに友達を紹介できて」

「ああ、しっかりした子が友達でよかったな。お前の方が尻に敷かれそうだが」

「別にどうだっていいじゃん、そんなこと」

 その後は、みんな黙って食事を食べた。

 食事の後は、雄太と天海は二人に別れを告げた。

「どうか、お気を悪くなさらずに」天海はニコッと笑って、園子さんに別れの挨拶をした。

「いいえ、私の方こそ言いすぎたわ」園子さんは決まり悪そうに手を差し出した。

 二人はがっちりと手を握り合った。雄太は驚いた。女同士というのはよく分からない。やっぱり女は化け物だと、身に染みた。雄太は父さんと一緒にしばらくぽかんと眺めていたが、天海に手をひっぱられて、いつの間にか二人になっていた。

「楽しかったね」

「どこが?」

「面白いお父さんに、きれいな女の人だったわ」

「そう?あんたは、あの人のこと嫌いなのかと思っていたよ」

「私は別に。君が嫌いなだけでしょう。あの人、よくあるタイプのかわいい人よ」

「あんたはどうなんだい?」

「どうって?」

「どういうタイプなの?」

「私?私は、天上天下唯我独尊。世界でたった一人きりの春野天海よ。誰の真似でもない、オリジナルよ」

「へえ」

 またもや後光の射している天海に、雄太は息をのまれてしまった。雄太はそれ以上何も言えなかった。

「それじゃ、今日はありがとう。また誘ってね」

 そう言って、片手でさよならをしながら遠ざかっていく天海の姿を、雄太はいつまでもいつまでも見詰めていた。


6.彼女 vs.妹

ある晴れた日の放課後のことだった。

 9月半ばの空にはぽっかりと一葉の積雲が浮かんでいた。一人で悠々自適に楽しんでいる青年のようにも見えた。でも、青年は恋人がほしい。しばらくすると、積雲は大きな雨雲に飲み込まれ、雨がしとしとと降り始めた。

「僕、あんたが天海じゃなかったら、一生女の子と付き合わなかったと思う」

 雄太はついに天海に告白をした。

 雨宿りの大きな銀杏の樹の下でのことだった。雄太はぐっと天海の両手を握りしめた。

「あはは。やっぱり面白いことを言ってる。冗談なんだか、本気なんだか分からないね」

天海は笑いながら、そっと雄太の手を払いのけた。

「そうかなあ」

 雄太は取っておきの切ない表情をした。

「分かった、分かった。今度、一緒にどこかに遊びに行こう」

 天海が諦めたように言った。

「どこに?」雄太が目を丸くした。

「新宿御苑とか。食事はあたしが用意するから、君は飲物を用意して」

「もしかしてあんたが作ってくれるの?」

「一応ね。これでも、家では料理長だからね」

「お母さんは作ってくれないの?」

「あの人は働いているだけ。大きくなった娘に手をかける必要はないと思ってるよ。私も別にそれでいいと思う」

「僕も家ではけっこう作るけど、男の料理だからなあ」

「まあ、期待しないで待っていてよ」

「うん。楽しみだ」


 その日曜日、二人は約束通り新宿御苑を訪れた。ちょうど菊の季節だった。品評会を見るために、たくさんの人が訪れていた。

「ぼくは花より団子だね」

「あたしは花のほうがいいなあ。きれいなものは大好き」

「ふうん。そうなんだ」

 二人は黒い猫のキャラクターのマットを引いて、寝転がった。

「気持ちいいなあ」

「そろそろお昼にしよう」

 天海は持ってきた大きな手提げ袋から、クマの似顔絵になっている、小さなお弁当箱を取りだした。ラップで包んだおにぎりも一緒だった。

「はい。ありふれたものだけど、どうぞ」

 そこには、筍とシイタケとニンジンと絹さやの煮物と、鰆の西京焼と、イリコの佃煮と、きれいに膨らんだたまご焼きが詰められていた。

「純和風だね」

「我が家はお惣菜しか食べないから。ボリュームなくてごめんね」

「ううん。心がこもっていていいよ」

 二人は仲良く一つの弁当箱をつっつきあった。あっという間に弁当箱は空になった。

「ああ、うまかった。ごちそうさま」

 そう言って、雄太は天海の膝の上にごろっと横になった。

「甘えないの」

 ぴしっと手で頭を払われて、雄太はずりおちてしまった。

「きびしいね」雄太はがっかりしながらも、笑って言った。

 絶好の秋晴れに上手い飯。言うことはなかった。


「ああ、優花の奴にも、同じようなことをしてやりたいな」思わず雄太は呟いていた。

「優花って、いつも話している、入院中の従妹の女の子だっけ?」天海は聞き逃さなかった。

「そうだよ。かわいそうに、ずっと入院で寝た切りだし、移動も車いすなんだ。まだ14歳なのにね」

「ふうん。それじゃあ、つらいね。気分転換ぐらいしたいよね」

「そうなんだよ。たまに僕がアイスクリームを持っていくぐらいだもんね。きっと退屈だし、不安だろうな。強がっていはいるけどさ」

「ふうん。気の毒な人なのね。それじゃあ、その従妹さんを、今度ここに連れてきてあげたらどう?」

「えっ。どうやって?」

「タクシーで送り迎えして、そして、あったかくしてあげればいいじゃない」

「先生と叔母さんが許してくれるかな」

「まだ暖かいから大丈夫よ。一日くらいいいでしょう?私もその従妹さんと知り合いになってみたいし」

「難しい子だよ。いつも何か変なことばかり考えているし」

「いいの。君の大事な従妹でしょう?私だって何かしてあげたいもの」

「君は優しいんだね」

「違うの。好奇心旺盛なのよ」

「物は言いようだね」


 雄太は何とか石田先生と叔母さんを説得するのに成功した。もちろん、優花は大喜びだったが、実は彼女には天海のことは前持って知らせておかなかった。何となくその方がいいような気がしたからだ。

