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祈りの残響にその名を呼ぶ  作者: 五月伊織
第1章 定義
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第1話 若き教皇と祈りの残響

 その瞳が欲しいと思った。

 恐怖にも絶望にも染まらず、ただ真っ直ぐ自分に向けられた瞳。

 だから、契約を持ちかけた。


 ※


 幼な子が地に落ちた花を拾い、親に笑いかけている。

 ラグナだって本当は、一緒に笑いたかった。

 けれど、教皇の座に就いた日に、それはもう、手放すしかなかった。


「教皇様」

 信徒たちの手が次々に揺れた。

 ラグナの誕生日を、祝福する言葉が重なる。

「教皇、か」

 ――ラグナじゃない。

 あの子は、笑っていた。

 誰も、ラグナを見ていない。

 ただ、金髪に金色の瞳。ラグナの持つ象徴を通じて、ただ太陽神の姿を重ねて見ているのだ。

 ただ、教皇という在り方だけを、ラグナは求められていた。瞳の色など、生まれつき授かるものなのに。

「それほど、求められていたのか」

 神の代理人である限り、少年ではいられなかった。

 誰か、一人でいい。

 ラグナを呼ぶ声があったなら、どれほど楽だったか。

 現実は残酷だった。求められるのは、個ではない。名前のない偶像だ。

 ラグナは、意識して息を吐く。

 肩口まで伸びた金の髪を一房、指先で摘んだ。

 周囲の大人からは、髪を伸ばしてくれと言われていた。

 民が安心する姿だと、そう信じ込まされて。

「……」

 馬車の中でラグナは息を吐いた。

 表情の筋肉が、役目を終えたかのようにほどけた。

(祭儀も終わった、はずだったのに)

 肩にかかるのは、何百もの祈りの重みだった。


「ラグナ様、至急ご報告が――異端者です」

 馬車の外から、抑えられた声が届く。

「言え」

 そちらを見遣れば、十近く離れた青年の琥珀色の目が、馬上からラグナを見下ろしていた。

 見下ろされているという感覚は、不思議と不快ではなかった。

 信頼でも服従でもない。もっと別の関係だ。

「失礼します。こちらが取り急ぎ報告書です、お目通しください」

「……異端者、ねぇ」

 窓越しに、馬上の青年が書類を手渡す。

 受け取る際、ひやりとした外気に手が震えた。

 書類には、短い文面ながら記録官らしい几帳面な文字で、灰金のインクが淡々と事実を並べていた。


異端者を発見。

狩りにて捕縛済。抵抗あり。

一般市民への被害はなし。

詳細不明。尋問予定。


 ラグナは読み終えると、苛立ちを隠すことなく軽く指で紙を弾く。

「巡行中、異端者狩りは行わない。そのはずだろ?」

 言外に命令はどうしたと滲ませる。

「急遽行われたと記録されてます」

「俺は聞いてない。誰の指示だ」

 ラグナの声音が、冷たく低く落ちた。

 記録官は答えず、ただ視線を下げたまま返さない。

 ラグナは少しだけ、唇の裏側を噛んだ。

 答えなど、最初からわかっていた。

 ――それでも、ぶつけずにいられなかった。

「現場判断だと、私は聞かされています」

 青年は、あくまでも記録された事実を読み上げる。

 ラグナは、視線を書類から外さなかった。

 怒っていると見せず、だが一言も許してはいなかった。やがて、ラグナは嘆息すると短く命じる。

「巡行が終わった後、現場に視察に行く。お前が迎えに来い」

 その声には、異議を唱えさせない威圧が込められていた。


 街は、教皇ラグナの巡行に沸いていた。

 長く空席だった、教皇の座を受け継いだ少年を乗せた馬車が走る。

 道中は、どこまでも華やかだ。

 この日のために、季節外れの黄と白の花びらが敷き詰められている。本来なら咲かぬはずの花だ。温室で育てられ、祈りの形として撒かれた。風がそれを巻き上げるたび、信徒の祈りが天へと流れていった。

 ラグナは口元に笑みを浮かべていたが、その心はすでに馬車の外にあった。

(異端者狩りが行われた。何故、今?)

 頭の中で何度も繰り返されるのは、そのことばかりだった。

 本来ならば、ラグナの承認が必要だ。

 知らぬうちに行われた行為に、心が重くなる。

「……先が思いやられる」

 馬車が止まったのは、程なくしてからのことだった。


「この後は?」

「陛下のご負担を考慮し、本日はこれ以上の公式予定を組んでおりません」

 降車するラグナを迎えた神官は、平伏しながら言葉を継いだ。

「そうか」

 ラグナの返事は短く淡々としていた。

 ――やはり、指示が行き届いていない。

 あの記録官ならば、抜かりなく手配はしているはずだが。

「どうか、ゆるやかなお時間をお過ごしください」

 ラグナは一瞬振り返った。

 彼に許されていたのは、神の名を背負う現実だけだ。室内の影の中に踏み込むと、鐘の残響が途切れる。

「では俺は休む。お前たちも下がっていい」

 それだけを伝えると、扉は静かに閉ざされた。

 扉の奥で、教皇という仮面は静かに外された。


 夕刻。

 ラグナは、寄せられた報告書に目を通していた。

 まだ政務の大半は、代理の大人たちが取り仕切っていた。教皇の決裁が必要な案件も少なくない。

 それらに目を通し、整った筆跡でラグナ・ルクス・エテルナと署名を記す。

 最後にラグナは、右手の人差し指と中指を重ね、書類の右下に軽く触れる。接触した場所を中心に、淡い光が生まれ――そしてすぐに、消えた。

 ラグナが指を離すと、そこに、淡く金色を帯びた印が浮かんでいた。

 やがて銀灰色に落ち着く印は、教皇の名ではなく、ラグナ個人が示す信頼の証だった。


 一通り目を通し終えた頃。

「陛下。視察の準備が出来ました」

 ようやく、迎えの声が聞こえる。

「待ちくたびれた――けど、助かる」

 誘う声がなければ、ラグナは外に出ることは出来ない。

 扉の開閉すら、他者の手に委ねられるのが、彼の日常だった。

 誰よりも権力を持つのに、それでいて、誰よりも不自由で無力なのだ。

 書類を引き出しにしまい、上着を手に取る。ラグナは、扉へと向かった。

 この現実は、少年の肩に問答無用でのしかかる。

 そのすべてを背負ったうえで、この少年が選び取る契約が、教皇という仮面の意味すら、変えてしまうかもしれない。

 ラグナは扉を開いた。

 現実と制度への抗い方すら、まだ、知らぬまま。

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