幕間 定義 -Definition-
「それで」
と、印を押した誓約書を大切そうな手付きで引き出しにしまい、ラグナは言葉を継いだ。
かわりに、真っ白な箱を取り出す。
「さっき、お前が話したのは本当か?」
対するアイルは、ペンを手放し椅子に深く背を預ける。
「言っただろう?」
一拍。藍の瞳が、ラグナの金の瞳を見つめた。
「俺は嘘を吐かないと。俺は『アイル』を、そう定義しているからな。だから、全て信じろ」
どちらが主かわからない。
そんな従者の言葉に、ラグナは思わず笑いをこぼす。
「お前は、言葉に意味を詰め込みすぎなんだよ。計算なのか、素なのか、どっちなんだ?」
「言葉の意味、ねぇ」
短い嘆息の後、アイルはそうだなと天井に視線を向けた。
ゆっくりした動きで、人差し指が肘掛けの上を叩く。
「……教会相手に本音で話すほど、俺は愚かじゃない。沈黙さえも、都合良く定義される。だから、誰にも歪められない言葉を、俺は返すしかない」
そう言い切って、アイルは再びラグナへ視線を向ける。
「納得したか?」
「ああ、十分に。アイル」
逡巡し、ラグナは箱を手に取ると、アイルの前に押しやる。これを、アイルに強いる、最後の提案にしたかった。
「……着けるかどうかは、お前が決めていい」
少しだけ、息を詰めて言った。押しつけだと思われたくなかった。けれど、願っていた。
怪訝そうな表情を浮かべたアイルが、警戒を隠さず、慎重な手付きで箱を開け。
息を呑んだ。
銀鎖が触れさらさらと音がする。
「見かけ上は魔力封じ。だけど、本当に封じられているのは……他人の不安だけだ」
ラグナはそう補足した。
それは手枷だ。
黒革に、魔力を封じるための紋様が刻印されていた。
「なるほど、ね」
どうにか絞り出したような、低い声でアイルが続ける。
「俺を……自由にするって方が、無理か。安心したいんだろ、あいつらも」
手枷には、短い銀の鎖がつけられていた。
拘束には何の役にも立たない、形だけの装飾として。
「……ああ、そう思ってくれて構わない」
ラグナは一瞬目を逸らしかけ、すぐにアイルを見つめ直す。
「俺は、どちらを選んでもお前を守る。契約も、履行している。今は監査名目で停止しているが、必ず上層部に要求を通す」
「本当に、今日は分が悪いな。俺が従ってやってるつもりでも、お前に踊らされてるような気分になる」
舌打ちと共に、アイルが手枷を手に取る。
「こんなもの、俺には効果がないのに。あいつらは、見せかけの従順で安堵すると? はは、だがいい。この程度で世界を欺けるなら――なぁ、ラグナ」
名を呼び、アイルは手枷を共犯者たるラグナに渡した。
「なら、お前が俺に着けろ。俺と共に罪を背負え。お前も、あいつらを欺いてみせろ」
ラグナは言葉を失い、手枷を見つめた。
短い鎖の先にある重みを、今、指先で確かに感じていた。
手が震えそうになるのを、ラグナは隠した。
締まる喉から、必死に言葉を紡ぐ。
「感謝する、アイル」
アイルが差し出した左手首に、ラグナはそっと右手を重ねる。それは、揺るがぬ信頼だ。それに報いる、誓いの意思を示す。
「俺が、主としてその虚構を背負う」
一呼吸の間、ただ隠せなかった指先の震えを見つめていた。
「気にするな。お前が命じていたなら、俺は受け入れなかった。その意味がわかるな?」
ぱちんと、手枷の金具が音を立てる。
アイルは表情を変えず、ただ一部始終から目を逸さなかった。
「わかってる。わかっている。これが、最後だ」
これだけは、最後まで選ばせたかった。
それは、嘘を吐かないと誓ったアイルに対する、敬意でもあった
けれど、その重さに、ラグナは今さら気付く。
彼は、主として守るつもりでいた。
だからこそ、守るとは、命を差し出すことだと信じていた――そのはずだった。
だがこの日、手を差し出したのはアイルだった。
教会を欺く。それは、ラグナの立場では背信に等しい。
「俺は、ラグナ・ルクス・エテルナは、この名に誓う」
それでも、ラグナはアイルと共にいたかった。
教皇としてではなく、ラグナとして、あの藍色の瞳で見て欲しかった。
だから。
「お前の献身に、敬意と感謝を捧げる。……契約に基づき、お前を庇護し、必ず、果たす」
言葉で、契約をそう再定義した。
これは嘘じゃない。
真実を語れない世界で、沈黙を選ぶための選択だ。
※ ※ ※
俺たち二人は定義する。
この契約は、明日へ進む光となる。
我が名と祈りにかけて、世界を定義し直す。
それは、従属ではない。欺きでもない。
誰もが奪われた「選ぶ」という自由を、再び手にするための、定義だ。
1.定義:誰が、どのような目的で行うかを定めること。
契約と己の再定義。