 一方の天海は、前回にまして、入念に準備を整えた。もちろん、石田先生と英恵叔母さんもその辺は抜かりがなかった。

 雄太と天海は、先に来て新宿御苑の門の前で優花と車いすを乗せたタクシーを待っていた。

 定刻通りに叔母さんが優花の乗る車いすを押しながら現れた。雄太はすぐに手を振った。優花も元気よく手を振り返してきた。

「待った、雄太?」

「うん。待った、待った。もう来ないかと思ったよ」

「オーバーねえ。少し渋滞したのよ。でも、時間通りに現われたでしょう?」

「ああ。何とか合格だ」

 そのとき、優花が「あっ」と声を上げた。何も言わずに後ろに立っていた天海の姿が目に入ったのだ。

「バカ雄太、あの人はもしかして…」

「そう。僕のガールフレンドの春野天海だ。君のために今日のご馳走を用意してくれたんだ。しっかり感謝しなよ」

「えぇ…」優花は絶句した。「何で前もって教えておいてくれなかったの。心の準備がいるでしょう」

 優花は震えだした。

「どうした、優花」

「だって、優花はそんな話聞いてないもの。バカ雄太の彼女があんなにかわいい人だなんて思わなかったし」

「今さら何を言ってるの。天海は優しい子だから、心配する必要はないよ」

「だって…」優花は押し黙った。

「さあさあ、みなさん。仲良くお食事しましょう」叔母さんが間に立った。


叔母さんが作ってきてくれた3種類のサンドイッチや、鶏の唐揚げ、サーモンのマリネ、オムライスといった豪華な品々に、天海の手作りの鯛飯、きんぴら牛蒡、かぼちゃのサラダ、里芋の煮っ転がし、といった素朴な料理がそろえば、ちょっとした宴会だった。

天海と叔母さんは紙皿を回し、お重の中の天海の料理と、タッパーの中の叔母さんの料理を4人分取り分けた。最初に雄太が舌鼓を打ち始めた。

「叔母さんはやっぱり年季が入っているよね。天海のもうまいけれど」

「あら、叔母さんのは手抜きよ。天海ちゃんの方がよっぽど手をかけているわよ」

「そんなことありませんよ。鯛飯以外は、自分の得意なものばかりです」

「その年でお惣菜を作れるっていうのは大したものよ」

「ありがとうございます」

「ほら、優花もせっかくなんだから、いただきなさい」

 優花は母親の勧めにも関わらず、なかなか手を伸ばそうとしなかった。

「お口に合わなかったのかしら。ごめんなさいね」

 それが天海が発した優花への最初の言葉だった。優花は不安げな顔で弱弱しく答えた。

「そんなことありません。でも、あまりお腹が減っていないもので」

「何言ってるの、優花。さっきまでお腹が減って仕方がないと言っていたじゃないの。遠慮しないでいただきなさい」

叔母さんがせっついた。優花は恐る恐る天海の里芋に手を伸ばした。

「あ、おいしい」里芋を口に運んだ優花は、思わず声を上げた。

 天海はにっこりとした。

「優花さんのことを考えて、いつもより薄味にしたんですけどね」

「でも、しっかり味がついているわよ。天海さんは料理お上手ね」叔母さんが持ちあげる。

 優花はまだもぐもぐ咀嚼しながら、何も言わなかった。

「どうしたんだ、優花。無口だなあ。いつもの君らしくないじゃないか」雄太は優花を軽く責めた。

「だって、初対面でしゃべるなんて、優花は慣れていないもの」優花が口を尖らせた。

「大丈夫だって。天海は優しい子だって、さっきも言ったろう」

「でも、優花は天海さんのこと、あまり好きじゃない」

「どうして、優花。どうしてそんなことを言うの。失礼でしょう」叔母さんが慌ててたしなめた。

「いいんですよ。私だって反対の立場だったら、そう思うかもしれませんから」天海はにっこりしながら、優花の方を向いて言った。「優花さん、突然おじゃまして悪かったわ。でも、私はあなたに会いたかったのよ」

 優花は何も言わなかった。

「雄太君はね、普段あなたの話ばかりしているのよ。優花さんのこと、本当の妹のように思っているみたいなのよ。いつも深く考えていて、とてもしっかりしていると言っていたわよ」

 それでも、優花は答えなかったが、雄太が代わりに言った。

「あまりばらさないでくれよ、恥ずかしいだろう」

「でも、本当のことじゃない。君は優花さんのことが大好きなんでしょう。私なんか目じゃないくらいにね」

「そんな言い方するなよ。変な誤解を与えるだろう」

「雄太、それ本当?」初めて優花が自分から言葉を発した。「優花のことが一番好きなの?」優花は眼を輝かせた。

「優花、君は大事な従妹じゃないか。それが分からない?」

「でも、優花は二番目じゃいやなの。一番でいたいの」

「でも、天海だって僕には大切な人だよ」

「天海さんと私のどちらが大切なの?」

「立場が違うじゃないか」

「でも、優花には大事なことなの」

「君は僕の一番の理解者だ。でも、天海は僕の一番の相談相手なんだ」

「そんなのずるい」優花は眼に涙を溜めた。

「君は相変わらず我がままだね。そんなことじゃ、僕は君のこと、自慢の妹だと言えないじゃないか」

「いいよ。どうせ我がままだもん。私は入院患者で、もともとみんなに迷惑をかけてばかりだし、この際、嫌いになられたって、仕方ないと思うもの」

「君がたまたま体が弱いからって、それは関係のないことなんだよ。僕は君の素直な人柄が好きなのに」

「私って素直なの?」

「ああ。とってもストレートだ。決してお世辞とか嘘を言わないところが、君の一番いいところだと僕は思っている」

「だって、お世辞なんか言ったって、寿命が延びるわけじゃないもの。優花は健康になりたいんだよ。そして、優花だって雄太においしい手料理を作って食べさせてあげたいのに」

