第6話 真実を綴る者
琥珀の燈が、紙塵を黄金に染めた。
彼は鎖が鳴らぬよう跪く。その瞳だけが、命令に背いている。
従順と称する記録は、果たして嘘か真か。
※
分厚い木製の扉が、静かに佇んでいる。
その前には金茶色の髪を肩まで下ろし、琥珀の瞳を眼鏡越しに細める男が一人。記録官の黒衣の裾が、わずかに揺れる。
その向こうの様子を、男――エルヴィンが知ることはできない。
神聖さを保つために幾重にも用意された障壁が、ただ一人、教皇を守るために存在しているからだ。
軽く、扉を叩く。
それで充分だ。聡い少年なら、こちらの意図を理解するはずだ。時間切れだと。
鍵の上に浮かんでいた金色の印が消え、扉が開く。
顔を出したのは、金髪の少年。金眼の教皇だった。
「陛下」
「わかっている。お前にも、すぐ報告が行くだろう。だがその前に、まずお前にだけ伝えておく。中に入れ、エルヴィン。俺が直接話す」
有無を言わさぬ声に、エルヴィンは頷いて従う。
ラグナの私室は、本来、信頼を得た者だけが足を踏み入れられる空間だ。
その場には、拘束を外された異端者が、黒衣をまとって静かに立っていた。
先ほどまで使用されていたのだろう。椅子が二脚。机の上には、外された手枷が無造作に置かれている。
「お前はそこで待て。エルヴィン、座って構わない」
異端者が、無言で礼をした。
所作に迷いはない。整っている。だが、礼に込められた感情は読み取れなかった。
ラグナは奥の椅子へと向かい、エルヴィンには手前の席が示される。
執務ではなく、尋問でもない。だが、記録は必要だ。
「記録します」
「ああ、許可する」
ペンを走らせながら、エルヴィンは違和感を手帳の片隅に残す。
あまりに静かすぎる。あまりに整いすぎている。
異端者にしては、整然としすぎている。それが、まず引っかかった。
青年が身に纏っているのは、教会が支給した黒衣だった。一見すれば、聖職者の礼装に近い。
だが、艶のない生地が、この男の立場を露わにしていた。服の着丈が合っていない。袖と裾は折り返され、肩が落ちかけていた。
それでも異端者の青年は、まるでそれが当然であるかのように、静かに佇んでいた。
「それで、私に話とは。異端者が改宗に、同意したと?」
後方の異端者に視線を向けるが、話題になった当人は平然としていた。
「上層部の長老に報告する前に、と思ったが流石だ。話が早い。そうだ、同意した」
淡々とした様子でラグナは言葉を継ぐ。
「教義は、受け入れると明言している。思想は……そう簡単に変えられるものでもない。追々で構わない」
「そうですか」
静かに返しつつ、エルヴィンは教皇と異端者の双方に視線を移した。
ラグナは堂々としていた。自らの選択は正しい。そう言いたげに、金の瞳がこちらを射抜く。
対して、異端者の表情は変わらず、思考が読めない。
異端者狩りの夜。あのとき、この青年は確かに感情を露わにしていた。
だが今、藍色の瞳はただ、静かにこちらを見ている。何も映してはいない。
「では異端者本人に、直接問うてよろしいか?」
「構わない。来い」
「……はい」
一拍置いてから、青年は静かに歩を進めた。
黒衣の裾を軽く払うと、迷いなく机の傍らに片膝をつく。その仕草に、無駄はなかった。あくまで自然に。だが、視線は前を向いている。
「あとはエルヴィン、お前に任せる」
そう言って、ラグナは背もたれに身を預け、傍観の姿勢を取った。
「それでは異端者。私は記録官、エルヴィン・ノクス・フィデス。貴方について記録を残します。偽りなく述べよ」
「仰せのままに。俺の名に誓って答えましょう。ただ……」
異端者は、静かに。
だが確かに、エルヴィンに覚悟を問う瞳を向けた。
「ただ。質問には答えますが、同胞の命の危機に繋がるなら回答をしません。構いませんか?」
承諾しなければ答えない。
今まで隠された思想が、感情がついに顔を覗かせる。
「いいでしょう。それでは貴方の名を述べよ。年齢は?」
「アイル。姓はない。歳は百六十五」
予想外の答えに、思わずペンが止まる。しかし、異端者の声に偽りの色はなかった。
「百……貴方は」
「そうです。ご存知でしょう、千年を生きるとされるアーレストルを」
知っている、記録上で。
百にも満たぬ寿命のヒューネイア。教会の人口の大半を占める人間だ。エルヴィンも、ラグナもそうだ。
対して、アイルが言うアーレストルは、文字通り千年を生きる。文献によればそれ以上とも。
「両者を隔てるのは、寿命と時間の流れだけのはず。外見からは見分けがつかない。それが、アイル。貴方だと?」
エルヴィンの問いかけに、アイルが首肯で返す。
