表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

後編

「は、は、上……」

 顔や腕から珠のような大粒の汗が浮かび、荒い息を吐きながら政宗は呼び掛ける。だが、返答は無い。沈黙で全てを悟ったみたいだ。

 大きくふらつきながらも立ち上がった政宗は、ゆらゆらと揺れながら部屋から出て行く。立つ際に倒れた膳の上の食べ物や皿が散乱する中、遠くから嘔吐(えず)く音が室内に響いた。

「兄上!!」

「放っておきなさい」

 追いかけようとする小次郎へ、冷たく言い放つ義姫。座るよう促してから、義姫は言葉を継ぐ。

「藤次郎は(じき)に死にます。これからは其方(そなた)が伊達家の当主となるのです」

 淡々と語る母の口振りから、小次郎も何が起きたかを察した。

 戦わずして豊臣の軍門に(くだ)る決断を下した政宗を軟弱者と捉えた義姫が、毒を仕込んだのだ。台所から座敷へ運ぶ際、侍女(じじょ)に持たせた水溶性の毒を吸い物に入れさせた。どの膳に毒が仕込まれているかは鯛の大きさを見れば分かる。政宗の膳が提供される前に毒見が行われるが、調理段階では毒が混入していないので事が露見する心配はない。失敗など有り得なかった。政宗であろうと、実の母が毒殺するとは思わないだろうから。

 その義姫も、胸が痛まない訳ではない。しかしながら、この手しか残されていなかった。全ては伊達家を守る為。……仕方なかったのだ。

 政宗を葬れば『関白殿下の(めい)に従わなかった不届者を始末した』と首を差し出して降伏する事も出来る。抗戦するにしても恭順するにしても、政宗の存在は害悪以外の何物でもなかった。小次郎を当主とする新生伊達家こそが、生き残る最善の道だと義姫は確信していた。家を守る為なら、鬼になる覚悟だ。

 顔面蒼白になる小次郎は戦国乱世で少々頼りないかも知れない。けれど、母である義姫が支えていけばいい。最悪、兄の手を借りる事も。

「小次郎……」

 膝を寄せて近付こうとする義姫。そこに――。

「――申し訳ございません!!」

 突然、声を上げ平伏する侍女。この者は政宗の膳を運んだ者。つまり、毒を入れた実行役だ。

如何(いかが)した?」

 自らの侍女に訊ねる義姫。この者は義姫に仕える侍女の中でも古株で、義姫からの信も厚い。今回の(はかりごと)を命じた際も息を呑みながらも受諾してくれた。当然、相応の見返りを約束して。この期に及んで罪の重さに耐えきれなくなったとは考えにくい。政宗が苦しんでいる様を見れば、寸前で躊躇(ちゅうちょ)したとも思えない。

 ならばどうして、この侍女は謝るのか。義姫は理解が出来なかった。

「実を申しますと……」

 僅かに頭を上げた侍女は、今にも泣き出しそうな顔で打ち明け始めた。

 毒見役の検分を済ませて賄方(まかないがた)から膳を受け取った三人の侍女は、座敷へ向けて歩き出した。その内の一人、政宗に出す膳を持つ侍女は最後尾にあり、歩く途中で秘かに隠し持っていた毒を吸い物に入れた。前を歩く二人の侍女に気付かれる事もなく事を完了させ、あとは政宗に出すだけ……あと少しの所で(かみしも)姿の近習数人が進路を塞ぐように前に立った。

『もしもの事があるかも知れぬから、今一度毒見を行う』

 一方的な命令に侍女達は困惑し反発したが、有無を言わさぬ雰囲気で膳を受け取ると各料理を一口ずつ確認していく。そして――政宗に出す吸い物を(さじ)一掬(ひとすく)い含んだ近習の表情が強張(こわば)る。直後、他の近習達が寄って幾つか言葉を交わすと、予め用意してあった椀と取り替えた。

 毒を入れたのが発覚してしまった――。真っ青になる侍女へ、(かしら)と思われる近習がこう耳打ちした。

『何事も無かったように振る舞うように。……我々は見ているからな』

 暗に監視されている事を示唆(しさ)され、侍女は観念した。義姫に事が露見した事を明かせば、間違いなく始末される。報酬も大切だが命の方がもっと大切だ。侍女は指示された通りにするしかなかった……。

 侍女から事の顛末を明かされ、天を仰ぐ義姫。恐らく、直前に現れたのは家士ではない。政宗直属の忍び“黒脛巾組(くろはばきぐみ)”の仕業(しわざ)だろう。

 戦国乱世も年数を経過し、版図を大きく広げる勢力も出始めた。特に東国では優れた忍び集団を抱えている武家が頭角を現す傾向にあった。武田信玄の“三ツ者”、上杉謙信の“軒猿(のきざる)”、北条家の“風魔(ふうま)”……といった具合だ。諜報(ちょうほう)攪乱(かくらん)の重要性を鑑[かんが]みた政宗は自らの手足となり動く忍び集団を新たに創設。黒い脛巾(はばき)を履いていた事から“黒脛巾組”と呼ばれていた。

