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第7話 人である証

 冬空の下、真実と虚構のあいだに私は立つ。

 記録の頁は、祈りよりも冷たく、正確だ。

 突き付けられた問いに、しかし、答えは返せなかった。


 ※


 エルヴィンは、揺れる手綱を片手に、もう片方で懐の手帳を押さえ込んだ。

 馬車の前後を固める護衛たちの鎧が、重い冬の空に鈍く光る。

 教皇ラグナの直々の配給現場への視察――本来なら議会が最も避けたい事態だった。

 しかし、あの少年の強硬な主張と、議会の根負けによって話は通ってしまった。


 そして、同時に持ち上がったのが、異端者アイルを同行させるという問題だった。

 ラグナが彼を「従者として側に置きたい」と言った瞬間、議場の空気が凍りついたのを、エルヴィンはいまだに忘れていない。

 異端者を教皇のそばに、まして従者として――それは本来、制度が最も忌避する境界の破れだった。


 しかし、調査報告はアイルを追い詰めなかった。

 連日続けられている、改宗教育と思想監査。

 エルヴィンが知る限り、アイルに異端的な言動は一切なく、むしろ教義理解の速度は常軌を逸していた。

(……初めて教える相手とは、とても思えない)

 エルヴィンより数歩先を、アイルは騎乗したまま進む。

 黒衣を脱ぎ、記録官用の深緑の士官服に身を包んだ青年。その姿は、見慣れたはずの異端者の像からひどく遠い。

 今日のアイルは、建前上は記録官見習いだ。

 左腕には見習い用の白の腕章。

 いつもの『祈れない靴』ではなく、記録官に与えられる『歩ける靴』が与えられている。

 異端者としての印を一つずつ剥がされ、制度に仮置きされていく過程を、エルヴィンは間近で見てきた。


 アイルの機嫌は傍目から見て悪かった。

 否、好転する余地などはじめから存在しないのだろう。

 エルヴィンの視線に気付いたのか、手慣れた動作で手綱を緩めたアイルは、その藍色の瞳を怪訝そうに向けた。

「どうかされましたか? 記録官殿」

「いいえ。いつもの黒衣でないのが新鮮だと、そう感じただけです」

 エルヴィンがそう言えば、アイルは呆れたように息を吐いた。

 その吐息一つに、百五十年の諦観が混ざっているように思えた。

 制度に押し込められながらも、どこか疲れた大人の余裕を崩さない。

 人ではない。話が通じない。神に背き、人を惑わせる――そういった『異端者』のイメージとはかけ離れた落ち着きだ。


 そして、エルヴィンの胸にひとつの疑問が浮かぶ。

(銀十字も持たぬ者に、どうして、こんな人間らしさが残っている?)


「いいですよね、銀十字というものは」

 エルヴィンの思考を他所に、平坦な声でアイルが言った。

「……それはどういう意味で?」

 エルヴィンがアイルに視線を向ければ、彼はわざとらしく左手首を持ち上げた。

 そこには、本来まだ許されていないはずの銀十字があった。

 だが、それは本物ではない。

 教会が、視察に異端者を同行させる以上、民衆に疑念を抱かせぬようにと、極めて政治的な理由で貸与した、仮初の十字だった。

「銀十字さえあれば、私のような身でも『人間』として扱われる。本当に、便利なものです」

 ちゃり、と銀鎖が小さく鳴る。

 その音は、本物の銀十字が鳴らす音よりも軽く、どこか空虚だった。

 アイルはその差を誰よりもよく知っているかのように、薄い笑みを浮かべた。

「――天地を造り終えた神々は、天より地に降臨された。太陽神リザーブが降り立った地、故に、リザービリアは神の名を冠し聖都とされた。太陽神は二振りの銀剣で大地に蔓延る魔獣を退け、人々は忠誠と崇敬の証として銀十字を身につけた……先日習いましたよ。本来、この十字は信仰の証明だったはずでしょうに」

 その語り口に、エルヴィンは息を呑んだ。

 誰よりも正確な、古語の発音と抑揚が色濃く残る。もはやとっくに失われた、伝統的な典礼の節回しで物語を語るのは、異端者だ。

 アイルは、鎖を弄ぶ指先を止めずに続けた。

「けれど今では、人であるかどうかを判別する首輪のように扱われている。信仰の証が、生まれた教区ごとに番号を振られ、個人を識別する身分証になり、人の価値を定める札になり、そして配給受領の切符になった。皮肉なものですね」