優花はぽろぽろと玉のような涙をこぼした。

「分かった。優花、もう何も言うな」雄太は優しく優花の頭を抱きかかえた。

「雄太は私だけの雄太なの」そう言って、優花は泣きじゃくった。

「いいよ、分かったよ。君は僕の一番大切な女の子だよ。元気を出して」

「ティッシュちょうだい」

「いいよ」

 優花は雄太の取ってくれたティッシュで思い切り鼻をかみ、そして涙をぬぐった。

「天海さんに悪いことをしたわね」優花は震える声で言った。

「そんなことないよ、優花ちゃん。女の子にとっては大事なことよね」天海はさっきからずっと黙って聞いていたが、落ちついた声で言った。

「私にはとても大切な人がいるから、雄太君のことは、本当にいい友達だと思っているだけなの。心配しないで」

「本当?」優花はまだ震えながら、でも嬉しそうに言った。

「そう、だから、雄太君のためにも、早く元気になってあげて」

「もちろん、そのつもりだよ。でも、病気の方がなかなか優花を離してくれない」

「優花、焦ることはないよ。ゆっくりね。僕がまたアイスクリームを持っていくからさあ」

「ワンパターンだね。さすがに飽きるよ。たまにはもっと違うこともしてよ」

「また我がままが出てきたね。まあいいよ。僕も考えるよ」

「うん。そうして」

 こうしてようやく優花が機嫌を直したので、みんなで残りの料理に舌鼓を打ち、そして雄太が車いすを押しながら、少し庭園の中を歩いた。

「気持ちいいよ、雄太」優花は夢うつつのように嬉しげに言った。

「それはよかった。僕たちもそれを望んでいたんだよ。ね、天海」

「そうよ。優花さんに元気を出してもらいたかったの。それが一番の目的。そして、お友達にもなってもらいたかったの。どうかな、優花さん」

「うん、いいよ。優花の代わりに雄太のことを面倒見てやってください。雄太はお母さんのことで頭がいっぱいで、女の子とどう付き合ったらいいのか、分からないみたいだから、

