第4話 定義される祈り
議場の扉が静かに閉じられる音を、エルヴィンは記録した。
手元には、本日の議題と出席者の名簿。すでに全てが揃っている。
だが、ひときわ異質な存在が、そこにいた。
金髪金眼――神の象徴を体現する少年。
その身を包むのは、淡い白金の礼装。
胸元には太陽の刺繍。伝統と権威を示す紋が重なり、裾には古語の祈りが金糸で編み込まれている。
肩から垂れる厚手の外套は、聖都の冬すら拒む重みを帯びていた。その内側にあしらわれた光輪の紋は、彼が歩んだ信仰の路を象徴するものであると、エルヴィンは知っていた。
足元まで覆う装束が示すのは、『少年』の輪郭ではなかった。
――信仰、法、政治。
その全てを背負う、神の代行者の姿。
教皇ラグナ・ルクス・エテルナ。齢十五。
異端者を伴って戻った少年。
だが今、議場を見下ろすその姿に――誰一人として、若すぎるとは言えなかった。
しかし、同時に、議場の誰もが抱えている、不安そのものだった。
(最初の一手で、何を差し出すつもりか……)
記録官としての自分がここに座っている以上、傍観という選択肢はない。
エルヴィンは、教皇席に視線を移す。
その視線の先で、ラグナは堂々と座していた。背筋を伸ばし、手を組むその姿は、一言一句が記録されることを知る者のそれだった。
「ルクス・エテルナ陛下」
議会に満ちた重い静寂を破ったのは、議長を務める初老の男だ。
「本日はお呼び立てして、誠に申し訳ございません」
形式通りの挨拶。
さらに議長が口を開いた途端、
「ルクス・エテルナ陛下、だ?」
ラグナの、硬い声が落ちた。
「俺を、そう呼ぶつもりなら返事しない。声が欲しいなら名を呼べ」
溜息混じりにそう言って、ラグナは椅子にもたれた。
「どうせここに、民はいない。俺とお前たちの仲だろ?」
左手を軽く振り、そう要求する。
(こちらが、溜息を吐きたい)
予想していたとはいえ、エルヴィンは眉間に指を寄せる。
あの人の、悪い癖だ。
議長はわずかに言葉に詰まり、周囲に視線を泳がせた。数名の議員が、咳払いのような息を吐く。空気が、一瞬にして濁った。
「……ラグナ様」
議長が選び直した名は、ぎりぎり許容されたものだった。
正式な場で、教皇に『様』を付けるのも、その名を呼ぶことも、本来教会の形式上あり得ないことだ。
だが、それでもラグナは返事をした。
「それでいい。さあ、続きをどうぞ」
椅子にもたれたまま、ラグナは淡々とした口調で促す。
その言い方が、むしろ議会全体への試しだった。
エルヴィンは目線だけを下げ、手元の議題書に視線を落とした。
『異端者の身柄について』
すでに異端者――アイルは改宗に同意し、教会が定めた書式に則り誓約書を提出した。教会に属し、太陽神リザーブを主として敬うことに同意した。教皇ラグナは、自らの名と教皇印により、それを承認した。
もう、書類の上では信徒なのだ。
(何を、議会は要求するのやら)
エルヴィンは、そっと手帳の角を折る。
教皇印は、絶対承認を意味する。
それを覆すことが出来るのは、教皇自身か神か、どちらかしかない。
制度が揺れているのではない。
制度を揺らす者を、どう定義するか──その線引きだ。
書類をめくる音が響いた。
「異端者が改宗の意思を示し、誓約書を提出した件について……。本会議は、教皇陛下のご裁可と、その法的効力を確認したく、召集いたしました」
「確認?」
ラグナの声が、軽く跳ねた。
まるで、呆れて笑う直前のような音だった。
「アイルの改宗は、もう既に、教皇印により承認されたはずだ。信仰に関する裁決は、俺の領分だろう。それとも、お前たちには記録が見えないのか?」
エルヴィンは咄嗟に表情を動かさなかった。
だが、議席の一角で数人の議員が微かに表情を曇らせるのを、確かに見た。
(やれやれ……完全に、挑発している)
ラグナは、わざと火種を撒いている。
感情を煽り、議論の場を選択の場へと変えるつもりだ。
だが、それは最悪の手ではないとエルヴィンは理解していた。
この場にいる誰もが『言質』を求めている。
ラグナの意志と覚悟を、議事録の上に刻むために。
エルヴィンは、その全てを記録するために、ペンを走らせる。
「……一言、よろしいでしょうか」
口火を切ったのは、左翼の列に座る一人の女性議員だった。凍るような青い瞳が、真っ直ぐに教皇席に向けられていた。
ラグナが鷹揚に許可を出し、彼女は一礼し口を開く。
「件の異端者が、形式的な改宗の手続きを経たことは、承知しております。ですが、信仰とは形ではなく心の在り方……。制度上は信徒であっても、それだけで信頼に足る存在と判断するのは、早計ではありませんか?」
鋭く、言葉の刃を突き付けたのは、議会で異例の若さ。気鋭の才媛と呼ばれる人物だ。
黒衣に身を包み、金の縁取りがされた法服の袖からは、若くもしなやかな指が覗いている。その肩を、銀茶の髪が滑り落ちた。
