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前編

 天正十八年(西暦一五九〇年、以下西暦省略)四月。米沢城の義姫(よしひめ)はある悩みを抱えていた。

 義姫、天文(てんぶん)十七年(一五四七年)生まれで現在四十四歳。最上家に生まれた義姫は永禄(えいろく)七年(一五六四年)に伊達家十六代当主・輝宗(てるむね)の元に嫁いだ。最上家は羽州(うしゅう)(出羽国)探題を代々継承する名門、伊達家は鎌倉時代から脈々と系譜を受け継ぐ名門で、この婚姻は当時悪化していた関係を修復する狙いが込められていた。

 政略結婚で伊達家に嫁いできた義姫だが、只者ではない。天正(てんしょう)六年(一五七八年)に夫である輝宗が二つ上である兄・義光(よしあき)を攻めた際には兄の窮地を救うべく駕籠(かご)で輝宗の陣中に駆け付け、夫を説得した上で兵を引かせている。また、天正十六年(一五八八年)に兄・義光が伊達領へ侵攻してきた時には、五月に義姫が両軍の間に自らの駕籠を置いて停戦を結ばせている。さらに、永禄十年(一五六七年)には戦国乱世でも勝ち抜けるような優れた跡取りを授かるよう祈願して出羽三山の湯殿の湯に浸した幣束(へいそく)を寝所に(まつ)ったところ、ある夜に白髪の僧が枕元に立ち「宿を貸して欲しい」と頼まれたので了承したところ、翌日に懐妊した……という逸話が残されている。この当時、結婚してから三年以内に子が授からなければ“石女(うまずめ)”の烙印を押され離縁の対象にされるだけに、義姫は結婚三年目にして結果を出したことになる。正しく“女傑(じょけつ)”と呼ぶに相応しい胆力と行動力の持ち主だった。

 その義姫は、最近ある事に頭を悩ませている。先述した逸話で誕生した嫡男・政宗についてだ。

 出産に至る一連の経緯から“梵天(ぼんてん)(幣束の別称)丸”と名付けられた政宗は、元亀二年(一五七一年)五歳の時に疱瘡(ほうそう)天然痘(てんねんとう))に罹患(りかん)。一命は取り留めたものの右目を失明してしまったのだ。この一事にひどく失望した義姫は次男・竺丸(じくまる)(現在の小次郎)を溺愛するようになり、梵天丸を疎んじるようになった。輝宗にも五体満足でない梵天丸を廃嫡して竺丸を跡継ぎにするよう何度も薦めたが、輝宗は頑として聞き入れなかった。

 当時の奥羽は各勢力が縁戚関係で結ばれ、武力衝突が起きても第三者の勢力が仲介して決着させるやり方が横行していた。しかし、政宗はこの“ぬるま湯”とも言える慣習に(とら)われず、滅亡させてでも勢力を拡大させていった。こうした苛烈なやり方に危機感を抱いた勢力が共闘して政宗は苦戦を強いられる場面もあったが、政宗は運を味方に付けたのもあり奥州(陸奥(むつ)国)屈指の版図を持つまでに成長させた。天正十五年(一五八七年)に関白・豊臣秀吉の命で惣無事令が発せられたが、まだ秀吉の影響力が及んでなかったのもあり政宗はこれを無視。天正十七年(一五八九年)六月五日、摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名(あしな)勢を破った政宗は蘆名領を併呑(へいどん)し、約百十四万石と日本屈指の版図を持ち奥羽地方の覇者に躍り出た。

 ただ……同年十一月三日、関白・豊臣秀吉の裁定により真田領だった上野(こうずけ)国・名胡桃(なぐるみ)城が北条家の(はかりごと)で奪われる事案が発生。これを惣無事令違反と断じた秀吉は北条攻めを決めた。伊達家と同盟を結ぶ北条家は徹底抗戦の構えを見せるも、天正十八年三月二十九日には天嶮(てんけん)で知られる箱根・山中城が僅か半日で落とされ、四月一日には豊臣勢の大軍が小田原城を包囲した。身動きが取れない北条勢を尻目に、別動隊が関東に点在する北条方の城を次々と攻め落としていった。