いろいろ教えてあげて」

「そうね。雄太君は面白いよね。学校ではいつもボーっとして、空気みたいなんだよ」

「へえ、空気か。優花にはすごく手厳しいのに」

「それは君が相手だからだよ。君だって僕に厳しいじゃないか」

「だって、雄太はバカなんだもの」

「ひどいな」

 そして、優花と雄太と天海は、顔を見合わせて笑いあった。

「優花、よかったわね。新しいお友達ができたし、きれいな場所を散歩できて、いい気分転換になったわね」英恵叔母さんが嬉しそうに言った。

「うん。本当に楽しかった」

「それじゃあ、優花。そろそろ病院に戻りましょう」

「ええ、もう?まだご飯を食べ終わったばかりじゃない」

「でも、秋はすぐに寒くなるからね」

「はあい。でも、もう少し話したいな」

「優花、また今度、二人でお見舞いに行くよ」

「天海さんも?」

「ええ。喜んで伺うわ。何かおいしいものを持って。アイスクリーム以外のね」

「わあい。それじゃ、待ってるから、絶対来てよね」

「ええ」

 そして、優花は来た時と同じように、お母さんといっしょにタクシーで病院に戻った。後部座席から手を振っている優花の姿がいつまでも雄太と天海の視界に残っていた。


「優花ちゃんて、本当にかわいい子ね」

 二人になった天海は、雄太にそう言った。

「本当にそう思った?我がままだろう」

「だって、素直じゃない。一番じゃなきゃいやだって。ああいう子は大切にしてあげなきゃ駄目よ」

「でも、君はどうなんだい。本当に僕はただの友達なの?」

「そうよ。それよ。だって、君はまだ子どもっぽくて、女の子と付き合えるような男じゃないもの」

「随分上から目線だなあ」

「まあ、いいじゃない。一応友達だとは思ってあげてるから、感謝してよ」

「ああ。君ほどの女の子はそうはいないからね。友達でもありがたいのかもしれない。ちょっと悔しいけど。でも、さっき君が言っていた、一番大切な人って誰なの?」

「それは秘密。でも、今はもういないの。それだけは言っておくわ。君が一番の友達よ」

「そうか。君は秘密の多い人だから、仕方がないかもしれないけれど、やっぱり残念だよ」

「でも、君には優花ちゃんがいるじゃない」

「従妹だけどね」

「それでもいいのよ。優花ちゃんは立派に生きてるんだから」

「もしかして、君の大事な人って、亡くなったお父さん?」

「それも言えないけれど、でも、そうね。いい線は行ってるわ」

「そうか。そうだよね。君も苦しいんだね」

「いいのよ。私は強いから」

「君はやっぱりすごいよ」

「ええ。私もそう思う」

「もう、自分で言うなよ」

 二人は思わず笑った。

「僕は君のこと、好きだよ」

「分かってるけど、ごめんね」

「ちぇっ」

「でも、これ位は許してあげる」

 天海はそっと雄太の手を取った。雄太は優しく握りしめた。

 二人はそのまま電車に乗り、最寄りの駅で別れた。

7.天海の秘密

 ついに10月に入った。季節は完全に秋へ移行し、涼しい風が吹き始めた。

 天海は最近、元気がなかった。雄太はそんな天海を労わりの気持ちで見つめていたが、天海が何も話してくれないので、一人でやきもきしていた。

「天海、何かあるのか。最近、あんたらしくないぞ」

「ああ。ちょっといろいろあって、疲れているんだ」

「どんな関係?」

「遺産相続とか、戸籍の問題とか」

「へえ。大変そうだなあ」

「そうなの。父の四十九日もあるしね」

「あんたの父さんはいつなくなったの?」

「8月22日」

「そうか。まだ日が浅いんだな。それじゃあ、ショックも大きいよな」

「ショックとかじゃないの。私にとっては、一つの人生が終わったってことなの」

「そんなにお父さんが好きだったのか」

「好きとか嫌いじゃない。私の全てだったの」

「お父さんはそんなあんたを残していくのは辛かっただろうな」

「今はその話はしないで。記憶が生々しすぎるから」

「分かった。ごめんよ。他人が土足で踏み入っていい場所じゃないもんな」

「ごめんね。心配掛けて」

「いや、いいんだよ。早く元気になってほしいけどな」

 その後、天海は一週間ほど学校を休んだ。静岡の実家で父の法要を営むためだそうだが、雄太は何か不吉な予感がした。

 天海はなかなか戻ってこなかった。雄太は心配になり、鍋島に住所を聞いて、ついに追いかけて行った。

 

春野家は静岡市の郊外にあった。こんもりと茂る森の中の一軒家だった。

 雄太が春野家に向かって歩いていくと、大きな木の枝にボーっと座っている天海がいた。天海は髪の毛を短くカットして、まるで男の子のようだった。

「雄太。こんな所まで来たの?」

「あんたが学校に来ないから、寂しくなったのさ」

「悪かったね。でも、私は学校に戻らないかもしれない」

「どうして?」

「父さんの近くにいたいから」

「お母さんはどうするんだ?」

「あの人は一人でやっていける人だから大丈夫よ」

「そうはいかないだろ。あんたはまだ高校生なんだし、お父さんがいないんだから、お母さんと一緒にいるべきだよ」

「でも、私はあの人に何の愛情も感じないんだもの」

「それは、お父さんのせい?」

「ううん。昔からそうだった。私には父さんしかいなかった。父さんが全てだったの」

「それは不幸だったな。お父さんは何で亡くなったの?」

「言いたくないよ。辛くなるから」

「そうか。じゃあ、もう聞かないよ」

 雄太は天海をそっとしておいて、春野家を訪ねた。春野家には天海のお祖母さんと、叔母さんがいた。

「あなたが天海の東京のお友達ですか。わざわざ来ていただいて、申し訳ないわ。天海も頑固な子だから、なかなか戻ると言わなくてね」

「天海のお母さんは?」

「仕事があるからと、とっくに東京に戻りましたよ」

「そうでしたか」

 雄太はそっと声を落として言った。

「一体、天海のお父さんはどうして亡くなったんですか?」

「あの子に何も言わずに言ってしまってもいいのかしら?でも、わざわざ東京から来てくださったんですものね。それじゃ、お話しますけど、天海の父魚南ウオナは、実は自殺で亡くなったんです。それも他の女性と一緒に」

「心中ですか?」

「まあ、そんなようなところです」

「でも、なぜ?大事な家族がいながらどうしてそんなことをなさったんですか?」

「天海の父親は医師、それも精神科の医師をしておりましてね、この近くでクリニックを開いていたんですよ。何人もの患者を抱えて、大層繁盛していました。その中に、一人の若く見目麗しいお嬢さんがいらっしゃいました。診療を続けるうちに、そのお嬢さんは魚南に対する信頼の気持が高じてしまって、要するに恋をしてしまったんです。魚南はもちろん良識ある大人でしたから、そのお嬢さんの気持をどうにかして変えさせようとしたのですが、かえってミイラ取りがミイラになったようで、自分もそのお嬢さんに夢中になってしまったんです。それからは大変でした。二人が一緒にいない日は見ないほどでした。二人が一緒にいるときは、それはそれは幸せそうで、身内としてはお恥ずかしい話でしたが、とても止める気にはなりませんでした。でも、まずいことにその事実に天海が気づいてしまったのです。天海は大変傷つき、荒れました。天海は父親が大好きでしたから。この結果に天海を父として強く愛していた魚南は激しく後悔しました。それで、相手のお嬢さんに別れを切り出しました。すると、そのお嬢さんは、魚南が処方した睡眠薬を大量に飲んで、その翌日に死んでしまったのです。魚南はさらに激しく後悔しました。自分が全ての元凶なのだと。そして、ある夜、魚南のことを好きだった他の看護師の女性と崖から飛び込んでしまいました。遺書は天海に宛ててだけありました。天海が誰にもこれを見せないので、内容は分かりませんが。これが魚南の、天海の父、私の兄の悲劇の一件のあらましです。天海の父の名誉にもかかわることなので、なかなかお話がしにくかったのですが、天海のためにも事情を知っている方が傍にいてくださった方がいいと思って、あえてお話ししました。どうか私が話してしまったということは、天海には伏せて置いてください」

「分かりました。できるだけ、天海さんの心を刺激しないように、気をつけます」

 雄太は一人で、深い物思いに沈んだ。天海のお父さんは、道を踏み外してしまったが、とても人情味のある、温かい人だったんだろう。そして、責任感が強く、子ども思いの父親でもあった。恋する男として、子を思う父としての立場に板挟みになって、耐えきれずに自ら命を絶ってしまった。哀しい話だ。他人の僕が聴いてもそう思うのだから、まして父親思いの天海には耐えがたい事件だったろう。

