第1話 祈りのかたち
祈ることすら、許されなかった。
渡された鎖の重みが夜闇に鳴り、呼吸が詰まる。
雨音を背に、これが教会の正しさなのか自問した。
※
「ふざけるなよ」
アイルが声を荒げたのは、この時がはじめてだった。
金の瞳を丸くして、ラグナがアイルを見ている。それでも、言葉は口からこぼれ落ちる。
「ああ、確かに俺は覚悟し、契約を承諾した。改宗、服従、従順、教義の強制。これらを、俺が受け入れてやると決めた。だが」
アイルはそっと自分の足元に視線を落とす。
「……これだけは、強制されたくはなかった」
たとえ従うとしても、それは、自分の意思でなければ意味がなかった。
拒絶もできた。反抗もできた。だが、アイルは選んだ。
この身を拘束する枷でさえ、自分の意志で受け入れたと記録されるなら。それが、アイルにとっての最後の矜持だった。
まとう黒衣は、聖職者の礼装を模した艶のない布地で仕立てられていた。
(服は、仕方ない。だが……)
これに袖を通すだけで、従順な異端者だと見られる。アイルの本心に関わらずだ。
それでも、自分の意思で着ることを選んだ。
「祈れない靴は、嫌だ」
何よりアイルが我慢できなかったのは、靴の存在だ。
足首まで覆う構造に、硬い靴底。衝撃を和らげる工夫もなく、祈りの姿勢では無理が生じる。
「走る自由も、祈りすらも奪う靴だ。人間に履かせる物じゃないな。ああ、俺は人ではないもんな」
そこまで言い切って、アイルは咄嗟に口元に右手を寄せた。言葉の手綱を、完全に手放していた。
「……悪かった」
過ちを自覚して、アイルは嘆息した。
視線を伏せる。両手首には、黒革の枷があった。
「お前が、俺に強制したわけじゃないって理解してる。主導してるのは――あいつらだって、わかってる」
自ら選んだ枷。それを、アイルは受け入れていた。共犯の証として。
「いや。アイル、すまなかった。俺から求めた契約なのに」
ラグナがそう呟いた。
アイルの言葉は刃のようだった。
少年の怒りが返ってくると、そう思っていた。
「……俺の読みが、甘かった」
ラグナが口元をかすかに歪めた。悔しさと責任、それらを噛み締めるような声音だった。
アイルは一瞬、反論の言葉を見失った。
「鎖も靴も、問題にならないと思ったんだ。話せばわかるって。……議会が、ああも話が通じないとは」
ラグナの視線が、床に向けられていた。
窓の外から届く雨音に、かき消えそうな小さな声量だ。
「いや、俺が言い過ぎた」
天を仰いで、アイルもそう告げた。
百五十も離れた子供に、感情をぶつけた自分が、情けなかった。
「契約を尊重し、俺のそばにいてくれていることを、ちゃんと理解している。だから、お前の話を聞く。俺の前で我慢しなくていい」
ラグナの言葉に、息を呑んだ。
(気を遣わせたな)
それっきり、会話が途切れる。
ラグナは何事もなかったかのように、書類に向き合いはじめた。目を通し、署名し、必要に応じて私印を押す。
雨粒が執務室の窓を叩く。ここ数日、ずっと雨天が続いていた。
アイルは黙って少年の横顔を見ていた。
ラグナは、良く手入れがされた金髪を耳に掛けていた。時折考え込んでは別の書類を手にする。迷いもなく署名するラグナの手つきに、どこか違和感を覚えた。
この少年が、何を背負っているのか。そう考えた時、アイルは自分が、ラグナについてほとんど知らないことに気づいた。
机に広がる紙の海が、少年の重さを物語っているようだった。
今のラグナを、もっと知りたいと思った。
程なくして、執務を終えたラグナがペンを置いた。
長い沈黙を破るように、問いを投げる。
「それで、読みが甘いって何だ。お前、二百年ぶりの正統教皇だろ?」
「ああ、表向きはな。だからだよ」
少年は自嘲気味に笑った。
彼の瞳には、孤独の色がある。アイルはふと、そう思った。
「まさか今更。二百年も経ってから、俺が生まれるとは。誰も、思ってなかったんだ」
「まぁ、確かに。俺も否定しにくい」
アイルが生まれた時にはもう、教皇の席は空白だった。次がいつか、気にしていなかったと言えば、嘘になる。
「だろ? 教皇である俺も、そう思う。なぁ、お前たちはどれだけ待ったんだ」
「俺がお前くらいの年齢の時には、みんな待っていたよ。旅の途中、嘆きを聞いたこともある。『もう、神は私たちを見放したのだ』ってな」
アイルは、その声を今も思い出すことができた。
雨に濡れた街角、老婆が廃れた祈りの像を抱きしめていた。神の名を呼びながら、それでも返事のない空を見上げていた。
その声を聞くたびに、アイルは「違う」と否定し続けた。そんなはずはない、と。
長い空白の時を経て、誕生したのが『ラグナ』という希望の光だった。
ラグナは「そうか」と答えると、背もたれに身を預けるようにして目を閉じた。
一瞬だけ見えた白い装束の袖口が、インクで黒く汚れていた。
「最初の話に戻るけど。神の器とされたこの金髪と金眼でさえ、制度の歯車ひとつ動かせない。それが今の教皇だよ」
どこか疲れた様子で、ラグナはその背景を語る。
「空位時代は、どう回してたんだ?」