 言葉は穏やかだった。

 だが、その穏やかさこそが、エルヴィンには恐ろしく思えた。

 異端者は、こんな声音で語るものだっただろうか。

 記録官としての自分が長年信じてきた『異端者の像』が、ひとつずつ崩れていく。

 議会で読み上げられてきた無数の処刑報告と、この青年はどうしても結びつかない。


 しかし、騎乗した肩越しに揺れる横顔は、どこか遠い。まるで、もう存在しない何かを見ているようだった。

 エルヴィンの胸に、小さなざわめきが走る。


(……なぜ、貴方は教義の起源を、そこまで自然に語れる? なぜ、奪われたはずの信仰を、そんなにも大切そうに思い出す?)

 異端者ならば、信仰を捨てた者であるはずだ。

 異端者ならば、神を呪い、教義を冒涜するものであるはずだ。

 少なくとも、教会はそう教えてきたし、エルヴィンもそう信じて生きてきたのだ。


 だが今、自分の前を進むこの男は。

 仮初の銀十字ですら、まるで本物のように扱いながら、それを嘆いている。


 人である証。

 信徒である証。

 本来の意味を理解し、胸に灯し続けてきた者の声のように。

 手綱を握る指先が、冬の空気より冷たくなる。


 アイルの教義の飲み込みは、はたから見ても異様だった。

 立ち会ったエルヴィン以外の記録官たちも、表現は違えど同じ見解を示す。

 教理の条文を示せば、即座に引用と要点整理が返る。

 歴史解釈を問えば、現場経験を交えた視点と整った言葉が返る。

 聖句の意味を問えば、まるで何度も祈ったことがある者のように、呼吸のように語る。


 だからこそ、議会は余計に疑った。

 異端思想を巧妙に偽装しているのではないか、と。

 今回の視察にあたり、議会が提示した条件は残酷だった。

 アイルは教皇の従者ではなく記録官見習いとして同行させ、言動すべてを監視対象とする。

 異端の兆候があれば即座に拘束し、審問にかける。

 そして、本人にはその一切を知らせない。


 ラグナは、その条件を受け入れるしかなかった――というのが表向きの記録である。

 実際には、あの少年の目の奥に宿った怒りと諦念を、エルヴィンは見逃していない。


「しかし、アイル。私にそれを話して良いのですか?」

 言外に記録されるぞ、と告げる。

 それは記録官として当然の警告だった。

 だがアイルは、諦めに近い笑みを返した。

「良いですよ。どうせ後ろの護衛も、見習い腕章の私よりも、本当の役目を期待されてるのでしょう?」

 彼は肩をすくめ、軽く銀鎖を指で弾く。

「私の手枷を外し、走れる靴を履かせ、馬を与える。……まるで逃げてみろ、と言われている気分です」

 くつくつと笑う声音は軽い。

 しかし底に沈むものは、澄んだ湖面の下に潜む黒い水のようだった。

「逃げたらどうなるでしょうね?」

 唐突に向けられた問いに、エルヴィンは答えられなかった。

 背後で護衛が反応し、馬の首を揺らす。

 エルヴィンは片手を上げてそれを制し、前を向いたまま気配だけで警告を飲み込ませた。

 アイルがふと笑いを止め、馬を寄せる。

 冬の空気が揺れ、護衛たちが僅かに構え直す気配が伝わった。

「記録官殿――エルヴィン」

 やや声量が抑えられた声で、珍しく名を呼ばれる。

 アイルは大抵の場合、役職か階級を口にするからだ。

「陛下も、議会も、正気なのですか? 視察の強行も、異端者である私の外出も……私は申し上げたはずです。真冬の視察など危険極まりない、と」

 その声音には怒りも焦りもなかった。

 ただ合理と経験だけがあった。

 アイルは曇った空を見上げて言葉を継いだ。

「一週間降り続いた雨が、視察に合わせて止んだのは、まさに神の加護でしょう。しかし、雨天より曇天の方が、より悲惨な現実を招くのは周知の事実だ。高台の貯水槽も、とっくに底をついているはずだ。