 これには流石の政宗も慌てた。関東の大部分を掌握する北条家がこうも易々(やすやす)と豊臣勢の侵入を許すとは想定しておらず、このまま快進撃が続けば豊臣勢の大軍が奥羽へ雪崩れ込んでくるのは時間の問題だった。北条攻めに動員された兵は二十万という途方もない数で、地の利があるにしても太刀打ちできるものではない。滅亡覚悟で矜持を貫くか、家名を残す為に恭順するか。伊達家中は侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が盛んに行われた。

 家中が真っ二つに割れる中、義姫は強硬な抗戦派である。今でこそ関白の座に就いている秀吉は、元を正せば尾張の水呑み百姓の生まれというではないか。何処(どこ)の馬の骨とも分からぬ輩に膝を屈するくらいなら死んだ方がマシだ。義姫はそう思っていた。

 伝え聞くところでは、政宗も当初は義姫と同じ考えだった、らしい。曖昧な表現になっているのは母子の間が疎遠であるが為に他人を介して届く情報から判断するしかなかったからだ。ところが、最近になり恭順へ傾きつつあるとか。北条方の劣勢に勝機は薄いと捉え、近日中にも小田原へ向かう手筈を整えているとか。

 何と、情けない。一戦も交えず降参するなど有り得ない。かの島津家も九州へ侵攻してきた豊臣勢と干戈(かんか)を交え、最終的に薩摩(さつま)大隅(おおすみ)の二ヶ国安堵を勝ち取っている。そんな弱腰では猿面冠者(さるめんかじゃ)見縊(みくび)られてしまう。先祖代々受け継いできた土地と誇りを、政宗は何と思っているのか。

 このままではいけない。義姫は政宗の関東行きを阻止すべく、ある事の実行を決めた。


 天正十八年四月六日。義姫は政宗を米沢城に招いた。関東へ向かう事は既に伊達家中に広まり、生きて故郷の地を踏めるか分からない息子に母からせめてもの(はなむけ)をしたい気持ちを形に示したかった。

 東館の座敷には、義姫と小次郎が政宗の到着を待っている。米沢城は政宗の祖父・晴宗(はるむね)の頃から伊達家の本拠とし、黒川城へ本拠を移した後も準本拠の格付けにあった。義姫や小次郎は黒川へ移らず米沢城に留まっていた。

 やがて、廊下からこちらへ歩いてくる足音が近付いてきた。足音だけで誰が来たか義姫は分かった。

 姿を現したのは――政宗だ。

「お久しゅうございます、母上」

 伊達“藤次郎(とうじろう)”政宗、永禄十年八月三日生まれで二十四歳。家督を継いで六年、苦難を乗り越え百十四万石の太守になったからか、若年ながら威厳や風格が滲み出ていた。

「藤次郎……」

 思わず、声が漏れる。疎んじていたが、政宗から発せられる王者の(たたず)まいに義姫も心を揺さぶられた。

 戦国乱世を勝ち抜ける強い子になってほしい。その願掛け通り、政宗は立派な武将に成長した。近頃では(とう)の猛将・李克用(りこくよう)(なぞら)えて“独眼竜”と呼ばれているとか。竜を生んだと思えば義姫も誇らしい気持ちになる。

「小次郎、息災にしておったか?」

 義姫達の向かいに座った政宗が、弟に向けて声を掛ける。

 伊達“小次郎”政道(まさみち)(但し、政道の(いみな)を示す公的な史料は発見されてない)、永禄十一年(一五六八年)生まれで当年二十三。兄・政宗とは一つ違いで義姫も片目を失った梵天丸より次男の竺丸を後継にすべきだと推したが、梵天丸が家督を継承する事が既定路線だったので部屋付きの身として育てられた。また、小次郎の祖父・晴宗の母が蘆名盛高の娘だった血縁から、天正十四年(一五八六年)十一月二十一日に当時三歳で蘆名家の当主だった亀王丸が夭逝(ようせい)した際にはその後釜に推薦された(蘆名家臣団が協議の末に佐竹義重の次男・義広を受け入れた為、実現せず)。

