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祈りの残響にその名を呼ぶ  作者: 五月伊織
第1章 定義
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第5話 名を受けて

 迷いがなかった。躊躇いもなかった。

 祈る仕草は静かで、あまりにも美しい。

 まだ、触れてはいけないと思った。早過ぎる、と。


 ※


 誰にも見せてはいけないと、息を呑んだ。

 黒髪の青年の流れるような祈りに、ラグナは思わず自分の右手を左手首に重ねた。

 チリ、と鎖が鳴った。左手首の金十字が、静かに揺れる。

 誰が見ても、異端の青年の動作は祈りに見える。だってこれは、どうしたってこの人の本質に触れてしまう。いや、本当は触れたかった。でも、まだ早い。早過ぎる。

「アイルと、お呼びください」

 そう言って、青年が自身を『アイル』と定義した瞬間、世界の音が遠ざかる気がした。

 誰にも知られてはならない。

 アイルは、ラグナを信じて名前を捧げたのだ。この名を、奪うようなことはしたくない。

「俺を信じてくれて、ありがとう。アイル」

 名を呼んだ瞬間、アイルが僅かに身を強張らせた。何だと言いたげに、目線を向いてくる青年の姿に、胸が熱くなった。

 それほどの責任と信頼を、ラグナはこの青年から託されたのだと、理解した。

 同時に、

(このままでは、まずい)

 現実が足元に忍び寄る。

 この契約が露呈すれば、教皇の座を揺るがす火種になりかねない。それでは、契約どころか、何も、守れなくなる。彼の願いも、身柄も。

 少なくとも、エルヴィンに気づかれる前に、動くべきだ。

 あれほど欲しかった名を得たことを喜ぶより前に、先を考えてしまう。


「アイル――お前、どこまで俺に従える?」

「……? 意図がわからない。率直に言え。お前が契約を守る限り、従ってやる」

 片膝をついたままの青年――アイルは、本当にわからないという顔をしてラグナを見上げている。

「お前が、どこまで俺に預けられるか。それを訊いている」

 彼が差し出してもいいものと、そうでないものの差を、ラグナはまだ知らない。

 だから、覚悟を問うた。

「……命。それ以外ならば。もう名も渡してやっただろう?」

 藍色の目が、ラグナを迷いなく真っ直ぐに見ている。

「お前は、俺がひれ伏せと言えば従うのか?」

「それが、契約の条件として必要なら従ってやる。で、お前は何を焦っているんだ。状況がわからん」

 立ち上がったアイルは腕を組み、説明を要求する。

 はぁと、ラグナは息を吐いた。気が重い。

 先程、ラグナを主と呼んだ時から一変し、アイルは元の態度に戻ってしまっていた。

「エルヴィンに知られるとまずい」

「“真実を綴る者”、か。……ずいぶん古風な呼び名だな。それで、誰のことだ?」

「お前……俺の名前も意味で見ていたな。人をそんな風に見てるのか?」

 呆れとも感心ともつかぬ顔をして、ラグナは一瞬だけ目を伏せる。

「……話を進めよう。あいつは俺の副官。金茶色の髪の、記録官だ」

「ん? ああ、記録官。琥珀色の目の? 『記録はここで終わる』って忠告してきた奴か。なるほど」

 声の調子に、少し苦手そうな色が混じる。

 はじめて会ったあの日、居合わせたのを覚えていたらしい。

「記録官か。記録に残せば、いずれ契約が露呈するか。俺はともかく、ラグナ。お前の首は危ういようだが」

「わかってる。だからお前も、合わせてくれと。そういう話がしたかったんだ、アイル」

「契約がある以上それは構わない。俺としても、お前には長く教皇でいてほしいと、まぁ思ってる」

 ぽつりと落とされたアイルの言葉に、迷いの色はなかった。

「俺はそいつをよく知らない。お前には、策があるのか? 白状しておくが、今日の俺では分が悪い。腹を括っておけ」

 少しの自嘲が混じる青年の声に、大丈夫だとラグナは首を振ってみせた。

 無理もない。ずっと彼は独りで戦っていたから。

「この時間、俺は教皇として異端者を説得し、改宗を促している。そういう建前になってる。それが一番、自然だからな」

 ラグナは側近を私室から追い出した後、扉を彼だけが使える印で封じていた。現状出入りするには、ラグナの承認がなければ誰も通ることが出来ない。扉を封じているのは、この世でただ一人、ラグナのみが扱える『教皇印』と呼ばれる霊的な印だ。

 仮に破る者がいたとしても、それはラグナに逆らうことを意味する。

 この私室は、堅牢な造りになっており、音も外に漏れることはない。それは、歴代教皇が個人的な時間を守れるようにと配慮されている証でもあった。

 それを利用して、ラグナは契約を飲ませようとしていた。だが。

「……なら、お前が俺を改心させたことにすればいい」

 淡々とした口調で、アイルがそう告げる。

 彼の視線は、教典に向けられている。

「アイル」

「いいか、一度しか言わない。俺は教会の作法も教えも知ってる。教義も聖句の暗唱も、まぁできる、大体な。命令されても一部は絶対口にはしないが……だから俺の主人として、正しく使え」

 その言葉に、ラグナは納得してしまった。

 どうして、あの祈りが美しかったのか。その理由を。

「いいのか」

「俺がいいと言った。あいつらも喜ぶだろう? 教皇に従う異端者なんて、見た目には都合がいい。だから、使え。ためらうな」

 それに、とアイルは扉へ目を向ける。

「あの気配……お前の副官だろ。次に問われるのは、俺の正しさだ。覚悟しろよ」

 その時、こんこんと遠慮がちに扉が叩かれた。

「あいつのことだ。アイル、お前の経歴、思想、そういったものが記録に残る。気をつけろ、エルヴィンは虚偽を見破り真実を記録するんだ」

 封じを解除するために扉へ向かうラグナの背に、アイルが声をかける。

「ふん、なるほどな。ラグナ。覚えておけ――俺は、嘘を吐かない。俺はアーレストルだ」

 アイルの低く、よく透る声が、私室の空気を静かに貫いた。

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