 僕は今後どのように天海に接していったらいいのだろう。雄太は考え込んでしまった。天海には一刻も早く立ち直ってもらいたい。でも、とても赤の他人の僕の言葉が届くとは思えない。もっとずっと深い、海の底の様な次元の話なのだ。

 雄太はその日は、天海のお祖母さんの家に泊めてもらった。翌日、天海のお父さんの墓に詣でて、心から祈った。

 ドウカオジョウサンノココロヲカイホウシテアゲテクダサイ。

 雄太は奇跡を待つことにして、東京に戻った。

 

天海は相変わらず、父の家の近くを離れるつもりはないらしい。毎日、木の上でぼーっと空を見上げている。ふと何かが込み上げてくると、思わず不覚にも涙をこぼすこともある。そんな嘆かわしい状態が続いた。

 しかし、ある晩、東京からお母さんがやってきた。お母さんは天海に言った。

「天海、いつまでお父さんに甘えているの。お父さんはあんただけのお父さんじゃないのよ。いい加減にお父さんを解放して、天国に送ってあげなさい。そして、あんたの場所に帰ってきなさい。あんたのいるべき場所は、お母さんや友達のいる、東京よ。いつまでも泣きごとを言っているんじゃないの。もう17でしょう。そんなんじゃ、お父さんはいつまでも浮かばれませんよ」

「なら、お母さんは、お父さんが他の女の人を好きになって、しかも、その人と死ぬようなことになって、全然哀しくないの?」

「私はお父さんのことを信じています。お父さんは最後まで、私たちのことを愛していました。私はそう信じられるから、お前のように、情けない態度に出たりしません。お父さんの分まで生きようと思うだけです。お前もお父さんのことをもっと信じてあげなさい。お父さんは本当に素晴らしい人でした。父親としても、医師としても。責任感が強すぎただけなのよ。お前もそれを分かってあげて」

「お母さんは、お父さんのことを本当に愛しているの?」

「私にはあの人しかいません。生まれ変わったら、あの人と最後まで添い遂げたいと思うけれど、今はあの人との忘れ形見である、お前を守ることが、お父さんとの愛の証だと思っているから、私は一生懸命働いて、お前を立派な大人に育て上げようとしているの。お前ほど利口な子なら、それくらい分かっていると思っていたけど」

「私はお母さんが信じられないの。余りにもあっさりしているから」

「それは私の性格なの。早くに両親を亡くして、魚南と一緒になるまで、苦労を重ねてきたから、ちょっとやそっとのことでは動じないように育ったの。お前もそういうところは私に似ていると思っているのだけれどね」

「私がお母さんに似ている?考えたことはなかったわ」

「でも、それが事実なのよ。お前は私の子供でもあるのだからね。それを忘れないようにしなさい。親はいつか先にいなくなるものなの。お前にはその時期が少々早く来てしまったけど、片親が残っているだけ幸運だと思いなさい。別に私をお父さんのように慕えと無理強いするつもりはないけれど、お前にはまだ母親がいる、という事実をもう少し正面から受け止めなさい」

「もういいよ。分かったよ。東京に戻ればいいんでしょう?」

「あと一つだけ言っておくわ。私をここに呼び寄せたのは、あんたを大切に想ってくれているあるお友達なの。あんたには誰のことだかすぐ分かるでしょうけれど、心から心配してくれているの。あんたにもそういう人がいてくれることを、ありがたく思いなさい。長い目で見れば、私以上にあんたにとっては心強い存在になってくれる人かもしれないんだからね。大切にしなさいよ」

「雄太なのね。誰かあいつに父さんのことをしゃべったわね」

「みんな、お前のために良かれと持ってしてくれたことなのよ。ありがたく受け止めなさい」

「分かったわよ。仕方ない。じゃあ、明日帰るから、今晩はお父さんと最後の別れをさせて」

「あんたの気の済むようになさい」

 天海は一晩中、お父さんのお墓の前で一心に祈っていた。お母さんもそっと娘の姿を蔭から見つめていた。

 翌日の朝早く、お母さんは仕事のために一足早く東京に戻り、ゆっくり起きた娘の方は、しばらくお祖母さんや叔母さんと話しこんだ後、名残惜しげに上京していった。実に2週間ぶりのことだった。


