第4話 名を知らない
名を呼ばれることなんてなかった。
人ではないとされた。だから、諦めた。
それなのに――どうして、知りたがるのだろう。
※
教皇私室。
それが、この奇妙な密談の会場だった。
この部屋に出入りが許されるのは、教皇が承認した場合のみ。
今は、誰にも許していないと、他ならぬ教皇自身がそう言った。
(……やりにくい)
だというのに、当の教皇ラグナはアイルの正面に座っていた。
向けられる金の瞳には、嫌悪も蔑みも、同情もない。
実際に、アイルだけを残して、護衛も側近も全て叩き出している。思わず正気を疑ったくらいだ。
あの日から一週間近く経った。
それを知った時、アイルは不機嫌さを隠す努力を放棄した。
建前として、アイルの目の前にも見ただけでわかる上質な紙とインク、ペン。
そして、教典が丁寧に置かれている。
理想的な話し合いの場だ。肝心の両手が、背もたれの後ろで拘束されてさえいなければ。
(……落ち着け、相手は子供だ)
暦を考えれば、教皇はまだ十五歳。
本来なら親の庇護下にあるはずの存在だ。
舌打ちしそうになるのを堪えて、アイルはただ教皇の動きを待つ。
異端者狩りの停止という願いを捧げた時点で、アイルの身柄は教皇の手に委ねられた。
表向きは教皇自身の手による救済、と言ったところだろう。
仮契約の後、アイルの記憶は途切れていた。手酷く扱う意図はないのか、聖都に移送される間、アイルの肩の傷は治療をされたらしい。
まだ傷は痛むが悪化はしていなかった。
だからこそ、混乱しているのだ。
アイルが目覚めたのは、昨日のことだった。もちろん自然な眠りではない。移送中の脱走を防ぐための処置だろう。目覚めた時、後に引く強烈な眠気が残っていた。
今、アイルはラグナから改宗を迫られている。
そう、名目上は。
――契約の場に引きずり出された。
これが、真実だ。
ただ、あの日と違って頭は回る。
「お前の目」
ちりとラグナの手首で、鎖が小さく音を立てた。その音が、アイルの思考を引き戻す。
「そんな綺麗な色だったんだな。藍色か」
見透かすような金の目に見られて、しまったと思う時にはもう舌を打っていた。
「ああ、そうだ。だが、それがどうかしたか、教皇」
「瞳に灰が混じってない、純粋な色だ。なぁ異端者。お前、今も禁呪を使えるんだろう?」
敵意はない、それは理解していた。
ただ、探るような眼差しが、怖かった。
「さてな。あんたらお得意の魔除け、こいつに仕込んでるだろ」
そこまで言い切って、アイルは後ろ手の拘束をわざとらしく鳴らしてみせる。つけられる人間のことを考えていない、鉄の枷だ。
「お前なら禁呪で壊せるだろ? いいぞ、教皇である俺が許す」
「はは、使えなくしてるのはそちらだろう?」
沈黙が落ちる。
あの金の目が、アイルの心の奥底を暴こうとする。
「どうして名乗らない?」
「……存在を。否定されたことがなければ、理解できないだろう。何故、そうまでして欲しがる?」
視線を外し、アイルは言った。
異端者と認定された者は、その名と共に記録から抹消される。
(この名を、奪われたくない)
それが制度として機能している以上、アイルも例外ではない。
だからこそ、
「俺が、呼べない」
ラグナの言葉に、動揺する。かしゃんと背後で枷が鳴る。
「お前を異端者ではなく、個人として定義できない」
ラグナは息をつくとおもむろに立ち上がり、ゆっくりした足取りでアイルの背に回る。
手首を取られた、そう認識すると同時に、外れた手枷が床に落ちる。
「――は?」
振り返ろうとしたアイルの右肩を、教皇の手が軽く抑えた。
「異端者。あの日途中で終わった、契約の続きをしよう」
※
ラグナの要求は至極簡単だ。
そばにいろ、これだけだ。
対するアイルの要求は、異端者狩りを停止すること。
「お前本当にこの願いでいいのか?」
ラグナのこの発言は、もう何度目だろうか。
「それでいい。出来ないなら早くそう言え。俺は出ていく」
アイルは机の上を指先でとんとんと叩く。
それでも、ラグナは理解できないといいたげな顔をしていた。
「異端者。どうして、お前は契約を受け入れたんだ」
変わり者の教皇の問いに答えるべきか、否か。
天秤にかけて、アイルは口元に右手を寄せる。
「……お前が契約を果たす限り、異端者狩りが行われない。五年か十年か、それ以上か。少なくとも、その間は誰も殺されない。だからだよ」
余生も同然の命なら、賭け金にしても惜しくはなかった。
「だいたい……さっきからなんなんだ。教皇。お前は、俺をどうしたいんだ」
「異端者、お前は本当に理解しているか? お前の全てを支配するぞ、言っているんだ。俺はただ、認識の齟齬を理由に契約を破棄されたくないだけだ」
「まぁ、どうなるかは想像がついてるさ」
よくて改宗。服従、従順、教義の強制。
どちらかが死ぬまで、教会という檻の中。
「だがいい。教皇、よく聞け。お前が狩りを停止するなら、俺には十分だ。お前が契約を守る限り、俺からは契約を破棄しない。これでいいだろう?」
事実を並べ立て、アイルは息を吐いた。
向かいに座るラグナは、どこか不服そうな顔をしている。
「なんだ、不満か? 何が足りない、何を差し出せばいい」
言ってから、舌打ちをする。
その隙を見逃すわけが、ない。
「名を」
――ほら。
「俺はまだ、お前の名を知らない」
「……だから、嫌だったんだ。教皇、知ってると思うが俺は異端者だ。教会から、教義から逸脱したとされる。だから」
「違うだろ。俺たちは生きている人間だと、他ならぬお前がそう言った。答えろ、異端者。お前が人間だと言うならば、お前の名を俺に聞かせろ。俺に証明して見せろ、お前が人であると」
投げ返された言葉に、今度こそアイルは言葉を飲み込んだ。
アイルは人間だ。
それを証明しろと言われてしまえば、もう拒絶はできない。まして、自分の言葉を返されてしまったのだ。
「……完敗だ。まいったな、返す言葉も浮かばない」
「だったら言え。言葉を練る前に、さっさと名乗って楽になればいい。逃がさないぞ」
命令というよりは、忠告の色が強い言葉に、
「ああ怖い」
と揶揄うように笑って、アイルは抵抗を諦めた。
深く息を吐いて、教典を左手で軽く撫でた。
ラグナの目と言葉に、信じることを選んだ。
仕方がないとばかりに立ち上がり、机を回って、ラグナの側に片膝をつく。
ラグナは黙ったまま、アイルを見ている。
だから、アイルも続ける。頭を下げたまま、左手首に祈るように唇を落とす。その上に右手を重ね、顔を上げ両手を捧げる――主人に。
「我が主、ラグナ・ルクス・エテルナ。私に名乗ることをお許しいただけますか」
「ああ、もちろん」
「私はアイル。思考し、意思を持ち、誓約する者……契約に敬意を込めて、この名を捧げる。アイルと、お呼びください」
アイルは、自身の名と共に、偽りなき本心を口にした。
少年の金の瞳が見開かれるのを見て、アイルは小さく笑った。