「代理が立っていた。元より、神の器が誕生する確率は低い。百年間空位、なんてざらにある。だから、教会は教皇がいないことを前提にした制度を作った」
ラグナのその言葉は、事実以上に虚しさを孕んでいる。
「象徴抜きで制度を積み上げたわけ、か」
抑えきれずに漏れた声は、アイルが思っていたより冷え切っていた。
「……どうやって教会を回してきたのか。ずっと疑問だった。知りたくない話だったな」
神の器は、人を導く光だったはずだ。
現実の教会は、神の名を掲げながら、器を制度で否定している。
もはや祈りは、仕組みに組み込まれるものだった。誰かを救うためのものではなく、誰かを黙らせるためのものとして。
アイルには、それが単なる合理性ではなく、信仰の敗北に思えた。信じていたものに裏切られた気持ちを、思い出してしまう。
ラグナはその様子を見て、小さく笑った。
「俺が生まれるずっと前に、こうなってしまったんだ」
「だいたい理解した。お前、実権なんてほとんど持ってないな? ――ああ、だからか」
ラグナの机に山と積まれた書類に、アイルは目を向けた。アイルが執務室に足を踏み入れた日から、ずっとこの少年は紙の束と格闘していた。
「ラグナは、まだ十五だろ。年齢に対してやたらと、報告書の処理が多いと思った」
「実務の権限を取り戻した。最初は教皇印による承認。その後は承認を拒否した。これは俺の領分だからな」
その言葉を聞いて、アイルはふと扉に視線を向けた。今は、何もない。
「教皇印ってあの、扉を封じていた?」
名を捧げた日に、見た記憶があった。
中央にはアイルでも知っている、太陽神を意味する紋章。淡く金色の光をまとっていた。
「あってるけど、お前の誓約書の承認にも使ったぞ。――教皇による絶対承認。不可侵とされる。それに手を出した時点で、俺への反逆になる」
少しだけ低い声で、ラグナは告げた。
たしかに。あの印を破るのは、アイルでも難しいだろう。興味本位で見たが、すぐに諦めたくらいだ。
「あの印……そもそも、手を出せるのか? 構成を見ても、俺ですら理解出来ない部分があった」
「教皇印を破ったら、俺でも庇いきれない。死にたくなければ絶対にやるなよ。――話を戻すけど、だからこそ俺は全部に目を通してる。俺の印は、責任の証だ。もう、上層部も誤魔化せない。そういう段階に来てる」
権力の座に座っていても、実権は持たない。ただの印を、己の責任として握る。
それは、子供のする選択ではない。だが、ラグナはその覚悟で、神の名を背負っていた。
ラグナは、好戦的な笑みを浮かべながら、アイルを見た。
「十六になるまでは政治に関与できない。だから、俺はまだ飾りとして扱われる。……だが、その日まで、もう半年を切っている」
「革命でも起こすつもりか?」
からかうように返すと、ラグナは年相応の笑顔を浮かべる。アイルはその笑顔を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「人聞きの悪い。教皇が祈りのかたちを取り戻して、何が悪い?」
雨音が、ひときわ強くなった。
信仰は形ではないと、アイルは何度も否定してきた。だが、形がなければ届かない祈りもある。そう思ってしまう自分が、少しだけ悔しかった。
それでも、今この手で守ろうとしているかたちだけは、たしかに祈りだった。
アイルは軽口を叩こうとして、その気配に気づいて口を噤んだ。唇に指を当て、沈黙の意図を示す。
「――陛下、よろしいですか」
ノックと共に、記録官エルヴィンの声がする。
ラグナが一度アイルを見る。だから大丈夫だと頷いてみせた。
「構わない。入っていいぞ、エルヴィン」
ラグナが姿勢を正し応えを返す。
アイルは一度目を伏せ、左手を握った。
(大丈夫だ、やれる)
ちりと銀鎖の音が耳に届く。音はごく微だった。けれどアイルには、それだけで十分だった。
教皇の従者として、今の自分をもう一度定義し直す。
その鎖は、誓いの証でもあるのだから。
やがて、扉が開く。
見慣れた黒衣が視界に入った瞬間、アイルは無意識のうちに背筋を正した。
エルヴィン・ノクス・フィデス。
虚構で組み立てられた『アイル』の正体を、ただ一人、暴くかもしれない記録官だ。
金茶色の髪が肩に流れ、眼鏡の奥の琥珀が鋭く光っている。
剣ではなく、記録で人を追い詰める男。
見逃される嘘など、なにひとつ存在しない。
エルヴィンが一礼した瞬間、空気が変わった。
「陛下、まずはご報告を」
「聞こう」
形式通りラグナに報告の姿勢を取った。読み上げられるのは、ここ数日ラグナが行った執務について。
それから、
「先日の、アイルに関する記録について。こちらもご報告があります。アイル、貴方に質問しても良いですか?」
唐突に名を呼ばれて、アイルは息を飲む。
その瞬間、室内の空気が少しだけ重くなった気がした。
エルヴィンの視線の重さは、明らかにアイルに向けられていた。
全てを見抜くかのような、その目線が少しだけ怖かった。
それでも、アイルは沈黙を選ばない。
喉が焼ける。逃げられない。
「……はい。どのような内容でしょうか」
仮面を崩すな。声にするな。
だが、手の内には確かに熱がこもっている。