エンカウントポイント
あかねに連れて来られたのは学校から歩いて20分ぐらいの大きな川の河川敷。
その川にかかる橋のコンクリートの橋脚のそばだった。
「どうしよ、梨奈ねーちゃん、『助けて』って言ってる子供の声がどんどん小さくなってるの」
焦った表情で友梨奈を紅い瞳で見つめるあかね。
この肌がピリピリする感じ、あの橋脚のそばがエンカウントポイントに違いない。
ここまで迷いもなく最短ルートで道案内したところを見ると、あかねは市内のエンカウントポイントの位置を普段から把握しているのだろう。
まずはとにかくそこまで行って腕のビジョンを見つけないと友梨奈には何も出来ない。
助けを求める腕のビジョンはどこでも視えるわけではなく、あかねとリコが以前からエンカウントポイントと呼んでいる空間だけだ。
友梨奈に理屈はよくわからないが、亜空間を通して助けを求める人のいる地点と繋がっている場所らしい。
あかねはそこを通して人が助けを呼ぶ声やビジョンを遠くから把握できる。
空間に歪みがある影響なのか、木花家の人間はそこに近づくと肌にピリピリした感じとか言葉に出来ない感覚的な違和感がしたりして、その空間がそばにあることがなんとなくわかる。
土手を下りて橋脚のほうに向かって走る、あかね、麻由、友梨奈。
近づくにつれて、青白い子供の腕らしきイメージが空間に出現しているのが視えた。
助けを求めて手を伸ばしてる、と言うよりは力無くぶらりと垂れ下がっている感じだ。
「あぁ、やっぱり、もう時間が無い…」
あかねがそのビジョンを視て暗い声で呟いた。
コンクリート製の橋脚の周りは砂利が敷き詰められた広い空地になっている。
その橋脚のそばの歪んだ空間から突き出た腕のイメージに引き寄せられるようにふらふらと歩を進めていく友梨奈。
「お主もその辺りに何か感じるのか?」
突然橋脚の陰から年配の男の声。
腕のイメージに精神を集中していた友梨奈は、聞き慣れない声でいきなり現実に戻されて、しばらく何が起きたか把握出来なかった。
気付いたら、麻由が友梨奈の前に身体を入れて立ちはだかっている。
麻由の背後から、声がしたほうに恐る恐る視線を送ると、袈裟装束で笠をかぶった僧侶のような年配の男が橋脚の脇に立っていた。
そのそばには野犬が一匹、慣れた感じでちょこんと座っている。野犬と表現したのは毛が汚れていて、首輪もしてなかったからだ。
「おい、娘! 興味本位でそれ以上近付くなよ。この世に未練を残した悪霊に呪われるぞ」
(……つーか、あなたが人を呪いそうな感じなんだけど。時代劇でも無いのにこんな格好してる人が現実にいるのね)
「悪霊? そりゃ空間から青白い腕がニョッキリ突き出てるから、犬神家の腕版みたいで見た目はちょっと気持ち悪いけど、そんな悪い感じは全然……」
「腕、だと?」
友梨奈の発言にちょっと食い気味に反応する僧侶風の男。怪訝な表情で友梨奈が見ている方向を凝視している。
(こんなの相手にしてたら間に合わなくなっちゃうわ。あかねはますます焦って、なんかわちゃわちゃしてるし)
見ず知らずのしかもかなり変な人の前で能力は使いたく無いが、タイムリミットでもう選択肢は無かった。
あの時の約束どおり、きっと麻由がさっきみたいに守ってくれるだろう。
「おい、娘、聞こえないのか? 視えるだけの中途半端な霊力で悪霊に近付くな!」
「おじいちゃん、あれ悪霊なんかじゃないよ。逃げ遅れた小さい子供が助けを求めてる手なの」
あかねは真面目に説明しているが、この人にそんな話が到底理解出来るとは思えない。
さっきの反応から見ると、そもそも腕のビジョンが視えていないように思える。
恐らく霊感は多少あって、それで空間の歪みをなんとなく感じて、この辺りに何か悪い霊的な現象がある、とでも判断しているのだろう。
その結論がこの世に未練を残した悪霊、とはあまりに古典的で乱暴すぎるのだが。
まぁ、もしこのままその子が死んじゃったら、死んだことを認められずに悪霊っていうか地縛霊みたいのになってしまうかもしれない。
無意識に友梨奈の右手が小刻みに震えている。能力を使う前はいつもこうだ。
その手を取ったら、その人の命を託されるような気がして、気が重いからかもしれない。
『普通』のJCなら、日常でそんな責任を託されることなんてない。
まだなんか老人が騒いでるのが聞こえるが、友梨奈は無視して自分の手を橋脚のそばの空間から突き出た腕に向かって伸ばす。
その手の指先に友梨奈の右手の指が触れ、一瞬躊躇した後、覚悟を決めてその手を思い切りぎゅっと握った。
次の瞬間、友梨奈の身体がガクガクと震えて目の焦点が合わなくなる。
「愚かな。素人が無茶なことを。魂を持って行かれたな」
なにかわかった風に語る声が、遠ざかる意識の中で微かに聞こえた。
腕を前に突き出した体勢で放心状態で立っている友梨奈の身体。見開いたその眼は紅く光っている。
わたし、中瀬麻由はこうなった後の彼女の身体を守るって約束したから、この怪しげな年寄りの前に立って防御している。
「あのね、おじいちゃん。魂持っていかれたんじゃなくて、『意生身』っていう霊体で移動して助けに行ったんだよ。パーリ経典でお釈迦様が言ってた、思考で成り立つ身体を生み出す神通力なんだから!」
あかねはまだ頑張って説明しているが、こんなエセ能力者みたいな人には何を言っても無駄だろう。きっと長い年月で凝り固まった自分の中の狭い常識で言い返してくるに決まっている。