「信じられないかもしれないが、信じてもらうしかない。俺たちは、見分けがつかないように、他でもない神がそう造られた」
アイルの声に、戸惑いの色が混じる。
「俺たちは、見た目は変わらず、老いることがない。だからこそ神々は俺たちを厭い、あなた方を生み出した」
「だが、簡単に信じられない。証拠は?」
アーレストルたちは、滅多に人里に現れない。
だから、アイルの告白の真偽を、エルヴィンは判断できなかった。
ラグナに目を向けてれば、彼もまた困惑したように首を振る。
「ならば、根拠を積み上げる。アイル、貴方の生まれはどこだ」
「そうしてください。生まれは西。今の教区なら、アリューシャ地区だったはずです。村の名はレテ」
アイルはそう答えた。記憶を辿るように目線を逸らし、再び前を向いた。
ラグナが立ち上がり、後ろの書架から地図を持ってくる。
エルヴィンはそれを受け取り、記録と突き合わせた。だが、その名を冠した村は存在しなかった。
エルヴィンは、静かにペンを止めた。
「……どういうことだ」
「やはり、もう記録には残っていませんか。百と少し前、山津波で村ごと流されたと聞きました。記録も、その時に失われたはずです」
感情を押し殺したような淡々とした声が、村の滅亡を告げた。アイルは目を伏せている。
「その件は、後日調査します」
アイルの証言を書き留め、エルヴィンはそう判断せざるを得ない。少なくとも今、答えを出すには資料が足りなかった。
だから、判断を下せない。
「……では、貴方の経歴について。いくつか記録が残っていますが、そこには短命種と記されている。その矛盾、どう説明しますか。過去の異端者狩りの妨害。これもアイル、貴方では?」
「俺の容姿が記されているなら、それは間違いなく俺でしょう。ええ、過去にも行っています。短命種と偽ったことについて?」
アイルが乾いた笑い声を溢した。
ほんの一瞬、彼は黙り、静かな声で続けた。
「神に、嫌われた種族だなんて。そんなもの、名乗れると思いますか?」
もっともな発言だった。
アイルの目が、止まってしまったエルヴィンの手に向けられ。彼の瞳に試すような色が宿る。
記録上、両種族の判別は困難だ。それを利用した。他ならぬ本人が、そう語ったのだ。
「では、アイルこれを」
エルヴィンは、思案の末、過去の資料を見ろと並べる。
いずれも、黒髪、藍眼、男――あるいは奇跡を模倣したと記されていた。
「立つことをお許しください。失礼」
立ち上がり、アイルは資料を手に取った。
まるで、それが習慣であるかのように、目で文字を追いはじめた。
目線の移動は早い。しかし読み飛ばす気配はなく、全てを理解しているようでもある。
数分して、資料を揃えてエルヴィンへ差し出すと、止める間もなく元の姿勢に戻る。まるで、それが正しいと信じて疑わないかのように。
「確認しました。記述された異端者は、俺で間違いありません」
「それでは拠点襲撃時に目撃された、奇跡について聞きたい。貴方は禁呪使いのはずだ。何故、奇跡の模倣。即ち、祝福と錯誤されたと考える?」
あの日、目撃した兵によれば、アイルは一切の手順を踏まずに奇跡を模倣した。
教会の与える祝福から、明白に逸脱している。
「禁呪か祝福か。その定義は、太陽神教会が定めたものでしょう」
僅かに、語尾が震えていた。
アイルが左手を握りしめたのを、エルヴィンは見逃さなかった。
「あなた方がそうだと定義したならば、俺がどう思おうと判断を覆すことはできない。それとも、俺の力を祝福として、記してくださるのですか?」
部屋に、エルヴィンが走らせるペンの音だけが響く。
ラグナが微かに首を振った。
教皇として、今判断を下さないという意思表示だ。
「記録として、教会がどう定義するかは別問題です。教会の判断とは切り分けます。――貴方のこの力が、アーレストルのものと一致するとは限らないのでは?」
「そうですか。教会の公正な判断を楽しみにしています」
微かに、アイルの目線の揺らぎがあった。
それでも、彼は言葉を手放さない。
「再三申し上げております。アーレストルとヒューネイアは区別がつかない。教会が、これらの区別を出来るというならば、話は変わりますが」
藍の瞳は、従順さを装いながら、問い返すような光を宿していた。
そうだ、演じている。時折、呼吸が乱れる。瞬きの回数が増える。
しかし、話す内容に嘘は含まれていない、そう感じた。
手を止め、エルヴィンは再度問いを投げようと口を開いた。
アイルの、本心を暴くために。
だが、わずかに震えたアイルの指先が、視界の隅でエルヴィンの筆圧を鈍らせた。