 天海は東京に戻ると、すぐに雄太の家を訪ねた。雄太は一人で部屋にこもって、音楽を聴いていた。

「天海、久しぶりだね。お父さんと心行くまで話ができた?でも、ようやく帰る気になってくれて、僕は嬉しいよ。あんたのいない学校は、ひどくつまらなかったからね」

「雄太。私のためにいろいろしてくれて、ありがとう。私はもう大丈夫だから。お父さんのことは忘れないけど、もう泣き言は言わないから」

「あんたにも泣き言を言いたくなる時があったって構わないさ。たまには僕に泣きつくといいよ。僕だって男だからね」

「ありがとう。でも、それじゃあ、天海さんらしくないからね。これからはもっと強くなるよ」

「お願いだから、それ以上強くならないで。僕が相手できなくなるから」

「人のことを鬼のように言わないでよ。これでも妙齢の乙女なのよ」

「分かってるけど、時々そう思えなくなる。きっとあんたのお母さんに似たんだろうね」

「何それ?」

「僕、あんたのお母さんに会ったんだ。かっこいい人だったよ。この親にしてこの子あり、だとすぐに思ったね」

「私もお母さんをもう少し見直そうかなあと思った」

「そうしてあげて。娘が全然打ち解けないと、寂しそうだったよ、あんたのお母さん」

「まあね。女同士だと、素直になれないこともあるのよ」

「そういえば、僕も父さんとはあまり話さないもんな」

「そんなものなんでしょう。お互いに生きている親も大切にしなきゃ、ってことね」

「そのようだ」

 二人はほっとしたように、顔を見合わせた。

「これ聴く?ビートルズのエレナ・リグビー。元気が出るよ」

「あの物悲しい奴?」

「うん。でも、僕は好きなんだ」

「やっぱり変わってるね」

 二人は同じイヤフォンをお互いの片耳に押し付けて、同じ音楽を聴いた。

 夕刻が迫ってきたが、二人は全く時を忘れて、長い間聞き惚れていた。


8.父の再婚

 雄太の父和繁は迷っていた。もう付き合って3カ月になる真木園子にプロポーズをしたものかどうか、考えあぐねていたのだ。

 あえて息子には相談しなかった。雄太が反対するのは、明らかだったから。

 和繁は父として、息子を騙すようなことはしたくなかった。しかし、ここまで来たら、せっかく釣り上げた大物を逃がす手はないと思い、気が急くのだった。

 それでも、優柔不断な和繁は、園子さんの出方を待った。園子さんはいつまで経っても、曖昧な態度しか取らなかった。当然だ。園子さんのように金も自由も美貌も持ち合わせている女性にとって、和繁など吹けば飛ぶような存在でしかなかった。まともに相手をするような立場ではない。そもそも、園子さんと和繁が付き合っているというだけ、不可思議な話だったのだ。

 しかし、和繁は一発逆転のチャンスを狙っていた。和繁はある日、園子さんを自宅に呼んだ。雄太の帰ってこない日だった(優花の病院に泊まっていたのだ)。和繁は園子さんのために特別の一室を用意していた。それは10000本の深紅のバラの花を敷き詰めた、夢の部屋だった。そのために和繁は全財産をはたいたのだった。

 これを見た園子さんは、和繁を見直す気になった。和繁はただ一事に賭けるということを知っている男らしい男だったのだ。しかし、和繁の貧乏は隠す余地がなかった。園子さんはかえって同情を覚えてしまった。今さら17・8の小娘ではない。花の褥に夢を抱くような年でも立場でもなかった。ただ、和繁の必死の思いが嫌と言うほど伝わってくる。園子さんは和繁を許す気になった。

「私はね、永遠の運命の女でいたいの。だから、結婚は考えていなかった。でも、あなたが可哀想だから、少しは考えてあげてもいいわ」

 園子さんにとっても、もうすぐやってくる40という年齢は、恐るべきものだった。どんなに努力しても、隠すことのできない肉体の衰えというものを、園子さんはすでに知っていた。落ち着くことのできる場所があるのなら、そこに落ち着いてもいいかもしれない、と園子さんは改めて考え直したのである。

 そこから、摩訶不思議な婚約という話に相成った。しかし、実はそこにはもう一つのモーメントも働いていたのである。

和繁にはもう何も残っていない。息子以外は。しかし、その他ならぬ息子こそが園子さんにとってはえがたい魅力だった。純粋で初心な息子は、園子さんにとっても癒しの泉だった。本当は、父親よりも息子の方が気に入っていた位なのだ。この前のガールフレンドの一件で、恋人にするというアイデアだけは諦めたが、姉弟のようにつきあえたらいいな、とまだ園子さんは思っていたのだ。青い果実のように甘酸っぱい味の若い恋人。それは年のいった女にとって、永遠の夢だった。それに近いものを合法的に手に入れようと、園子さんはまるで無思慮な女のように夢見たのだった。

 その若き燕候補は、父親と園子さんが二人でそろって婚約を告げた時は、ただ、おめでとうと一言述べたにとどまった。しかし、その翌日、二人きりとなった父と息子の間には、激しい口論が湧きおこった。

「あんないやらしい女を母と呼ぶくらいだったら、僕は死んだ方がましだ。母さんが可哀想過ぎる」

「お前だって、そろそろ新しい母さんが必要だと思わないか。園子さんは優しい立派な女性だ。彼女ならきっと、天国のお母さんも許してくれると思う。お前は俺の幸せを喜んでくれないのか。それにお前にとっても悪い話ではないと思うが」

「父さんは惑わされているんだ。母さんがいなくなってからの父さんは、ただの腑抜けになってしまった。まともな判断が下せるわけがない。あんな性悪な女を妻にしたら、父さんがバカを見るだけだよ」

「父さんはそう思わない。お前があまりにも亡くなった母さんに縛られすぎているんだ。そろそろ二人ともトラウマから抜け出して、新しい人生を生きようじゃないか。新しいパートナーと一緒に出なおそうと、父さんは決めたんだ。お前も付いてきてくれ」

「僕は嫌だ」

 そのまま二人は、ケンカ別れとなった。一旦言い出したら聞かない息子は、勢い余って、家を飛び出した。

 雄太が向かったのは、天海の家だった。雄太は天海に全てを話した。天海は言った。

「雄太、辛いだろうけど、ここは我慢だよ。お父さんのことを考えてあげて。お父さんは寂しいんだよ。50近くになるまで、ずっと一人で息子を支えてきた。その疲れがどっと出ているんだよ。もう少し優しくしてあげて」

「なら、あんたは僕がこの結婚を認めるべきだというのか?」

「もう少し冷静に考えてみてよ。せめて少しの間、夢を見させてあげるくらいいんじゃない?」

「じゃあ、天海は二人の関係が自然消滅すると考えているんだね」

「まあね。あの女性は一ところでじっとしていられるような人じゃないし、おじさんとはまったく異世界の存在だから、おじさんもあの女性もそのうち気が変わるでしょう」

「じゃあ、待てばいいんだね。でも、僕はそれさえ嫌なんだ。あの女の僕を見る目は、蛇のようにネトネトしている。気持ち悪くて仕方がないんだ。何だかあの女の本当の狙いは僕にあるんじゃないかと、邪推したくなる」