「おい、小娘! さっきから『おじいちゃん』は止めろ!」
(んーー、説明の内容じゃ無くて別のところが気になったみたい)
麻由にとって想定の斜め下の反応だったが、結果としてあかねが説得出来なかったってことでは同じではある。
「だって……、どう見ても『おじいちゃん』じゃん」
不満げな顔で小声で文句を言っているあかねを大人気なく険しい形相で睨んでいる僧侶風の男。
(まぁ、あかねちゃんの歳から見たら明らかにおじいちゃんだよね、あなたが正しい)
得体の知れない老人に相対して緊張感のある場面にも関わらず、あかねの発言にクスリと笑いそうになる麻由。
でもこんな老人のことは、今本当にどうでもよくて、麻由にとって想定外の嬉しい誤算があったので気が逸っていた。それはあかねが予想以上に友梨奈の能力について詳しいことだ。友梨奈は自分の能力否定派なので、麻由は彼女の能力の事を知りたくても情報源が無くて困っていた。6歳の時にあれだけの能力を発揮していたのだから、きっと今とかこれから先なんて、麻由の想像を超えた能力を見せてくれるかもしれない。もう麻由はあかねから話を聞きたくてうずうずしていた。
涙でうるうるした瞳で友梨奈の顔をじっと見つめて話しかけてくる男の子。驚きで目を丸くしてただただ男の子の顔を見つめる友梨奈。
小さい子供は大人が視えない霊的なものが色々視えてるって言うけれど、本当なのかもしれない。
そのうち成長するといつの間にか視えなくなって、視えていた頃の記憶も無くなっているため真偽の検証は出来ないが。
自分の能力もそんな感じで成長と共に消えてくれれば良かったのに、と友梨奈は思う。
大事な記憶は消えて、呪われた能力の方が残るとは……。
繋いでいない方の左手で男の子の頭を優しく撫でる。
「ママは後で迎えに来るから。今はおねーちゃんと一緒にここから逃げようね」
「何でだろ。いつもママの声、おばあちゃんの声、みんなの声は聴こえないのに、おねーちゃんの声は良く聴こえる」
(! この子、普段耳が聴こえないのね。わたしと頭の中で会話してるんだ)
この子が逃げ遅れたのは火災警報や周りの人の叫び声が聴こえなかったからだったようだ。
まさか自分の能力がこんな風に働くとは想像したことも無かった。試してみたら他にも何かあるかもしれない。
その時、男の子が激しく咳き込んだ。今は余計なことを考えてる余裕は無かった。今の事象に集中しなければ。
煙を吸わないようにハンカチでも渡せれば良いのだが、この身体では物質を持ち運び出来ない。着ている制服もただのセルフイメージで、ポケットも見掛けだけで当然何も入ってない。
煙を避けるため、とにかく低い姿勢で屈んで、男の子の手を引いて煙が立ち込める中を進んで行く友梨奈。
(当てずっぽうで逆に火元に近づいていなきゃいいけど……)
あれこれ考えても今は何も情報が無いからとにかく勘で進むしかない。じっとしていてもいつか煙に巻かれてこの子が死んじゃうだけだ。
周りの煙はどんどん濃くなる一方で、それにつれて進む方向への友梨奈の確信は弱まって、前へ進む歩みはゆっくりになっていく。
造りはマンションの部屋の中っぽいが何階なのだろう。間取りも分からなければ、部屋の中での自分の位置もわからない。
(火元は別の部屋?別の階? まさかこの部屋?)
火事の中で逃げるのにあまりに情報が無さ過ぎる……。
(前みたいにあかねと連絡を取ったら?……)
いや建物の透視が出来なければ、わたしたちのいる階や火元の位置なんてわからないだろう。
あかねが透視力を持ってるなんて話は聞いたことが無い。
(もう! 助けに来たっていうのに、何やってんの、わたし。早くどうするか決めないと)
繋いだ手を見ると小さい手の指先が友梨奈の手の甲に少し食い込むぐらい強く握り返してきている。
(バカ……。こんなに頼ってくれているのにこっちが弱気になってどうするのよ!
この子の手を一旦離して、自分だけであちこち探りに行って逃げ道を見つけたら?
……無理か、この煙の中で手を離して移動しちゃったら、もうこの子を二度と見つけられないかもしれない……)
そうなったら絶望的だ。そもそも助けを求める手を媒介にしてここに来ているため、その手を離したら実体の方の身体に戻ってしまう可能性だってある。
どれぐらい手を離していられるか、はこれまで実験したことが無く未知の領域だ。
覚悟を決めてさらに数歩進むと、ようやく廊下の終わりを示すドアがあるのが煙の合間から見えた。その先には希望があるかどうかまだわからない……。
右手の感触がさっきまでと違うことに気付き、慌てて繋いだ手の先を見る。
指の圧力を感じないと思ったら、男の子はぐったりして動かなくなっている。
煙を沢山吸ってしまったのかもしれない……。手に温かみはあるから命の危険はまだ無いと信じたい。
(こんな時私にもっと他の六神通の能力があれば、なんとか出来たかもしれないのに……)
普段は能力なんか要らないといつも主張している友梨奈だったが、この場では人を助けたい一心で矛盾に満ちたことを望んでしまっていた。
「マ、ママ……ママ……」
うなされるようにか細い声で繰り返し母親を呼ぶ男の子。
その様子を見て、内心では泣きそうな状態を超えて号泣状態に近くなっていたが、外目から見た友梨奈の顔は全く無表情で変わらない。
「……本当にゴメン、私に力が無くて」