 その黒脛巾組が暗躍したのが、天正十三年(一五八六年)十一月十七日に行われた人取橋(ひととりばし)の戦いだ。二本松家の降伏を巡り拉致(らち)された末に命を落とした輝宗の弔い合戦をすべく二本松城を攻めた政宗だが、政宗の存在を脅威に感じていた佐竹家・蘆名家に反伊達の諸侯が合力し大軍勢で迫ってきたのだ。その数、(およ)そ三万。対する伊達勢は二本松城へ押さえの兵を割いたのもあり七千と圧倒的な数的不利であった。十七日に開戦した戦では数で上回る連合軍が圧倒して政宗自身も矢弾を受ける程に形勢は悪かったが、猛将・鬼庭(おににわ)左月斎(さげつさい)良直(よしなお)殿(しんがり)を務め食い止めた事で何とか逃れられた。夜を迎えた事で生き延びたものの伊達勢は十七日の合戦で大損害を出しており、朝を迎えれば滅亡するかも知れない……それ程までに悲愴(ひそう)感が漂う伊達勢は、夜が明けると目を疑った。連合軍の姿が、忽然(こつぜん)と消えていたのだ!!

 連合軍の主力である佐竹家の重臣・小野崎義昌が陣中で刺殺される事件が発生。さらに本国の常陸(ひたち)国に敵対する勢力が迫っていると報せが入ったのもあり、大慌てで撤退してしまった。佐竹勢の離脱で連合軍は核を失い、他の家も兵を引かざるを得なかった。この内、敵対勢力が迫っているとする情報は偽りとされ、陣中での刺殺事件と合わせて黒脛巾組が噛んでいるという説がある。端的に言えば、黒脛巾組の暗躍で政宗や伊達家は救われたのだ。

 親子の会食であろうと毒殺の恐れがある可能性を排除しない政宗の警戒心の高さには、義姫も思わず舌を巻いた。相手が一枚上手だったかと思う一方、疑問も湧く。

 どうして政宗は、毒で苦しむ様を演じたのだろうか。

 毒が入っていないと分かっている以上、演じる必要性などない。さらに言えば、台所から座敷へ運ぶ途中に毒が混ぜられたにも関わらず、実行役の侍女に釘を刺すだけでそのまま行かせている。普通なら(とら)えて指示した者を吐かせるのが筋なのに、だ。

 少し考えた義姫は、ある仮説に辿り着く。

(……この母を、立てる為、か)

 毒を仕込んだのに失敗すれば、母の面子(めんつ)が潰れる。それを避ける為に、敢えて苦しんでいる様を演じて見せた。あとは退出した後に『急いで吐き出した』とか『常に持ち歩いている解毒薬を服用した』と理由を付けて流せば、一命を取り留めた整合性がつく。母の面子を守りながら生き延びるにはこうした筋書きが無難な落とし処だろう。

 あれだけ疎んじていた末に殺されかけても、あの子は私を母と思っているのか。先程まで我が子が座っていたところを眺めながら、義姫はぼんやりとそんな事を考えていた。


 翌日、天正十八年四月七日。小次郎、自害。享年二十三。

 伊達家当主である政宗が未遂とは言え毒殺されそうになった以上、誰かが責めを負わなければならなかった。政宗の命で自害したとも、責任を取って自ら腹を切ったとも言われるが、実際のところは分からない。(いず)れにせよ、無害だった弟の死でこの件の幕引きを図ったのだ。

 この後、数日間の療養を経て黒川城に戻った政宗は、四月十五日に小田原へ向け出発。ただ、最短経路は同盟を結んでいる北条家の領地を通過せねばならない上に宿敵である佐竹家の妨害も予想された為、一旦黒川城へ引き返した。先に豊臣家へ臣従している上杉景勝・徳川家康に領内通行を申請し、両名から許可を取り付けた五月九日に再出発。越後・信濃・甲斐を通る迂回路で六月五日に小田原に到着した。遅参(ちさん)(とが)められて箱根で蟄居(ちっきょ)させられたが、最終的には(ゆる)されている。惣無事令違反で会津領は没収されたものの、旧蘆名領を除く七十二万石を安堵されたのは改易(かいえき)の可能性もあった中では上々の内容と言えた。

 一方、義姫は……毒殺の件は触れられず、その後も伊達家に留まった。文禄(ぶんろく)二年(一五九三年)に政宗が朝鮮へ出兵した際には義姫の方から戦地の政宗へ手紙を送り、政宗も朝鮮の土産と共に手紙を返すなど、母子の間で雪解けが見られた。しかし、文禄三年(一五九四年)十一月四日に突如出奔(しゅっぽん)、実家である最上家へ戻った。この出奔の理由についてはよく分かっていない。ただ、最上家が跡継ぎを巡る御家騒動の末に元和(げんな)八年(一六二二年)に改易された時には行き場を失った義姫を政宗が受け入れている。仙台城に入った義姫は落飾(らくしょく)し“保春院(ほしゅんいん)”と号した。

 元和九年(一六二三年)七月十六日、保春院死去。享年七十六。

 一時は食事に毒を盛る程に母子の関係は悪化したが、政宗は母のことを恨んでいなかった。(むし)ろ、これをキッカケに関係が修復に向かったとも捉えられる。その胸中は如何許(いかばか)りか。それは当事者同士にしか分からない――。


   了


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