第7話 虚構と真実
俺が語る全ては真実だ。
語る全てに偽りはひとつもない。
少なくとも、この場の俺はそう信じて振る舞った。
※
記録官の手は、ずっと文字を記していた。
金茶色の髪に、琥珀の瞳。ラグナより十は年上に見える。だが、外見だけならアイルと同世代と誤認されても不思議ではない。
けれど、眼鏡越しの目は、決してアイルから外れない。その眼差しは、沈黙の意味すら逃さないと、眼鏡越しに語っていた。男の左手首の銀十字が、チリと音を立てる。
彼の名は、エルヴィン・ノクス・フィデス。
信義を照らすために真実を記録する者。
アイルは男の名を聞いて、そう理解していた。
記録官は、教会における記録のすべてを預かる役職だ。
そしてエルヴィンは、教皇ラグナの副官でもある。
事実を裁くのではなく、記すために立ち会う者。
アイルが見る限り、エルヴィンには敵というほどの害意はなかった。ただ味方でもない。
純粋に、アイルの言動の真意を見極めようとしている。
もしアイルの嘘を見破られたならば、この男は真実を吐くまで追及してくるだろう。
少なくとも今は、警戒対象だと、アイルは認識していた。
「では最後に。あなたは禁呪を扱える。今、この場で使おうとは思わないのですか?」
――ほら。
アイルは心の中で笑った。
エルヴィンが、アイルの倫理観という天秤に、そっと手を伸ばした。
琥珀の瞳は、無造作に机の上に置かれた手枷に向けられている。それはつい先ほどまで、アイルの手首を拘束していたものだ。折られた袖口から覗く自身の手に、今はその影はない。
封じを込めた手枷を外せるのは、あの場にただ一人、教皇だけだった。
「……なかなか、無礼な質問をされるのだな。ええ、今は拘束がない。確かに、使おうと思えば使えます」
アイルは、大げさに息を吐いた。
「ですが、俺には使う理由がない。必要があれば使うでしょう。だが、今はその時ではない。それでも、まだ足りませんか?」
わざとらしくラグナの方へ一瞬だけ視線を滑らせ、
「あなたも祝福使い、でしょう?」
言外にお前以外にもう一人いるよなと示し、再びエルヴィンの琥珀色の瞳を見つめる。
誰もが言葉を飲み込み、ただ視線だけが交錯していた。
エルヴィンも、ラグナも口を開かない。
痛いほどの静寂に、アイルは笑ってそのまま言葉を継いだ。
「ああ、安心して、事実を述べたまでだ。奇跡を目撃せずとも、立ち振る舞いを見ればわかるよ。あなた方は祝福を扱うための訓練を受けたことがある。でしょう?」
これだけは、偽れなかった。
「あなた方が、無闇に聖句を唱えないのと同じです。俺にも俺の規範がある」
そんなことは、アイルの矜持が許さない。
だからこれは、混じり気のない、純然たる真実だ。
見ればわかる。
教会の祝福使いたちの立ち振る舞いには、整えられた痕跡が随所にあった。言葉の選び方、その身振りひとつに至るまで、教会の色に染め抜かれているように見えた。
否定も反論もなかった。
琥珀と金、二つの目がアイルに向けられている。
その沈黙を肯定だと、アイルは都合良く解釈した。
「記録官殿」
エルヴィンの疑念を宿した瞳が。
ラグナの承認の意思を込めたまなざしが、揃ってアイルを見ていた。
その意図を理解したからこそ、アイルはエルヴィンへ呼びかける。
琥珀の目がアイルを見つめる。
握られたペンが一言も逃さないと、構えられている。
「どうか俺の瞳の色を記録し、覚えておいてください。この藍は、俺の誇りの色。俺は、これを損なう事を決して許さない」
今は何もない左手首に右手を重ね、胸の前で祈るように掲げる。そこに刻まれたはずの信仰はもうない。
「しかし、この瞳が不名誉な灰を被ることで救えるものがあるならば、たとえ可能性に過ぎずとも、俺は一切の躊躇を捨て使うだろう、と。私は、私の名において規範の元に行使すると誓う」
アイルは、その仕草を忘れていなかった。
エルヴィンの手首で銀十字が揺れる。
その銀十字は、太陽神の信徒の証だ。信仰の証を、皆左手に宿すのだ。教皇ラグナも例外ではない、金十字を宿していた。
だからこそ、この仕草が何を意味するのか。
二人とも、痛いほど理解しているはずだった。
「俺が力を使わない理由は以上です」
これで、アイルの言葉は尽きた。
それでも理解されなければ、もはや何を言っても無意味だ。
どうか伝わってくれと、重ねた手に力がこもる。
アイルは静かに目を伏せて、裁定を待った。
※
まるで、空気が音を飲み込んだかのようだった。
ラグナはゆっくりと息を吐いた。
――腹を括れ。嘘を吐かない。
アイルのその言葉を、ラグナは信じた。
今までの沈黙は、アイルに対する信頼だ。
だから、言葉を発さなかった。
