東との激突
春、雪解けの季節。東部国境地帯の湿地帯は、一つの川を挟んで無数の兵士で埋め尽くされていた。オストライン公国は歴戦の傭兵を中心に三千の兵を揃え、磨き抜かれた武具の金属音が、まるで生き物のように周囲を威圧していた。対する我らブラウエ王国は、農民や漁師から徴募した千人の市民軍。辛うじて装備は行き渡っているものの、塹壕から顔を出し、目の前の精兵たちを眺めるその姿は、まるで物見遊山の途中で戦場に放り込まれたかのようであり、彼らの表情は戸惑いと怯えに満ちていた。とはいえ、心許ない市民軍だけではない。その背後、司令部には、選りすぐりの貴族たちとそのの子弟三百が、精鋭騎兵として控えていた。名目上の総大将は宰相ホルヴェーク。その威容はさすが歴戦の英雄、幾多の戦いを潜り抜けた甲冑の傷が、その勇猛な往時の姿をありありと思い起こさせる。
しかし、全体を俯瞰すれば、その兵力差は歴然だった。何重にも掘られた塹壕からモグラのように頭を出す徴募兵と、傷だらけの屈強な傭兵たち。だが、もはや退くことは許されない。王の御前で、我らは戦うと宣言したのだ。
戦いは、オストラインの先制攻撃で始まった。もともと膝ほどの深さしかない小河川である。雪解け水が加わっても、少しばかり足を取られる程度で、彼らの進軍を足止めするほどの障害にはならないのは明白だった。それでも、わずかでも損耗を強いることこそが、我々に残された唯一の希望である。
気休めにすぎない、そう思いながらも命じた投石は、敵の進軍を僅かに遅らせた。油断もあるのだろう。多くの敵兵が隊列を崩し、川の中央で渋滞している。
「今だ!弓兵、射撃開始!」
二か月の速成訓練とはいえ、弓矢の扱いはそれなりの域にある。敵の第一陣は川の真ん中で矢の雨を浴び、立ち往生する。どうやら指揮官の命令を待っているようだ。 しばらくして陣容を立て直し、整然と、素早く進軍を再開する。素人同然の徴募兵が相手である。何が何でも押し切るつもりなのだろう。
しかし、ここで馬鹿正直に正面から激突するほど、我々は愚かではない。
「退け! 第二線に撤退!」
事前の打ち合わせ通り、我々の第一陣は整然と撤退を始めた。それとほぼ時を同じくして、敵軍の先鋒も、先ほどまで我々が守っていた塹壕の前に到達したのが確認できた。このままでは、撤退中の味方が後ろから刺されかねない。
「第二陣、射撃!」
撤退を援護すべく、後方で待機していた弓兵が一斉に、先ほどまで味方の守っていた塹壕を狙って矢の雨を降らせた。敵の先鋒は再び立ち往生し、川の周囲では敵兵同士の押し合いすら発生している。これは、千載一遇のチャンスだった。
「第一陣、撤退が完了次第ありったけ撃ち込め!」 敵は何も遮蔽物のない川の真ん中で立ち往生である。まさに絶好の的という他ない。次々と川は血で染まり、敵兵の雄叫びが悲鳴へと変わっていく。とはいえ、さすがに学習したのか、彼らは即席の盾でもって防御を固め、占拠した塹壕に陣取った。だが、それは我らにとって好都合だ。彼らの進軍は止まり、時間を浪費させることに成功したのだから。
その夜、敵陣の遙か後方、物資を山のように集積していた川の東側で火災が発生した。空を赤く照らす大火災が、暗闇を鮮烈に切り裂く。本陣は大きな歓声に包まれた。 「やったぞ!」 「オストラインの連中、腰を抜かしてるぞ!」 作戦は成功した。この火災が、いかほどの混乱と損害を敵に与えるか。一縷の希望が、泥にまみれた兵たちの心に灯った瞬間だった。
だが、夜が明ければ、戦場は再びその本性を現した。塹壕の中で、泥と血にまみれた兵たちの呻きが、硝煙の匂いを纏った風に乗って耳に届く。ヒュウ、と空気を切り裂く矢の音。盾に突き刺さる槍の鈍い衝撃音。そして、断末魔の叫び。ここは地獄の最前線だった。 敵、オストラインの軍勢は数でもその質でも我らを圧倒していた。三千の兵がこれでもかと波状攻撃を仕掛け、幾重にも築いた我らの塹壕線を崩し、屍を乗り越え、じりじりと前進してくる。こちらの矢も槍も、確かに敵兵の胸を貫き、その数を削ってはいた。だが、濁流のような彼らの勢いを堰き止めるには至らない。まるで、大地そのものが敵兵を生み出し続けているかのようだった。 司令部の天幕で、私は戦場地図の上を睨みつけながら、奥歯をギリリと食いしばった。
「……もう少しだ。もう少しだけ、持ちこたえてくれ」
地図上に幾つも赤字で記された防御線。それはもはや単なる地図の線ではない。ブラウエの民、生身の命が壁となって敵を防いでいるのだ。彼らの顔が、家族の顔が、脳裏をよぎって離れない。