「邪推じゃなくて、真実かもしれないわ。でも、あの女性は見かけほど強くないし、実行力もないから、君は大丈夫よ。私が保証する。だから、とりあえず家には帰りなさいよ。時間稼ぎの方法を考える方がましだと思うわ」

「分かったよ。あんたの言うことは信じるよ。あんたは賢いからな」

「そんなことはないけど、現実的なのよ、私は。君もおじさんも必要以上にロマンチストだからね。たまには意見もしてあげないと、二人とも行き倒れてしまうわ」

「心配をかけるね。どうもありがとう」

「いいえ。あなたが私のためにしてくれたことを思えば、何でもないわ」

「そんな、僕こそ何もしてあげられなかったのに」

 

 雄太は天海に説得されて、家に戻った。そして、父親に言った。

「結婚はいやだけど、付き合うのは本人たちの自由だからね。好きにしたら」

「結婚というところが大切なんだが」

「でも、まだ付き合ってたったの3か月でしょう?もう少し頭を冷やしてからでも遅くないんじゃないの?」

「分かったよ。もう少し考えてみよう」

 和繁は雄太の言うとおり、少し時間をおくことにした。園子さんには、雄太が反対していることをそれとなくほのめかすだけにして、資金の調達のためという口実を用いた。

「でも、あなたのお財布を期待していたら、いつまでも待たされそうね」

「待てば待つほど、喜びも深くなると思うよ」

「そうかしら」

 園子さんにとっては、結婚などうでもいいことだった。ただ、息子が自分になびかないことだけが気がかりだった。自慢の息子との甘い生活は、まだ絵にかいた餅に過ぎなかった。だが、諦めの悪いのが園子さんの悪い癖だった。

「雄太君、今度一緒に買い物に行こうよ。服を買ってあげるわ。いつも同じシャツばかり着ているじゃない。いまどきの男の子は、おシャレにしていなくてはダメよ」

「ほっておいてください。このシャツもズボンも気に入っているんだから。それに、僕は必要以上の贅沢はしない主義なのでね」

「可愛げがないなあ。お母さんになってあげないよ」

「母親がいなくても十分幸せなんでね。間にあってますよ」

「まあ。本当に可愛くない」

 園子さんは鼻にかかった甘い声で絡んでくるのだった。雄太は最初露骨に嫌悪の念を示したが、やがてそれは単なる軽蔑に変った。いくら園子さんが話しかけても、肩をすくめるだけで、答えもしなくなった。

 園子さんは和繁に相談した。

「雄太君は、私のことが気に食わないみたいね」

「気恥ずかしいんでしょう。格好をつけたい年頃だからね」

「まあ、本当かしら」

 園子さんは、結局、雄太のことは放置しておくことにした。結婚という事実が成立すれば、さすがに嫌だとは言えないだろうというのが、園子さんの取った方針だった。その結果、二人の結婚という計画は、雄太の願いとは反対に、どんどん実現に近づいて行くのだった。

 園子さんの主導で、二人は式場を見たり、ドレスを選んだり、引き出物を考えたりし始めた。園子さんにとっては初めての式だったので、園子さんはそれなりの格式をもって臨むつもりだった。交友関係の派手な園子さんは、もちろん、披露宴もそれなりのものにする考えだった。結局、全ての資金は園子さんが出すことになりそうだった。

 雄太は父親に反発した。

「父さん、約束が違うじゃないか。今のままでは、あの女の言いなりだよ。どうしちゃったんだ。男のプライドってものがないの?」

「俺にはどうだっていいことなんだ。結婚さえできれば何でもいい。プライドなんて、とっくの昔に捨てたよ。お前との約束を守れなかったのは悪いと思う。でも、本当に目出たいことなんだよ。いい加減、認めろよ」

「父さん。父さんは本当にそれでいいの?僕たちの生活は滅茶苦茶になるよ」

「そうかな。俺には幸せな未来しか見えないんだが」

「甘い」

 しかし、ついに式の日取りが決まってしまった。翌年の1月の頭になる予定だった。

 

 またしても、雄太は天海に泣きついた。

「どうたらいいんだ、僕は」

「もう認めるしかないかもね。あのおばさんにそんなに実行力があるとは思わなかったわ。やっぱり相当年を気にしているのね。おじさんには悪いけれど、あの女にしてみれば、相当条件の悪い結婚なのにね。よっぽどあなたのことが気に入っているんだわ」

「気持ち悪い。僕は嫌だよ。もう我が家と呼べるところがなくなってしまう」

「困ったわね」

 しかし、雄太にはそんなことを気にしていられない事態が生じた。優花が倒れたのだ。そして、危篤になった。


9.優花の死

 優花は、次第に体全体の筋肉が委縮していくという難病の患者だった。生まれた時から分かっていたことで、寿命は10歳と言われていた。しかし、叔父さんと叔母さんの必死の看病のおかげで、何とか14歳までは生き延びることができていたのだった。

 もう下半身の自由は利かず、腕にも力が入らないというところまで来ていた。それが、ついに口が利けず、咀嚼・嚥下もできず、最後は心臓の筋肉までも委縮してしまうという事態が訪れたのだった。

 覚悟していたことではあった。しかし、まだまだ先の話だと思っていた。急激な悪化という事態に、叔父さんは嘆き悲しみ、叔母さんは半狂乱になった。雄太としては、まだ信じられないというのが、本音だった。

「優花、優花。僕だよ、雄太だよ。しっかりして」

 優花は眼を開けていた。もちろん、声も聞こえていた。しかし、なかなか言葉が出てこなかった。

「ゆ、雄太、雄太のお、お嫁さんになりたかったのに、も、もうダメだね」

「何を言うんだ、優花。また元気になれるよ。今までだって大丈夫だったじゃないか」

「わ、私もそう思いたいんだけど、体がぜ、全然言うことを聞いてくれない。こんなことは初めてだから、ちょっと怖いの。で、でも、大丈夫よ。私にはみんながついていてくれるから」

