第3話 届かない祈り
声は聞こえた。けれど届かなかった。
誰かの死も、誰かの祈りも。
だから俺は、歩いていく。
※
「俺の立場上、行かない方がいいのはわかった」
ラグナは、アイルの瞳を見てそう告げた。
「それでは」
問いかけるように言葉を継いだのは、エルヴィンだった。ラグナはすぐに返さず、窓の外に一度だけ視線を投げる。
降りしきる雨が、硝子の向こうで霞んでいる。
ラグナは、首を振って否定した。
「違う。エルヴィン、お前はアイルがいう光景を、見たか?」
エルヴィンが、わずかに眉を寄せた。
珍しく、彼は言葉を選ぶ様子を見せる。
やがて、琥珀色の目が、ラグナの真意を見定めように向けられた。
「……この目で見たことがあります。十年前の南部地区。記録には残しませんでしたが、民のひとりが……配給を奪われ、凍死しました」
部屋の空気がわずかに変わる。
予想できた知らない現実に、ラグナは唇を噛んだ。
アイルの目がわずかに動いた。何を感じたかまでは読めなかったが、予感のような色がよぎった気がした。
「残さなかった? 記録官が、ですか?」
アイルのその声には、戸惑いとほんのわずかな怒りが混ざっていた。彼にとって、記録にされない死とは、二重に奪われることに等しいはずだ。
けれど、エルヴィンの表情には揺れがなかった。その静けさの裏に、明確な覚悟が見えた気がした。
「正直に言えば、記録官としてではなく、人として。その死を、紙の上に載せたくなかったのです」
執務机の上に置かれた書類の端に、エルヴィンの指がそっと添えられる。ただ触れているだけ。けれど、その動作は祈りに似ていた。
「記録官とは『教会の事実』を記す者です。真実ではなく、あくまで『制度の記憶』として。それは、時に祈りを補強する盾となり、時に異端を断罪する刃にもなります」
エルヴィンの言葉に、アイルが無言で眉をひそめる。
その横で、ラグナも静かに視線を伏せた。
聞きたくはない。でも、聞かなければならない。それが、ラグナの責務だった。
「記録は赦しではありません。ただの証明です。だから私は――あの死を、誰かの正しさのために使わせたくなかった。記録に残さないことでしか、守れないものもあると信じたのです」
その言葉に、部屋の中が沈黙する。
時計の音も聞こえない。ただ、外の雨が一段と強まる。
「俺は、そのやり方を認めてる。それが正しいかどうか、俺にはわからない。だから、知っても咎めていない」
そう言ってラグナは椅子を離れ、窓辺へと歩み寄る。
硝子に映るのは、まだ子供の自分だ。
後ろに立つ、大人たちには到底及ばない。
「お前たちの意見はわかった。でも、俺は行かなくちゃいけない。行かなかったら、俺は一生、ここで命令を出すだけの飾りだ。飾りが祈っても、誰にも届かないだろ」
感情を乗せないようにしたかった。でも、無理だった。
アイルは視線を落とし、エルヴィンはわずかに目を細めた。
「なら、せめて護衛はしっかりと付けてください。ラグナ様。俺は、ここ最近の市井の様子を知らない。もうずっと雨が続いている。用心するに越したことはない」
その言葉に、ラグナが返事をする前に、アイルの視線がエルヴィンに向けられる。
無言のやりとりの末、エルヴィンが目を細め、ほんのわずかに肩を竦めた。
「その点はご安心を。私が手配しましょう」
言葉にしてしまえば、ただの実務命令だ。
けれどその響きには、かつて記録に残さなかったひとりの死者への鎮魂があるように、ラグナは思えた。
沈黙の間を縫うように、アイルが身じろぎをする。
その態度には、すっかり従者としての所作が戻っていた。先ほどまでの私語の空気は、どこにも残っていない。
「さて、記録官殿。私への用事は済みましたか?」
声の調子も、完全に切り替わっていた。
まるで何事もなかったかのような敬語。
アイルの本性を知っているラグナから見ても、仮面の張り替えが見事だった。
「仕事上は。個人としては、いくらでもありますよ」
エルヴィンはあっさりと応じたが、皮肉にも挑発にも寄らなかった。
それは、記録官としての礼儀。あるいは、遠慮、だろうか。
「では、その話は次回ということでよろしいでしょうか。――ラグナ様、礼拝の時間ですので」
そう言って、アイルはふたたびラグナへと顔を向ける。
左手を胸に添えたその所作は、従者ではなく、祈る者としての礼節だった。
それでもその瞳には、未だ消えぬ怒りと、冷たい諦めの色が、静かに宿っていた。
「貴方、本当に改宗したんですね」
ふいに投げかけられた言葉に、アイルが足を止めた。扉に手をかける寸前だった背が、ゆっくりとこちらへ振り返る。
その顔には、ほんのわずかに呆れが浮かんでいた。まるで、「まだ疑いますか?」とでも言いたげな表情だった。
「でなければ、わざわざ早朝と夜に礼拝堂を使わせてくれ、なんて頼みませんよ。申請の記録もあるはずですよ」