泥まみれの兵士たちの呻きに混じって、やがて、敵陣から苛立ちに満ちた将の声が響いた。風が、その言葉を我らの陣まで運んできた。 「三千の兵をもって、なぜこの程度の防衛線を落とせぬのだ! 敵は農民だぞ!さっさと踏み潰してしまえ!」 その焦燥こそが、我らが待ち望んだ好機だった。明らかに彼らは疲れ、苛立ち、焦っている。長きにわたる行軍、味方の屍を踏み越える不快感、そして、この泥濘に足を取られる消耗。彼らの士気は、確実に限界まで削られている。
その時だった。我が軍の最前線に、一つの旗が、まるで老いた樫の木のように、敢然と掲げられた。宰相ホルヴェーク。七十を超えた老宰相が、近衛兵の制止を振り切り、自ら泥の中にその身を晒したのだ。
「ブラウエの兵よ! 聞け!」
老いてなお、その声は戦場の喧騒を貫くほどの張りを持っていた。
「諸君らの父祖も、この泥に塗れてこの地を守った! 諸君らの子らもまた、この地で生きるのだ! この泥こそが我らの土、我らの国そのもの! 今ここで退くは、子々孫々までの恥辱と知れ! 耐えよ、勝利は目前ぞ!」
その老いた獅子の咆哮に、泥中で倒れかけていた兵士たちの瞳に、再び光が宿った。震える手で槍を握り直し、雄叫びを上げて立ち上がる。その姿を、私は遠眼鏡越しに確かにこの目に焼き付けた。
時は、来た。私は地図から目を離し、全ての覚悟を込めて決断を下した。
「今だ! ハンス、出陣だ!」
「待ちくたびれたぞ!全く!」
鬨の声が、天を衝き、地を揺るがした。本陣の背後に控えていた丘の稜線に、突如として新たな軍勢が出現する。ニーダーライン候ハンスが率いる、百の精鋭騎兵。さらにその後方から、三貴族――シュミット家の猪、ザクセン家の鷲、シュライベンの狼の旗印が、次々と風にはためいた。彼らの蹄鉄が泥を蹴り上げ、磨き上げられた槍の穂先が沈みゆく夕日を弾く。その光景のあまりの壮麗さに、私は思わず息を呑んだ。
「続け! ブラウエのために!」
先陣を切るハンスの雷鳴のような叫びが、戦場を支配した。三百の馬蹄が引き起こす地響きは、もはや単なる物理的な音ではない。それは、大地そのものが敵兵の戦意を根こそぎ粉砕する、破壊の意志が具現化したようだった。疲弊しきった敵軍は、壊滅寸前のはずの敵陣から突如襲い掛かる騎馬隊に全く反応できなかった。次々と屈強な軍馬に跳ね飛ばされ、騎士たちの長大な槍に貫かれ、築き上げつつあった陣形は、まるで砂の城のように脆く瓦解していく。 その土煙を後方から見つめながら、私は胸の奥が熱くなるのを覚えた。塹壕で耐え抜いた民兵の汗と血。国を守るという一点で矜持を示した貴族たち。そして、彼らを信じ、この決断を下した王の意志――それらが今、この瞬間に一つに重なり、濁流となって勝利へと突き進んでいた。
「……民も貴族も、王も宰相も、この瞬間だけは、確かに一つだ」
夕刻、敵は完全に潰走した。オストラインの軍勢は、その兵の半数以上をこの泥濘に散らし、ほうほうの体で国境へと退いていった。 我らは勝った。多大な犠牲を払いながらも、辛うじて勝ち残った。我らの独立を、そして国の民の腹を満たす穀倉地帯を、守り抜いたのだ。
数日後、首都で行われた凱旋式は、熱狂と歓喜に包まれた。運河沿いの大通りは、人の波で埋め尽くされている。教会の鐘が鳴り響き、バルコニーというバルコニーから、色とりどりの花が雨のように降り注ぐ。泥と傷にまみれながらも、胸を張って行進する兵士たち。人々は歓声を上げ、泣き、その手を伸ばす。彼らの目に、もはや絶望の色はなかった。
やがて、王宮のバルコニーに、純白の軍馬に跨がった王が姿を現した。その声は、魔法のように都市の隅々まで響き渡った。 「聞け、我が愛するブラウエの民よ! この勝利は、誰か一人の英雄のものではない! 泥にまみれ、死の恐怖と戦い抜いた兵士たち、その帰りを信じ、祈りを捧げた全ての民、そして、その礎を築いた偉大なるかつてのブラウエ人たちのものだ! 身分も出自も異なる者たちが、この国を愛するただ一つの心で結ばれた。この尊き団結こそが、我らブラウエの真の力なのだ!」 王はそこで一度言葉を切ると、天に剣を突きつけた。 「我が民こそ、この国の揺るぎなき盾である!」 その声に、民衆は割れんばかりの歓声で応えた。「「「ブラウエ、万歳!!」」」
私はその光景を人波の中から見届けながら、静かに胸中で呟いた。 「これが、我らの黄金時代の始まりとなるのだろう」
だが同時に、心の最も冷えた奥底では、歴史の冷厳な真実が囁いていた。繁栄は、必ずや腐敗を呼ぶ。どんなに強靭な団結も、共通の敵という楔があるからこそ、かろうじて成り立つ脆い幻影なのだと。熱狂が冷めれば、人々は再び互いを憎み、疑い、己の欲望のために争い始める。 「この歓声も、やがては次なる戦の嵐に、かき消される運命にあるのではないか……」 舞い散る花びらの中で、勝利に沸く街で、私は一人、歴史の残酷な一頁をめくるような、重い予感を抱いていた。