麻由 vs 碧
廊下の一番奥の左手にある引き戸を開ける碧。
「実はね、この部屋は木花家の人間しか入れないように強力な結界が張ってあて、もし麻由
ちゃんが一人で入ろうとしていたら危なかったんだよね。手前で止められて良かったわ。危うく親御さんに顔向け出来ないところだった」
(え、ちょっと待って。梨奈そんな重要なこと一言もわたしに説明してなかったよね。危なかったってどのレベルで危なかったんだろ……)
親御さんに顔向け、などという大袈裟な表現を使うのは明らかに軽症レベルじゃないことは分かる。けど麻由には怖すぎて危険レベルの詳細を聞く勇気が無い……
「大丈夫、大丈夫。常人だったら一瞬で脳神経が全て焼き切れて心臓止まって逝っちゃうレベルだから。痛さとか苦しさとかは全く感じなかったはずよ」
碧の説明を聞いた瞬間、足がガクガクして下半身にまるで力が入らず、立っていられなくなる麻由。これこそが俗にいう『腰が抜ける』って体験なのかもしれない。 JCで腰が抜けた体験するってかなり貴重かも、SNSで呟いたらいいねが沢山……と一瞬考えてそれを頭の中で振り払う。いやいやそんなこと言ってる場合じゃない。これはきっとリアルな命の危険があったことに向き合うのを脳が拒否して現実逃避してるのだろう。
大きく深呼吸を数回して少し平静を取り戻すと、頬から首元までが生暖かく濡れているのを感じ、さっきから涙が止まらなくなっていたことに初めて気が付いた。麻由にとってそれほどの恐怖だったのだろう。
「わたしが入った時点で結界は一時解除されてるから大丈夫よ。ほら、怖がらないで早く入って」
笑顔で麻由においでおいでをする碧。
麻由にはもはやその笑顔が何かを企んでいる邪悪なものにしか感じられなかった。逃げ出したいのをグッと堪えてゆっくり一歩を踏み出す。
入ったその部屋の中はかなり薄暗く、初めての麻由には部屋の広さや構造がよく分からなかった。
照明が一番奥にある床の間の蝋燭一本だけのせいだろう。その床の間は暗い中で浮かび上がっているかのようによく見えた。真ん中で異様な存在感を放っているのは腕が六本ある観音像。麻由は後で知ったのだが、それは不空羂索観音菩薩というらしい。
その手には友梨奈から預かったものと同じ形の羂索、その他の五本の腕には錫杖、鉾、剣、払子、三鈷がにぎられている。観音像は50センチぐらいのサイズなので、持っている持物は人が扱う道具のサイズではない。その像の周りに人用サイズの持物が別に飾られている。縄状の物を掛けやすそうなハンガーっぽいものが置いてあるから、羂索はそこが定位置なのだろう。
「あの、観音菩薩って人を救ってくれる優しいイメージなんですけど、手に持ってるのは物騒な武器系が多いんですね」
人用サイズの鉾や剣はよく磨いた鋭利な刃が切れ味を誇るようにギラギラと光沢を放っている。救うというよりは殺傷能力が高そうな代物だ。
「そうね。仏教の世界で戦いを担当する神は大抵明王や天部とかなんだけど、時代によっては観音菩薩といえど戦わないと人を救えないという解釈もあったから、うちに伝わってる観音菩薩像は武器系の持物を多く手に持ってるわね」
原寸大の武器があるということは、これまでの木花家の人もこれを使って戦ってたってことなんだろうか。麻由としてはあかねや友梨奈がそんな能力の使い方をする姿は想像出来ないし、して欲しくないと思う。
「あくまで仮想の仏敵と戦う設定の武器だから、別に人相手に使って戦うわけじゃないのよ。それに伝え聞いてる範囲ではうちの先祖が武器を使って戦ったって記録は無いわ」
安堵の表情を浮かべる麻由。友梨奈がヒロインっぽく成長して人を大勢救うところは見たいが、戦いの方向に能力を開花させて、他人と戦って傷つけたり傷ついたりする姿は見たくない。
想像していたものと実際に見れたものが大分違ったので、麻由はもうこの部屋に興味を失ってきていた。でも碧にはどうしても聞きたいことがある。教えてくれるかどうかはわからないが。