その声には、微かに怒気が混ざっていた。
丁寧な言葉遣いの奥で、感情が押し殺されているのが分かる。
エルヴィンがわずかに眉を動かした。
「私は、一般信徒や聖職者との接触を、あなた方によって禁じられていますからね。人がいないこの時間しか、私は祈ることを許されません」
吐き捨てるような言葉ではなかった。
けれど、その事実そのものが、痛ましかった。
「不満か?」
ラグナの問いは短く、静かだった。
窓辺に寄りかかったまま、視線だけをアイルに向ける。
「……正直に申し上げますと、不満です。教会は、私に神と教会への忠誠を求めました。しかし、同時に私には無数の制限が与えられています」
アイルが手枷をそっと鳴らす。
皮肉のようにその音が部屋に響いた。
これは制度に否定され、届くことが許されなかった、痛みを伴う祈りだ。ラグナはそう感じた。
それでも祈る彼の姿こそが、ラグナには本物に見える。
アイルは、手を降ろさない。
枷の重みを言葉の一部のように、語り続ける。
「心にあるはずの信仰や祈り――これを形で制限されるのは、どうにも納得がいかないのです」
視線を落とし、一度だけ、足元の靴に目をやった。そして何事もなかったように、まっすぐラグナの瞳へ戻す。
エルヴィンがその一連の動きを見ていた。
ラグナは彼に視線で合図する。
――行かせるぞ、と。
「わかった。行ってこい」
アイルは、左手を胸に添えて深く一礼する。
「感謝いたします。礼拝が終われば、私はいつもの部屋に戻ります。それでは、お二人に祝福がありますよう」
そのまま、黒衣の裾が扉の向こうに静かに消えていった。
執務室に残ったのは、教皇と記録官、そして窓を叩き続ける雨だけだった。
「彼の部屋、今もあの監査部屋ですか?」
エルヴィンの問いに、ラグナは頷くことなく答えた。
「寝泊まりは、そこだな」
あの狭く冷たい部屋で、青年はずっと過ごしていた。彼は、真冬に夜露を凌げるだけましだと、最初の頃に笑い飛ばしていたけれど。
ラグナは、その本心を怖くて聞けていない。
「まぁ、そろそろ移動させるけど。……あの靴だけでも、どうにかならないのか?」
最後は、ほとんど独り言のような呟きだった。
苛立ちを隠せなかった。無意識に、手首の金十字に触れていた。
「アイル本人が、アーレストルと申告しましたので。あの種族の身体能力を鑑みれば、制限は当然の措置かと」
エルヴィンの返答は静かで、事務的だった。
だが次の瞬間、自分の銀十字を指先でなぞるように触れながら、皮肉を含んだ視線をラグナに向けた。
名乗った以上、制度上は妥当な処置だ。
理屈はわかる。けれど、ラグナの心は納得しない。
制度の責任者として。
「アイルが、いつでも逃げ出せると知っていてもか?」
その言葉に、エルヴィンはわずかに目を細めた。エルヴィンは『契約』の存在を知らない。
だから、アイルが何故ラグナに従っているか、理解しきれていないはずだ。
「要求したのは、手枷ごときで安心する方々ですよ? 彼に制限があるほど、都合が良いとさえ、考えるでしょう」
エルヴィンの回答に、ラグナは嘆息する。
わかっているのだ。
枷や靴が、制度を正しさに見せかけるための、道具に過ぎないことを。
ラグナは何も言わず、机の前に戻る。広げられた書類へと視線を落とした。
書類の文字が、ぼやけていた。
現実も、アイルのことも、祈りの意味も、あの枷の重さも。ラグナ自身にも、まだ掴めていないのだ。
「まぁ、まずは俺が、議会に祈りのかたちを証明しなきゃいけない。言葉より、歩く姿で」
自嘲と決意の混ざった声が、静かに室内へと広がった。
その声に、エルヴィンは何も返さなかった。
ただ、記録官としてではなく、人として、そこに立ち尽くしていた。
窓の向こうで、雨だけが、変わらず降り続いていた。
※
議会から、議題の通知が来たのは前夜だった。
『異端者の身柄について』
感情の見えない、均質な文字が並んでいた。
異端者とされた青年は、改宗し、誓った。
制限されたまま、祈っている。
それでも、異端者の存在が許せなかったらしい。
誰もが有り難がっている制度の上では、既に彼は信徒であるというのに。
議場に向かう道すがら、思い出してラグナは拳を握った。
「神の声が、聞こえたらいいのに」
そうだったなら、神託として議会に差し出せた。神の意志だと、全てを退けられた。
でも。
(神託は下らなかった。なら、俺が。自分で勝つしかない)
議場の入り口。分厚い木の扉を押して開けば、空気は一気に重く、鋭いものにかわる。
品定めでもするような、無数の視線がラグナを貫いた。
それでも、ラグナは平然さを装って、一段高い自らの席についた。
「教皇ラグナ、召集に応じ参じた。さあ、祈りについて、建設的な議論を始めようか」
この議場では、正しさよりも、信仰よりも。
声の大きさが試される。