「優花は強いね。きっと今回も乗り切れるよ。乗り切ったら、本当に僕のお嫁さんにしてあげる」

「いいのよ、雄太。ゆ、雄太には天海さんがいるものね。あ、天海さんといつか幸せになってね」

「優花、何を言うんだ。優花、君に僕の最初の本を捧げると約束したじゃないか。僕が詩人になるまで見守っていてくれよ。君がいなければ、僕はとても詩人になんてなれないよ」

「し、詩人になれなくたっていいじゃない。も、もっと大事なことがあるでしょう。お、伯父さんと新しいお母さんとうまくやっていってね。ゆ、優花は新しい伯母さんを歓迎するわ。雄太にはママが必要だもの」

「優花、僕のことなんて、どうだっていいじゃないか。今は君の健康だけだよ」

「で、でも、私は雄太のことが心配なんだもの。一人残していけないわ」

「何を言うんだ。君こそが僕の妹なのに」

「私はあなたのお姉さんのつもりよ。それだけ長く生きてきたもの」

「でも、まだたったの14歳じゃないか」

「長い14年だったわ。もう十分。私は全力で生きたもの」

「優花…」雄太は声にならない涙を流した。優花は疲れ切って、そっと目をつむった。そのまま眠りに入ったようだった。雄太はいつまでもその姿を愛おしげに見詰めていた。


 優花はその10日後に亡くなった。11月の26日だった。雄太は涙を流しつくしていたので、優花の亡骸を前にして、ただ黙祷を捧げた。

「優花、君は僕の一番の理解者だった。僕は君に感謝しても感謝しきれないほど、いろいろと世話になった。今度は僕が優花のために生きていくよ。きっといい詩人になって、優花の思いを世間に伝えていくから、天国から見守っていてくれ。僕の最愛の妹、優花」

 葬式はしめやかに執り行われた。伯父さんと叔母さんは終始、涙を見せていた。雄太は次から次へと訪れる弔問の客の相手をした。しっかりと挨拶をし、涙は一切見せなかった。 

「雄太君も、仲良くしていたからショックだろうが、しっかり頑張りなさいよ。優花ちゃんを心配させないようにな」

「分かっています。僕は優花の分まで生きて見せます」

 そして、最後に雄太は優花の棺桶にピンク色のスイートピーの花を供えた。優花にぴったりの花だと雄太は思い、生前の優花の姿を一瞬のうちに思い浮かべた。笑っている優花、泣いている優花、口を尖らしている優花、怒っている優花…全てが一瞬のうちに浮かんで消えた。

 優花…僕は君のことを忘れないよ。君は僕たちの心の中に、僕たちが死ぬまで生き続けているから。

 後で来た天海と一緒に、雄太は全ての思いを込めて、頭を垂れた。それが永遠のお別れだった。優花の体は泡と消えて、小さな骨壷に収まってしまった。ここで初めて、雄太は涙を見せた。優花…君はついに永遠に遠い存在になってしまった。僕たちが行くまで、母さんと一緒に、天国で待っているんだよ。優花、僕の永遠の妹、優花。


10.青い恋

 それから2年が経過した。

 雄太は新しい母親と折り合いがつかず、大学に通うために一人で下宿していた。ただ、その傍らには、常に天海の姿があった。

天海は大学に行かず、喫茶店のアルバイトをしていた。父親のことが忘れられず、いつかは医者になろうと思っていたが、資金が足りなかったのだった。天海の母親は病気だった。働きづくめの生活で、ついに体を壊してしまったのだった。天海はだから、雄太の下宿先と病院と職場の間を行き来する毎日だった。受験勉強の準備もあって、忙しくて目が回るほどだった。

ただ、天海は自分が恵まれていると感じていた。雄太という掛け替えのないボーイフレンドを残して行ってくれた優花のことも、一瞬も忘れたことがなかった。

雄太と天海は月に一度は必ず優花の墓参りに行った。おかげで優花の墓には花が絶えることがなかった。叔父さんも叔母さんも、二人には感謝してくれた。優花の最後の日々を彩ってくれたのは、二人だったと。そして、優花の生きた痕跡を絶やさずにいてくれるのも、この二人だと。

雄太は今では学生生活を送りつつも、同人誌で詩を発表するようになっていた。その雑誌のタイトルは『青恋』。優花との淡い恋の思い出を忘れないようにと、心をこめて考えだした名前だった。

もちろん、優花との間の恋は、おもちゃのようなものだった。決して本物の恋ではなかった。でも、確かにかすかな何かが存在したのだと、その存在証明を一生をかけて行っていくのだと、雄太は誓っていた。

優花、僕のベアトリーチェ、僕のマルガレーテ、君のことを、一生謳い続けていくよ。天海、君は難病の子供たちを助ける医者になるんだよね。僕たちは二人で3人分の人生を背負っていこう。それが、僕たちのかけがえのない青春の証となるだろう。


青恋。それは静かに始まって静かに消えて、空に漂う蜉蝣のようなはかない想い。でも、その青さは海にも空にも染まらず、確かな中心円を描いている。その円の中心で、青く漂う二羽の白鳥、いや3羽の白鳥を、僕たちは永遠に心に留めていくだろう。


青い恋。それは終わりなき若人の旅路である。


                                   完



 落ち着いた気持ちで取り組めました。静けさと思春期という言葉がキーワードです。しんみりとした世界を味わって、楽しんでくださったのなら、嬉しいです。

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