「はい。兄上もお変わりありませんか?」

 素直に応じる小次郎。兄に向ける瞳には憧憬(しょうけい)が込められていた。

 親兄弟で家督の座を巡って争う乱世にありながら、小次郎に野心めいたものは一切無かった。自分が一番になりたい、もっと上に上がりたい、そうした気持ちに欠けていたのだ。これが当主なら大問題だろうが、小次郎の立場なら“忠実な弟”と振る舞っている限りは命を取られる危険はない。

 二人の間柄は、幼い頃から一貫している。才気煥発(さいきかんぱつ)な兄とそれを(した)う弟。野望を抱いていないからこそ、政宗も胸襟(きょうきん)(ひら)けるのだ。父・輝宗亡き今、家族の中で政宗が一番仲の良い相手は小次郎で間違いないだろう。

 互いの近況を語り合っていると、膳が運ばれてきた。内陸の米沢まで生きて運ばれた鯛を焼いたものに、鶴の吸い物、他にも珍味が幾つも載せられている(ぜい)を尽くした膳になっている。

「ささ、冷めない内に頂きましょうか」

 義姫が促して、政宗も小次郎も箸を取る。

 まず政宗は、鯛の身を(ほぐ)してから口に運ぶ。主賓(しゅひん)に当たる政宗は小次郎や義姫のものと比べて一回り大きい。ゆっくりと咀嚼(そしゃく)して味わっている政宗。その様子を義姫は自分の膳に箸を付けながらチラリと流し見る。

 続けて、政宗は吸い物の入った椀を手に取る。汁を(すす)った政宗は余程美味しかったのか顔を綻ばせている。

「……近々、関東へ向かうと伺いました」

 さり気なく義姫が話を振る。それを受け、政宗も一旦箸を置く。

「えぇ。黒川に戻ってから一両日中には()とうと思います」

 答える政宗の表情も、どこか堅く険しい。秀吉(実際はその家臣)から再三に渡る上洛要請を無視し、先に豊臣家へ臣従していた蘆名家を滅ぼした。自らの立場が危うい事は政宗も重々承知しており、今更秀吉の元に出仕したとしても惣無事令違反で斬首に処されても不思議でなかった。ただ、政宗を処罰した場合は伊達家が滅亡覚悟で徹底的に抗う事となり、奥羽は間違いなく争乱の渦が起こる。天下統一を目前に迫る秀吉からすれば、実現が遠のく事態は何としても避けたい。大幅な減封(げんぽう)が落とし(どころ)となろうが、こればかりは関白秀吉の胸三寸次第だ。

「相手が関白であっても、必要以上に(へりくだ)ったり(おもね)ったりしてはなりませんぞ」

「はい。伊達の血を(けが)すつもりはありません。矜持を侵されるならば、一矢報いる所存にございます」

 義姫の指摘に、はきと答える政宗。恭順する道を選んだが、鎌倉時代から受け継がれてきた家の誇りを捨てる気は無いみたいだ。その気概(きがい)を聞けて義姫もホッとする。小次郎も兄の気高い姿勢に目をキラキラと輝かせていた。

「もしもの時に備えて藤五郎(伊達成実(しげざね)の通称)や叔父上(留守政景(まさかげ))を残していきます。私が討たれた、さ――」

 話していた政宗の言葉が、突如途切れる。直後、胸を押さえて苦悶し始める。(にわ)かの豹変(ひょうへん)に小次郎は心配そうな表情を浮かべ駆け寄ろうとする。

 やっと、か。苦しむ我が子を前にしても義姫は冷静そのものだった。

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