教皇の声は、神の声に等しい。
ラグナの意図に関わらず、人々はその神の声に、意味を見る。
ラグナがアイルを庇うということは、エルヴィンに要らぬ疑念を持たせることを意味した。
「さて、エルヴィン」
だから、信頼を言葉で返す番が来た。
アイルが、祈るように自分たちを見ていた。
「俺の従者の言い分は、こうらしい。どうだ?」
ラグナは、手首の金十字をエルヴィンにも見せる。
――左手に教典を、右手に誓いを、唇には祈りを。
この意味を、他ならぬ教会に身を置く自分たちが、知らないはずがない。
「全て記録しました」
そう答える記録官の声が、わずかに震えていた。
「しかし、幾つかは今日判断することはできない。後日、追加質問を行うことになるでしょう。ですが……今日はこれまででしょう」
机に広がった資料をまとめると、エルヴィンが一度アイルを見て、言葉を継ぐ。
「最後に陛下にお訊ねしたい。彼の、拘束を外された理由は?」
「教義を受け入れる。そう言った者を赦すことが、俺の教皇としての責務だと思った」
ラグナの問いに、彼は表情を変えることなくそうですかと漏らす。
「記録官としては判断を保留するが、もうこれ以上は問いません。それでは、私は失礼いたします」
立ち上がったアイルが、左手を胸に当て一礼する。
エルヴィンは何も返さなかったが、その瞳は少しばかり優しいように、ラグナには見えた。
ばたんと重い音を立てて扉が閉まる。
ラグナが再び教皇印で施錠をする。
これでしばらくは時間が稼げる。
「座らせずに悪かった、椅子に座っていい」
「……気にするな。だが、ありがたくそうさせて貰う」
アイルが椅子に座るやいなや、少しばかり行儀悪く足を投げ出している。
「それで。あれが、お前の副官か?」
声が露骨に嫌そうで、ラグナは思わず笑う。
「そう。有能だろ?」
「……最悪」
「でも間違えはしない。俺に意見も言うぞ」
「はぁ。なるほど、信頼してるんだな。しかし副官、か」
先程までと違い、口数が少ない。
しかし、瞳は最初に会った時のように、折れていない。
「会いたくないか?」
「聞くな。もう次は無理だと思ってくれ。正直、心臓がいくつあっても足りない」
わざとらしい仕草で降参だと手をあげる青年に、ラグナは今度こそ声をあげて笑ってしまった。
「まぁ俺の副官だ。無理にとも、仲良くとも言わないが。邪険にしないでくれると助かる」
そこで口を閉じ、ラグナはアイルの様子を伺う。
疲労を滲ませているが、彼はどうしたといわんばかりに、僅かに首を傾けて見ていた。
言わなければいけないことがあった。
「アイル。俺は一つ、お前に返事をしてなかった」
ふと漏らせば、アイルがどこか楽しげな笑みを口元に浮かべていた。
「今更気付いたのか?」
「名前と誓いを受け取って、それだけで満足して……。一番大事な、契約の言葉を、交わしてなかった。本当に、あの内容でいいのか?」
ここで否定されてもいいと、ラグナは思っていた。けれど、同じくらい受け入れて欲しいとも。
「俺は、契約に従ってやっただけだ。だから気にしなくていいぞ。我が主。何度も言っている、俺は同意したと」
喉の奥で笑う青年に、ラグナもまた笑い返す。
「わかった。契約書を交わすか? 俺の従者殿」
承諾に、喜びが抑えられない。普段より早口になってしまう。
「やめろ、落ち着かない。記録に残るのは厄介だ。口頭でいいだろう。……しかし」
そう言って、アイルは机に置かれたままのペンを手に取った。
真っ白な紙に記されたのは、誓約書という文字だった。
私は導きの中に生きる者。
試練の末に、ここに選び取ることを誓う。
私はこの信に従い、この身をもって我らの法を守る。
私の名において、偽らず、私の道を歩むことをここに誓う。
流麗な筆致が神聖な文字を刻み、最後にアイルを意味する一文字が残された。
インクが乾いたことを確かめて、アイルが一度目を伏せた。
「これを、契約書のかわりに」
そう言って紙を押しやるアイルの手元には、教会の定める書式で誓いの言葉が、流れる筆跡で静かに記されていた。
「俺が改宗に同意したと、示せるだろう?」
アイルの左手が、置かれたままの教典をそっと撫でる。
ラグナは紙を受け取ると、慎重に人差し指を重ねて、印を押した。
「確かに、受領した」
淡い金の光が、この世でラグナだけが押せる神聖印の模様を描く。
それは誰にも否定できない、承認の証だった。
※
その後、契約は口頭で改めて交わされた。
アイルは、ラグナの在位中、その側に留まること。
ラグナはその代価として、在位中、異端者狩りを停止すること。
もし外部に露呈すれば破滅は避けられない。
故に、この契約は双方にとって絶対秘匿とする、と。