その言葉運びは冷静で、しかし、ひとつひとつの語尾が鋭く研がれていた。
彼女の発言には、幾人かの議員が頷きを見せる。
(……ここで言葉を割り込ませるあたり、相変わらずだな)
エルヴィンは目元を伏せ、心の中でそう呟く。
「信頼、ね」
対するラグナは、つまらなさそうな口調で、言葉を継いだ。
「教皇印も、誓約書も、祈りの姿も足りない、か。では問おうか。お前たちは何を見れば、人を信じる? その定義を、聞かせてくれ」
言葉の責任を、相手に渡す。そして対象を議員全員に広げる。
それがラグナの戦術だった。
「定義を曖昧にするからこそ、制度が必要なのです。信仰の正しさを裁定するのは、教皇お一人ではない」
彼女――セラフィナ・クレドは、そう言い切った。
「うん、そうだな」
ラグナが、金の瞳が細められる。
エルヴィンは、ペンを握る手にそっと力を込めた。
「だけどさ。制度上は、俺の声は神の声とされてる。この辺り、お前はどう処理するつもりだ?」
さしもの才媛も、言葉を失った。
(あの言葉を、正面から否定することは難しい……)
エルヴィンですら、反論が思い浮かばない。
金色の髪と瞳。
それは、太陽神リザーブが地上に降り立つ時の姿だと伝えられている。
故に、太陽神教会ではその象徴を持つ者を、神の意志を継ぐ存在――現し身として崇めている。
教皇ラグナは、まさに二百年ぶりに誕生した正統な神の代行者だ。
(彼の言葉は、即ち、神の声。これを否定することは、信仰を否定することになりますが)
エルヴィンは、そっと襟の釦をひとつ外す。
彼の視線の先では、議員たちが顔を見合わせていた。
「陛下」
長く続く沈黙を破るために議長が呼びかけると、
「はは、悪ふざけが過ぎたな」
ラグナが笑い、雰囲気を一転させる。
「俺は言ったよな。祈りについて、建設的な議論を始めようって。そもそも、制度上はさ。建前がなんであれ、今の俺は何の権力も持たない。……十六になるまでは」
そうだろう、と言いたげな目が議場をぐるりと見回し、最後にセラフィナを射抜く。
「だけど、同時に俺は、お前たちの話を聞く必要がない。この身に宿す金は、神の色。俺は、太陽神の現し身だ。故に、教皇印ひとつでお前たちの声を封じられる。それもまた、制度で定められたことだ。でも、俺は対話を選んだ。それをわかってるだろ?」
制度上の『正しさ』を、少年は淡々と語る。
それが全て間違っていないと、エルヴィンは知っていた。
彼がその気になれば、議会など必要ない。
印ひとつ、声ひとつで、全てを動かせるからだ。
今は年齢を理由に制限はあれど、ラグナがその名の元に意志を示せば、誰も否定することができない。それが、教会の制度だ。
ラグナが笑って続けた。
「それで。アイルの身柄が、なんだって?」
それは、議題を問う言葉というより、明らかな挑発だった。
誰が、どこまで踏み込むか。
誰が、神の代行者に抗おうとするか。
議場全体が、次の一手を誰が担うかを探るように、沈黙の間を共有していた。
「教皇様、僭越ながら」
重々しく口を開いたのは、異端審問の総責任者であった。
「その者が形式上、信徒となったことに異論はございません。ですが、かつて禁忌を犯した者が、神の御前に立ち続けることに――どうしても、心が納得いたしません」
同意のうなずきが、列を伝う。
(来たな)
エルヴィンは記録しながら、その発言が制度の中にある信仰の、感情論であることを察知していた。
空気が静まり返る。
彼の言葉には、セラフィナすら頷いた。
「心が納得しない、と?」
ラグナが、つぶやくように返した。
「では聞こう。お前たちは、罪を犯した者を、何と呼ぶ。罪人か? ならば、己の罪を悔い改めた場合は?」
静けさの中で、ラグナが言葉を重ねる。
「答えは、信徒だろう。悔いて、祈って、赦されたいと願った者を、俺たち教会が見捨てるというのか?」
その声に、誰もすぐには応じない。
「違うだろ。少なくとも、俺は――俺の教会に、そんな場所になって欲しくない。祈りたいと願う者に、祈る場を与えられないような……そんな教会であってはならないんだ」
金の瞳が伏せられる。
手が祈りのかたちに組まれた。
「少なくとも、俺が知るアイルは、真剣に祈っているよ。行動制限が課されているから、わざわざ朝と夜に祈りの時間を申請して――ああ、記録官エルヴィンに聞けばいい。信用できないなら、記録局に申請書を見せてもらえ」
一瞬、ラグナの目がエルヴィンに向けられる。
「彼が信徒たり得るか。それを決めるには、まず俺たちが彼の祈りを見て、決めなきゃいけないだろ?」
ラグナの声が、静かに広がった。
質疑の嵐は、まだ序の口に過ぎなかった。
この場の誰もが、教皇の声と自らの正しさとを天秤にかけている。
議場の空気は、いよいよ張り詰めていく。
――この先、誰の祈りが届くのか。
それを記すのが、エルヴィンの役目だった。