「あの……、碧さん、二つ教えていただきたいことがある、んですけど……」
「何? そんな改まって。わたしが答えられることならなんでも良いわよ。あ、若見えの秘密とかかな?」
「いえ、それも凄く知りたいんですけど、まだJCなんで大丈夫です」
麻由の顔をじっと見つめて納得顔で頷く碧。
「あの、友梨奈さんの両親が亡くなったのって……」
「もしかするとわたしが遭った海難事故が関係してますか?」
「どうしてそう思ったの?」
「友梨奈さんの記憶が無くなった時期が、5、6歳の頃って聞いてたし、わたしを助けてくれた時、ずっと泣きながら謝ってたので、その時何かあったのかな、って……思ったんです」
「なるほど。もしそうだったとしても麻由ちゃんが気にすることは何もないんだけど……」
「事実をそのまま言うと、梨奈の両親の死とあの事故は何も関係無かったわ。時系列的にそのあと期間が開いた後に起こったことだったし」
碧の言うとおり麻由が気にするべきことじゃないが、その頃の心の傷が今の友梨奈の感情表現に影響しているなら、なんとか癒してあげられないかと思う。
そしてもう一つも友梨奈と友達でいるためにどうしても知っておきたい。
「わたしが神通力を使えるようになったり出来るんでしょうか? 血筋とか遺伝とかじゃないと無理ですか?」
すぐには答えず麻由の顔をじっと見つめる碧。
軽率なことを聞いて碧を怒らせてしまっただろうか。でもおそらくこの質問に答えられるのは碧だけだし、どうしても答えを聞きたい麻由にとってはチャレンジするしかない。
「麻由ちゃんも人助けするやり甲斐に目覚めちゃった? 梨奈は嫌がり過ぎだけど、能力を持つことのデメリットも結構あるのよ」
言われるまでもなく、そのことは能力のダークサイドとして麻由の心にしっかり刻まれてきている。友梨奈は小さい時に記憶と感情を失っただけで無く、両親も亡くしているし、従姉妹のリコも行方不明になっている。
「わたしが能力を発揮したいわけじゃ無くて、能力を使っている友梨奈さんをちゃんと見守るために、能力が視えるようになりたいんです。小さい時は助けに来てくれた友梨奈さんがハッキリ視えたのに、今は何も視えなくなっちゃって。そばにいてもなんかただの傍観者みたいになってるのが嫌なんです」
心に溜まっていたものを一気に吐露してしまった麻由。その心の叫びは碧にはどう響いたのだろうか。
「麻由ちゃんはいつも考え方が真面目ね。だからわたしもちゃんと答えると、うちの家系みたいに代々神通力が発現しているのは遺伝とかの要素が強いと思うんだけど、記録によると様々な修行を積んで後天的に神通力を身に付けて来た人や集団も存在しているの。だから答えとしてはイエスね、麻由ちゃんにも可能性はあるわ」
聞きたいことは聞いたし、そろそろこれを元の位置に返して家に帰ろう。
羂索をギュッと握り直し、奥の床の間に向かって進もうとする麻由。その時なぜか自分の手元に碧の視線を強く感じた。なんだろう、まさか、この持物に今までに無かった傷が付いていたとか。もしそうだったとしても麻由に責任追及するのはお門違いなのだが。
「麻由ちゃん、見かけによらず良い筋肉してるのね。あ、見かけっていうのは女子力高そうなっていう意味だから」
見られていたのは麻由の前腕部の方だった。そういえば友梨奈を運ぶ時、袖が邪魔で腕まくりしていたので結構腕を露出していた。
「護身系の格闘技とか、筋トレとか始めたので。そのせいですかね?」
あの時友梨奈の身体を守ろうと決意した時、ただ麻由がそばに居るだけでは場合によっては守れないかもしれないと思った。自分のポリシーとして口先だけの人間には絶対なりたくない。そんな想いが麻由を突き動かして日々体を鍛えていた。
「あなたは本当に見かけ以上に中身がカッコいいわね」
麻由の手から羂索を取り、自ら奥の床の間に向かって行く碧。その間羂索をまじまじと見つめている。やはりさっきの視線は麻由の腕では無くて、羂索の状態が気になってたのではないだろうか……。麻由の疑念と懸念はなかなか晴れなかった。