 ――雨水がタービンを回さなくなって、何日経ったでしょうね?」

 アイルの藍色の瞳が、蒸気が消えた街並みを見まわした。

 本来なら、家々の屋根から白い蒸気が立ちのぼり、管路は一晩中うなりを上げているはずだった。

 だが今は、聖都のすべてが沈黙したままだ。

 吐息さえ凍りつきそうな曇天の下で、街は音を失い、まるで巨大な亡骸のように横たわっている。

「教皇塔の暖房も、一昨日から抑制されているでしょう。あれは、雨量に合わせて優先度が変わると、ラグナ様に説明されました。ラグナ様のご意志によって、あの塔の優先度は最下位に指定されていると。

 最優先は食糧プラントやインフラ施設。次いで病院、最後が生活区画。街全体では、蒸気も暖房の配給も、既に切られているはずです。そんな余力、とっくにないでしょう? 凍死者が出ていない方が奇跡ですよ」

 淡々と言うアイルの声には、ただ、長い年月の中で積み重ねてきた実感だけが宿っていた。

 そして、アイルの言葉は真実であると、エルヴィンは認めるしかない。

 エルヴィンは、それを数字と記録で知っている。

 おそらく、アイルは、それを凍える路地と凍死体の記憶で知っているのだろう。


 もうずっと、この教会と都市は雨に依存している。

 本来なら、太陽を曇らせ、聖なる光を奪い続ける忌まわしい現象であるはずだ。

 しかし皮肉にも、雨こそがこの街を生かしている。ボイラを焚くための燃料は、とっくの昔に枯渇寸前で、いまや厳重な管理資源になっている。

 代替として、雨水は高台から流れ落ち、巨大な落差でタービンを回す。タービンが蒸気プラントを動かし、そこで生まれた蒸気は管路を走り、熱と動力に姿を変えて街を巡る。

 暖房も、灯火も、配給所の搬送機も、礼拝堂の照明でさえも――すべては、この灰色の空が落とす水に支配されている。


 太陽神を讃える教会で、太陽よりも雨が重要なのだ。

 信仰と現実の優先順位が逆転して久しい。

 だが、教会は決してそれを認めない。

 信徒には恵みと教えながら、実際には街全体が雨量の上下に生殺与奪を握られている。

 そして曇天は、最も恐ろしい。

 雨が止まれば、タービンも止まる。

 蒸気が消え、暖房が落ち、街全体が凍りつくまで、そう時間はいらない。

「私が知る限り、真冬に曇天が四日以上続いた都市で、死者が出なかった例はない。飢えた民衆の前に、金髪金眼の教皇を晒すのです。……もし命を落とした者が既に出ているならば、民は誰を責めるでしょう?」

 エルヴィンの胸が冷たくなる。

 その可能性を、考えなかったわけではない。

 だからこそ、議会は視察を嫌がったのだ。

「……貴方は、どこまでお見通しなのでしょうね」

 エルヴィンが思わず漏らした言葉に、アイルはしばし沈黙し、わずかに目を伏せる。

「私は長命種です。ただ、人より少しばかり長く生き、多くを見ただけ。見通すなど、畏れ多い」

 静かな告白だった。

「ですが……ラグナ様は、私たちが二百年待ち望んだ神の器です。あの方が、ああいう性格なのは短い付き合いですが、流石に私も理解しました。あとは、何事もなく視察が終わることを祈るだけです」

 祈るような声で、アイルはそう言ったきり黙ってしまった。


(私は、記録官としてこの日をどう記すべきなのだろうか)

 異端者アイル、教皇ラグナの視察に同行する。

 事実だけを書けばそれで済む。

 そこに、彼が仮初の銀十字を、誰よりも人間らしい仕草で胸に押し当てていたことを、書き足すべきなのかどうか。

 それを記す瞬間、エルヴィンは「人である証」と「記録の冷たさ」のどちらを選ぶのだろうか。


 視察現場は近い。

 ラグナの乗った馬車に、護衛が横付けし並走しながら何かを伝えている。

 エルヴィンも沈黙のうちに、自身の左手首の銀十字にそっと触れた。

 何事もなくすむように祈りながら。

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