カーテンの隙間から溢れる日差しがベッドの上の友梨奈の顔をやんわりと照らしている。
あと一時間もしたら、もう秋なのにまだ真夏のような強力な日差しで顔が熱くて寝ているどころではないレベルになるだろう。幸いそうなる前に友梨奈はぼんやりと目を覚ました。
見慣れた自分の部屋の景色。寝ている場所も寝慣れた自分のベッドの上だ。
ここまで帰ってきた過程の記憶が友梨奈には全く無かった。何か思い出さなければならないことがあった気がする。ベッドの上で寝転がったまま、視線だけで部屋の中を見回し、思い出すキッカケを探してみる。テーブルの上に昨日のシャツとインナーが綺麗に畳まれて置いてあるのが視界に入った。どうせすぐ洗うものなので自分ではそんなことはしないし、碧も部屋で見つけたら畳まずに洗濯かごに入れるだろう。
(そっか、麻由がここまで運んで着替えさせてくれたのか)
朧げに格好悪い姿勢で自転車で運ばれていた時の記憶が甦ってきた。そっちは忘れたかったのになぜ真っ先に出てくるんだろうか……。そしてまだ思い出すべきことが何なのか、それに繋がるヒントは出てこない。
(そっか、麻由から何かメッセージが入っているかもしれない)
麻由に朝起きたらまず携帯を確認しろ、という指導を受けていた。それが『普通』のJCになるための基本の一つらしい。しかし友達が麻由一人だけの友梨奈にとって、まめに携帯をチェックする必要性はよく分からなかった。なので今回初めてと言っていいぐらい、自発的に朝携帯をチェックすることになる。
メッセージアプリにもメールボックスにも広告系のジャンク以外何も届いていなかった。
(やっぱり携帯チェックする意味なんてないじゃん)
世の中は誰も友梨奈に関心なんて持っていない、そう言われた気がした。二度と携帯なんか見るかと思った矢先、軽快な着信音が鳴った。
麻由からの新着メッセージだ。
(やっぱり携帯はちゃんとチェックするべきかもしれない)
いつもの友梨奈であれば、学校に登校した後で麻由に未読のメッセージについて厳しく追及されていただろう。
「ゴメン、梨奈。 ミッション失敗した。 やっぱ碧さん凄いわ」
思わず反射的に「何のこと?」って返信を打ちそうになって踏みとどまった。この文面から見て友梨奈が麻由に何か頼んで、それに関して麻由が失敗した、ということらしい。そこで依頼者側がそんなメッセージを送った日には終日説教は免れないだろう。
(麻由、見かけのわりに怒ると怖いからな……)
自分が何を依頼したのか、この段階でも全く記憶が甦らない。すぐに返信するのは諦めて、携帯をベッドの上に一旦置いた。その動きの中で自分の左の手のひらが視界に入り、手のひらと指の腹に縄のような線が微かに残っていることに気づいた。
(これって、羂索?)
そうか、さっきの麻由のメッセージは羂索のことかもしれない。そういえばこの部屋の中に昨日あかねが持ち出した羂索が無い。あかねの罪を被って自分が返すことにしたところまでは覚えているが、もしかすると友梨奈が途中で気を失ってしまって、麻由がその代わりを務めてくれた、というところか。
どういう形で失敗したかは分からないが、きっとあの部屋に入る手前であっさり碧に見つかってしまったのだろう。でなければ強力な結界で麻由が無事だったはずがない。
「相手があれだからしょうがないよ 代わりをしてくれてありがと、麻由」
多分正解と思われる返信を打って、ほっとしてベッドに寝転がる友梨奈。
子供の頃、碧から「友達をこの部屋に近寄らせたらいけないよ」と時折り注意されていた。
その時はずっと友達なんて存在はいなかったから、友達を作れって言う遠回しの命令か、ある種の嫌がらせかと友梨奈は思っていた。そして実際に友達が出来た肝心な時にその忠告は忘れてしまっていた。
この事に限らず、色々異常な事がある木花家に麻由が関わり続けるのはこの先危険かもしれない。とはいえ、学校でもプライベートでも、麻由が居ない生活は友梨奈にはもう想像出来なくなってきていた。